■6 やつあたり
おにいさんの見開いた目が揺れて、暫くの間が空いた。やがて、ひゅ、と思い出したように喉を鳴らして、ゆるゆると目蓋が戻る。痛むかのように眉間を押さえたので、すぐに瞳は見えなくなった。
「つまり、おまえ、この船で殺されて、魔物に」
「うん。あれ、言ってなかったっけ、そうかも。そうだよ。しにたてほやほやだよ。何日前かは、もうよくわかんないけど」
そっか。幽霊に目に見える鮮度は無いし、おにいさんはわたしがもっと前に死んだ霊に見えていたのかもしれない。だから、この船にわたしの弟が生きて居ることにも、物事の近さにも驚いたのだ。
おにいさんは、顔を真っ白にして、眉間から下げた手で口元を押さえた。改めてわたしを見て、船の底の方を見て、信じられない、と言う表情をする。信じたくない、かもしれない。そりゃあそうか、自分が寝起きしていた足下で――騙された子供が、殺されていたのだ。
倫理的な良識があるらしいおにいさんは、くそ、と小さく吐き捨てて、乱暴に頭を掻いた。それから、続けろ、と低く促してくれる。余裕の無いわたしは少し、安心した。わたしを哀れんでくれるなら、きっとノノに、良くしてくれる。
「えっと、それでね、よくおぼえてないけど、わたし、死んじゃったの。ノノはね、治癒魔法がとくいなの。でも、だめだった」
でも、と続ける。続けるしかない。
「ノノ、魔法、止めないの。わたし、起きないのに」
「それ、は」
「わたしの死体にね、お水を飲ませてくれるの。心臓とか、頭とか、筋肉とか、たぶん、魔法で、腐らないように、血液とか、めぐらせてるの。呼吸をさせているの。死んでるのに、諦めてないの」
その光景を想像したのか、一拍、相槌の間が空いた。
「――ずっとか」
「うん。気絶するまでね、魔法を使うの。目が覚めたら、また魔法を使うの。ずっと、ずっと。あの船乗りが死体を取り上げようとするとね、あばれるの。船乗り、不気味がって、あんまりこなくなったの。だから、ひとり、ずっと」
今度こそ、おにいさんは言葉を失って口を閉じた。わたしだって、頭がおかしいと思う。ノノは、変だと思う。普通じゃない。でも、でも、わたしのせいなのだ。わたしのためなのだ。かわいいかわいい、守らなきゃいけない、かわいい弟なのだ。
「ノノには今のわたしは見えないし、きこえない。だから、わたし、なんにもできなくて」
だから、楽にしてあげたくて。いっしょにいたい。くるくると、だめだ、また、揺れる。呼吸をする。ぎゅっと目を閉じて、開く。まだ、まだ折れちゃだめ。まだ、ノノが、がんばっているんだから。
「ずっと、ずっと、ずっと。ノノが、ひとり、だから、このままじゃ、ノノが、こわれちゃう」
わかった、とおにいさんは短く言うと、立ち上がった。立ち上がって、くれた。
「あんたの名誉より、弟の保護を優先する。それ以上は難しい」
「ノノをたすけてくれるなら、なんでもいい」
わたしが躊躇い無く頷くと、おにいさんは青白い顔のまま舌打ちをひとつして歩き出す。ぷかぷかついていってもなにも言われなかったので、その背中を追いかけた。
――それから、話は驚くほど早かった。
船の責任者に会いに行ったおにいさんは何らか、恐らく教会の信徒としての身の証を立てた上でわたしとノノの事を話していく。多少脚色が加わって、わたしたちはもっと悲劇的に騙されたかたちになったし、魔物と化したわたしは危険因子として立派に語られた。
それを信徒として、大人として、訴える。今はその弟の存在で魔物の理性が残っているけれど、一刻も早く保護しなければ何が起きるかわからない。おにいさんが子供の保護と諸々の手続き、罰金の担保までを約束し、その上で連れだって確認に向かえばわたしが案内した先にはもちろんノノとわたしが居る。積み荷の中で死体を抱えて気絶した子供の姿にてんやわんやの大騒ぎ、わたしたちを騙した船員は拘束されて、ノノはおにいさんに保護された。
気絶していたノノもさすがに目を覚まして、警戒して強ばった真っ白な顔でそれでもわたしの死体を手放さない。その様があんまりにも哀れで疑いようが無かったからか、密航のことは一旦咎められなかった。おにいさんと船長さんが暫く話して、ノノとついでにわたしも個室でおにいさん預かりとなった。
遺体を粗末に扱うと魔物が暴走する恐れがある、らしい。今のわたしは、弟を守る為に我を失いかけている――と、ノノには聞こえないようこそりと話していた。船乗りとは信心深いものらしく、なるほど、と存外にあっさり受け入れてくれた。
そうして、本当にあっさりと。ノノは粗末ながらも明るい寝台の上に、寝転がっていた。
何度でも言うけれど、ノノは頭が良い。聡明で記憶力がよくって要領がいい、わたしの自慢の弟だ。そんな彼はじっとおにいさんを見て、けれど礼のひとつもなくまたわたしの死体に寄り添った。ちらっと視界に入ったのだけれど、さっき落ちた指先にはいつだかねえさんがくれた安っぽいてらてらひかるハンカチが巻かれている。だから、代わりにわたしが慌てて頭を下げた。
「え、えっと、ありがとう、ございました」
おにいさんはわたしをちらりと見て、ノノを見て、わたしの死体を見る。眉間にぎゅっと皺を寄せて、こつん、と一歩足音を鳴らす。
「――それは、死体だ」
一言目、見えている地雷をおにいさんは明確に踏みに行った。わたしの喉がぴいと笛みたいに鳴る。死ぬほど吃驚した。
ノノは顔を跳ね上げて、おにいさんを睨みつける。普段柔らかな印象しか与えなかった柔和な瞳が、これほど険を帯びるのを初めて見た。
反論するでなく、ただわたしの身体を抱き寄せる。細くて小さな手で、細くて小さなわたしを抱えている。――わたしより小さかったから、弟だった、ノノ。いつの間にか、体の大きさは殆ど変わらなくなっていた。きっともうすぐ、すぐに、追い越される。
「弔いは、手伝う。だから、手を離してやれないか」
それは、どちらかといえばわたしの尊厳に寄り添う言葉だった。ノノは頭が良い子だ。本当は、わたしが死んだ事なんて解っている。だけど、子供だ。簡単に飲み込んで受け入れることなんて、出来ない子供だ。
残酷な正しい言葉は、普通に子供に向けるような優しい慰めより、もしかするとノノにとっては寄り添った言葉だったのかもしれない。わたしを想う言葉だと理解したノノは、おにいさんを否定する第一声を失った。ひどいや。
「……なんで」
ノノがやっと音にした声は、掠れて、弱々しくて、あんまりにも哀れだった。胸が痛い、血が下がるみたいに視界が色を失っていく。痛い。いたい。心臓が、こんなにも締め付けられる。
「なんで、ぼくなの」
泣き続けてからからになったのか、別の理由か、いまはもう涙は出ていない。ランプの元で、明るい場所で見るノノは青白い顔で、それこそ死人みたいだった。ちかちか、目眩がする。
「なんで」
喉が痛むのか、声に咳が混じった。お水をのんで、眠ってほしい。ゆっくりゆっくり、やすんでほしい。
「なんで、姉さんを、たすけてくれなかったの」
一人で生き残ってしまったノノは、からからの声で、ぼろぼろの心で、そう言った。
仕方が無い。わたしが死んで、魔物になって、だからおにいさんに助けを求められたのだ。どうしようもなかったのだ。
性質の悪い八つ当たりだ。ノノだけでもたすかったのはおにいさんのおかげだ。礼も言わず責めるなんて、何一つ道理にかなってない。だけれどおにいさんは憤らずに目を細めて、わたしとノノを見た。
「悪い」
「ぼくじゃなくて、姉さんを、たすけてよ」
「死者は生き返らない」
「やだ」
「悪いな」
いやだ、いやだ、とノノは死体にすがりつく。わたしの名前を呼んでいる。わたしの指先は、ぴくりとも動かない。
おにいさんはただただ、ノノが気を失うように眠るまで八つ当たりを受け続けていた。
投稿の予約を弄ろうとしたらうっかり三話目を公開してしまったので早速「連日一~二話投稿します!」が嘘になりました。そういうこともあります。