■5 さわる
哀れな幽霊の嘆きに、おにいさんはすぐに返事をしなかった。賢明だと思う。
いつの間にだか水平線に太陽は沈んでいって、空はすっかり暗くなっていた。夜の海は沈めば一生上がって来れなさそうなぐらい黒くて、深い。そんな上にぷかぷか浮かぶ船の上、おそろいにぷかぷか浮いてじめじめしているわたしをおにいさんはじいと見下ろした。
「弟がいんのか」
「はい。まだ、生きてるの。わたしじゃ、なんにも、できなくて」
「どこに居んだ」
生きてる、と聞いて息をのんだおにいさんが痛ましげな顔のまま聞くので、私は船倉の方を指さした。
「そうこ、きばこの、なか。でも、その……」
「この船の中に居んのかよ。いや、待て、しかも、密航か?」
まじか、と言いたげに眉間に険が乗る。そこはもう言い逃れが出来ないわたしたちの罪なので、反省してます、と顔に描いてしゅんとする。弱々しく、哀れに見えるように、肩もすぼめて落としてみせる。まあ、元々と大差ない風情だけれど。
「船員さんが、こっそり、連れて行ってやるって」
「あー」
なるほど、と、諸々を理解したらしい呻りが続く。そのまま天を仰ぐので、困っているのが明らかだった。
まあ、そうだろう、と思う。だからわたしだって助けを求めるのを躊躇ったのだ。無関係な他人が損得抜きに助けられる善意の範疇外なのだ、密航中の見ず知らずの身元の不確かな浮浪児なんて。この海のど真ん中、船の上で出来る大人の立ち回りなんて窮屈に限られてくるだろう。助ける理由なんて、善意か、それなりの価値でしかない。前者に頼るしかない、情けなくてみっともない無力なおばけなのだ、わたしは。
「なんか伝手はあんのか」
「親は、居なくて、おせわになってた娼館は、火事になって、にげてきた。おとなりの国に保護してもらおうって、船、乗ったの。ノノは、魔法が、すごいから」
「そいや、小火騒ぎあったな、あれか」
どうやらおにいさんはおんなじ街から乗り込んだらしい。心当たりに頷いてから、うーんうーんと呻り、困り顔。――哀れな子供がピンチと聞いても咄嗟に走り出しもしない、駆けつけもしない、ヒーローじゃないらしいおにいさんに身勝手なわたしの心がしおしお萎んでくる。やっぱり、都合が良すぎるお願いだった。やっぱり、やっぱり。やっぱり。くるくる。
「逃げてきた、っつーのは?」
ぐ、と言葉が詰まる。出来るなら誤魔化したかったけれど、仕方がない。
「……弟は、治癒の魔法がとくいなの。顔もきれいで、頭も、すごく良いの。――店主に見つかったら、売られちゃう、から。ねえさんたちが、ただの雑用しかできないんだ、ってかくしてくれてたの」
ぱち、とおにいさんは瞬いた。わたしも、未だにどうしてねえさんたちがそこまで親身になってくれたのかは解らない。どうしてあんなに、慈しむ目で、愛してくれたのか、わからないのだ。哀れな子供であることは確かだけれど、それは特別なものじゃあないのに。
「ただの雑用だったら、もう雇うよゆうがなくて、でもねえさんたちが死にかけてるのも見捨てられなくて」
「――だから、治療して、発覚する前に逃げ出した?」
おにいさんが継いでくれた言葉に、こくりと頷いてみせる。完璧な治療は出来なかったけれど、それでも違和感を抱くぐらいには手を出してしまった。店主に、愛してくれない大人にみつかったら、便利で天才なノノと不便でつまらないわたしは引き裂かれてしまっただろう。だから、一緒に生きるためには逃げ出すしかなかったのだ。その結果がこれなのだから、もう笑うしかない。
「たすける、の、むり、ですか」
世の無情に、声がよわよわにしか出ない。弟は、ノノは、そろそろ目を覚ましただろうか。また、魔法を使っているのだろうか。まだ、正気だろうか。起きているときに沈むのは怖いだろう。木箱の中で何にも見えないまま、数多の悲鳴を聞くのはあんまりにも残酷だ。ああでも、魔物になるためには、感情を抱くには、起きてなきゃいけないだろうか。わからない、わからない。
「港に着くまで、保ちそうか」
――船乗りを穏便に糾弾するにも、弟を救うのでも、法の明確な区分がある陸地でなくては難しい。責任と権利には所在がある。わかる、わかるのだ。だってわたしは見た目通りの子供じゃなくて、前世の記憶を持った幽霊なのだから。おにいさんにとって、不明瞭な危険と負担が勝ちすぎる。損を上回る得を、わたしは、差し出せない。言っている言葉の含む意味は、わかる、のだ。
「――わるい」
わたしの顔を見たおにいさんが、ぐしゃっと表情をゆがめた。たぶん、わたしもひどい表情をしていたのだと、思う。
だって、いま、ノノは独り苦しんでいるのだ。目を覚ますわけがないわたしの死体にすがりついて、明かり一つない狭い木箱の中できっと泣いている。賢くて優しいあの子が、ずっとずっと間違え続けてる。ノノが殺されない保証なんて、どこにもない。だってわたしが死んでいるのだ。便利で希有な治癒魔法使いのはずのノノは狂ったみたいになってしまっているのだ。あの船乗りが、面倒だ、って気が変わったって可笑しくない。
「たすけて、ください」
「そうしてやりたいが」
丈夫だったはずのわたしがあんなにあっさり死んだのだ。殺そうと思えば、ノノの首なんて、笑えるぐらいの細さに違いない。
「たすけてください」
「直ぐには、」
あの木箱が崩れたら、壊れたら。下敷きになって、破片が刺さったら。だって誰も知らないのだ、ノノがそこにいることを。
「たすけてください」
病気を持った虫が居たら。死体が腐ったら。病気になったら。
「たすけてください」
――ノノが、死にたい、と思ってしまったら。それだけで、おしまいなのに。わたしは、とめられないのに。
一生に一度の願いになんて縋る隙が無かった。だから、だから、せめて、死んでしまってから、たったひとつぐらい――ひとしにいちどぐらい、あの子のしあわせを望むのも、許されませんか。
「たすけて、くだ、さい」
ゆらゆら、境目が、酷い波のように揺れていた。
おにいさんが、ひどく、苦しげな息を吐いた。ほのかな罪悪感は沸いたけれど、それ以上にこんこんと、湧き続けるものがある。
「なんでもする。わたし、なんでもつかって、ください」
「弟の状況、なるべく詳細に伝えろ。期待はすんな、出来ねえことは出来ねえ」
だから、とおにいさんはわたしを見た。ゆらゆらするわたしを、引き寄せるような瞳だった。何かを言い掛けて、すこし濁して、結局肩を竦めて声のトーンを一つ上げる。やさしいひとだな、と思った。それから善意を搾取しようとするわたしは、醜悪だな、とも。
「深呼吸しろ、船沈めんなよ」
――呼吸なんて、今のわたしには必要ないけれど。言われたとおり、わたしはおおきくおおきく、息をした。
ノノを助けてほしい。しあわせにしたい。だから、わたしはそれを縁に記憶を必死に手繰る。
そう遠い日々ではないはずなのに、曖昧にぷかぷかと浮かぶばかりのわたしは日々曖昧になっていく。ノノの事ばかり考えているから、自分の事が他人事みたいに遠いのだ。実は自分の名前さえ、曖昧だ。聞いた瞬間は理解できるのだけれど、ふっと瞬きをすると砂みたいに手からこぼれ落ちていってしまう。大事な、ノノがつけてくれた名前なのに。だけど、きちんと説明するには、わたしの記憶が頼りなのだ。頼りない。
「ノノは、いま、あぶないの。すごく、不安定で、限界、だとおもう」
「そんな酷い状況なのか」
わたしはこくんと一つ頷いて、なにから伝えるべきかと思考を巡らせる。今の状況、助けるのに必要なこと。
「手引きした船員ってのは?」
「ええと、背が高い、三つ編みのひと。縄みたいな、茶色の髪だった。港でね、お金が足りなくて船に乗れなくて困ってたら、声をかけてくれて。娼館で――そう、ねえさんにお世話になったから、って。だからおとなりの国まで、こっそり乗せてくれるって」
必死に辿る拙い言葉に、おにいさんは何とも言えない顔をして、ん、と続きを促した。
「最初は、やさしかったの。でも、えっと、何日前かは、もうよくおぼえてないけど、急にね。――きゅうに」
「急に?」
「――なんでだろう?」
「何がだ、言って見ろ」
記憶の糸をくるくる巻いて、濃くなる景色につい首を傾げてしまう。よくわからないまま、促されて言葉を続ける。
「めざわりだ、って怒ったの。やっぱり、あの女にそっくりだ、って」
「うん? 弟にか?」
「ううん、わたしに」
は、とおにいさんがひとつ音を落として、眉間に皺を寄せる。おい、と短い言葉の語尾が少し震えた、乱暴な音が鳴る。
「それで、急に、ノノのまえで、わたしを殺したの。首を絞められて、なぐられて、そのまま死んじゃった」
なんでかなあ、と今更首を傾げるわたしを、おにいさんは怒ったみたいな顔で、呆然と見つめていた。