■4 こころひとつ
ぷかぷか。わたしが近付くと、男の人はすっと背を向けてしまった。当たり前に歩き出す背中を追っていいのか少しだけ悩んだけれど、結局追いかけた。失う物なんて殆どないのだ、今のわたし。無敵の人って奴だ。
その人は、少なくとも船乗りではなさそうだった。たぶん乗客の一人なのだろう。赤みがかった灰色の髪は、夕焼けの名残で埋め火に照らされる灰みたいだ。背は――子供の目線でもぷかぷか地に足が付かない幽霊の視点でもよくわからない。大人ってみんなでかいんだ。でも多分、標準的なんだと思う。たぶん、二十代。目元が涼しげで、少し、冷たそうにも見える。
船の上だっていうのに着崩さずかっちり羽織ったままの外套はずいぶんくたびれていて、旅に慣れているように使い込まれている。
「あの」
と、とにかく声をかけてみた。若芽の瞳が一瞬向いて、答えることなくそっぽを向いた。
「わたしが、見えるんです、よね、おはなし、したくて」
現状を打破する情報が欲しい。欲を言うなら、ドストレートにノノを助けて欲しい。やっと干渉できる存在を見つけたのだ、逃がしてなるものか。
必死にゆらゆら追いかけるわたしを見て、その人は小さく、黙って付いてこい、とだけ音にした。え、と戸惑っても選択肢はまあ、ない。生前であれば躊躇ったけれど、今のわたしは幽霊だ。いざとなれば飛んで逃げられる。黙ってついて行くことにした。
しばらく歩いた先は、特になんの特徴もない端の片隅だった。あんまり使われてなさそうで、誰も居なくて、見晴らしが良い船の端。そこで、海をぼんやり眺めている暇人みたいに腰を下ろした。
「そっか、人目」
「そう。あんたと違って、変な目で見られるのはカンベンなんで」
ぽつりとこぼしたわたしに、その人は小さな声で当たり前に返事をした。言葉が通じる。声が聞こえている。すごい。
「聞こえてるん、だ」
「まあ。そーいう仕事だから」
「しごと」
「そ。悪さする魔物をやっつけたり退治したりどうにかしたりする人」
「わあ」
小さい声だけれど、なんら躊躇いなくその人がするすると話すので、間抜けな声を返すことしかできなかった。そういえばゲームの方でも居たなあ、教会とかいう組織、とぼんやり思い出す。宗教色は全く強くない、魔物と共に在り、また魔物を討伐する人々。とにかく自立した旅人が多い不可思議な組織だった。酷く歪で、優しくて、奇妙な組織。正直後にファンディスクの追加シナリオで設立秘話がくるまで、それギルドとかでよくない? と思っていたぐらいには信仰心が表に出ない組織だった。まさか、魔物側として関わりあいになる日が来るとは思っても見なかった。
「教会の、ひと?」
「そう。ど? 死んでる自覚あるみたいだし、退治されとくか?」
最初の冷たそうな印象よりずっと軽薄な口調とともに視線を向けられたので、ぱち、と瞬いて首を傾げる。
「わたし、やっつけたら、得になりますか?」
わたしの問いに、その人は、困ったようにわざとらしく笑った。涼しげな目元はちっとも笑っていない。
「強いて言えば、船が沈められないぐらいかね」
「そっか」
レベルが上がるとかランクが上がるとか給料が上がるとか、そういうシステムはないらしい。残念。
「得、なあ」
その人は、繰り返した言葉を喉の奥で掠れさせた。何らかの感情がある気がするけれど、少なくともあんまり明るい響きではない。
ぷかぷか浮かんだわたしを見て、また困ったような顔をした。――見下ろす形なのも失礼かもしれない。今更かもしれないけれど、そっとその人の隣に座るふりをした。勿論、お尻も足もなんにも触れた感触がない。
「あの」
ノノを助けてください。そう口にしようとして、迷える立場でもないのに躊躇ってしまった。
わたしたちは既に一度、盛大に大人に騙されている。無力で愚かな実績だ。そんなわたしにはこの人が信用出来るかなんてわからないし、助けてくれるかもわからない。わたしがなんにもしなくったってノノはきっと、あの未来にはたどり着けるのだろう。だったら、わたしが余計なことをしない方が良いのだろうか。
「あ、の」
「どした」
そっけないけれど存外柔らかい音で相槌を打たれ、沈んでいた視線を持ち上げる。じ、とわたしを見ていた。
「――こまってること、ありませんか」
「あ?」
不審気な音にまた視線を落としそうになり、ぐっと眉間に力を込める。負けるか。
「わたし、壁を抜けられます。鍵のかかった場所とか、入れます。盗み聞きも出来ます。おにいさんの、便利になります。お買い得です」
「売るな?」
「買ってください」
身を乗り出して、ぐいと顔を寄せる。わたしを売り込まないと、売れる物なんて他にないのだ。身一つなく、こころ一つしかない。
「疲れません、寝なくて大丈夫です。見張りが出来ます、何かあったら大声でおにいさんにお知らせします。なんでもします。物に干渉できるように、練習だっていっぱいします」
「待て待て待て、売り込むな」
「このままじゃわたし、船を沈めてしまいます。全部泥船にしてしまいます」
「脅される方がまだ健全だ」
「じゃあ哀れんでくださいなんでもします! わたし、可哀想な子供です誰にもたよれません!」
「良心に付け込むのに躊躇いが無さすぎる!」
「親も知らない気付けば路地裏をさまよってた娼館育ちを舐めないでください!」
「ちょっと説得力がある上にまた哀れませようとしてくる……」
なんだこいつ、と言いたげにおにいさんは額を押さえた。わたしは引かず、じっと見上げ続けた。この人がどういう人かは解からないけれど、少なくとも人間味があって揺れ動く情動は持ち合わせていそうだ。それなら、それなら、何か一つでも恩を売れれば、助けになれれば。
「わたしを、買って、ください。役に、立って見せます、から」
はあ、と大きく息を吐いて、おにいさんは真っ直ぐにわたしを見下ろした。
「心残りが、あるんだろ」
どうしようもなく哀れみが滲んだ、声だった。――ああ、そうか、この人は、専門家みたいなものなのだった。幽霊の穏便なやっつけ方を――わたしが何かにしがみついていることを、きっと最初から知っていたのだ。だって、きっと魔物って大体そういうものだ。浅はかな損得にしか縋れないわたしを、子供を、そうしなければおねがいひとつ口に出来ない亡霊を、慮ってくれた。
死体が母体で、産声は悲鳴。自分を殺したモノが目の前にいて、本能的に忌避する自分の死体から逃げ出してしまうばかりの哀れな魔物。死ぬ瞬間の強い感情に捕らわれて、決して、生き返るなんて奇跡は訪れない。かわいそうな、しんだひと。
教会の、信徒。その人たちは――亡くした誰かを、探す人たちだ。魔物としてさまよっているかもしれない家族を、隣人を、恩人を、悪いことをして誰かの敵になる前に、見つけようとしている。言葉が通じれば保護をするかもしれないし、退治することだってあるだろう。それでも、ただ祈るだけではいられなくて旅立つ人々だ。そう、誓って力を磨いた人々だ。
おにいさんにも、きっと、居るのだろう。探している人が、見つけたい死人が。だから、こんなに痛そうな表情をするのだろう。
無意味な心臓が軋んだ。人の善意を利用して、感傷を益とする。最低だ。それでも、それでもわたしは、口を開く。わたしの、心残りは。
「弟を、ノノを、たすけて、ください」
ぼろっ、とただの感情でこぼれた涙は、空中で溶けるように消えていった。