■3 なくなったもの
だって、と自分に対する言い訳が一番に出てくる程度にはわたしはつまらない人間――もとい、幽霊だ。
だって何にも出来ないのだもの。もしわたしのかわいい弟になにか危機が迫ったって、無力で無意味な幽霊にはなんにも干渉できないのだ。せめてポルターガイストでも起こせればいいのだけれど、ちっともなんにも動かせない。そこで思い出したのだ。ここってゲームの世界、によく似ていることを。だったら、レベルアップとかでスキルが増えたり進化出来たりするかもしれないじゃあないか、と逃避に至った。
ここ数日、弟をじっと見てるだけではわたしに変化はなかった。魔法の才能がないわたしには生前より物理的な経験しか無く、つまるところ物理と正反対の幽霊としては赤ちゃんみたいなものなのだろう。だから、手がすかすかと物を通り抜けてしまったらもうお手上げだった。終わってる。
けれど、それはある種の自由でもあった。生前は「誰かに見られたら叩き出されて魚の餌だぞ」と脅されていたため木箱から顔さえ出したことがなかったけれど、今は蓋も扉も鍵も関係ない。弟の様子を見るに、姿も見えず声も届かないのだろう。やりたい放題だ。始まったわ。
だから、だからだ。何か出来るようになるかもしれない、干渉できる物があるかもしれない、あの子のためになるかもしれない。だから、だから、だって、だって。だって、息が、苦しいのだ。呼吸なんて、必要ないくせに。
甲板に出れば、当たり前に水平線が広がっていた。
船はそれほど大きくない。といっても、それなりの貨物と僅かな乗客と船乗りが居て、立派に海を渡る役目は果たしているのだろう。哀れな孤児であったわたしにはこの世界のことが殆どわからないけれど、一般人が頑張って貯めれば普通に乗って渡れるぐらいの乗り物で、隣国だ。
船内の全てを巡ったわけではないけれど、今のところわたしに目を留める人はやはり居ない。床をするりと抜けて、柱に手を突き立てる。足音も鳴らなければ水面に波紋も起こせない。樽もひっくり返せないし、ロープも勿論引っ張れない。やっぱり無力だ。寂しい。
だけれど、気付いたこともある。さざなみが、聞こえるのだ。ちゃぷんと跳ねる小さな音や、だぷんと鈍く船の肌を叩く音。遠くに鳥が鳴いて、風が波を立てる。そういう音が重なって、ざああ、ざああ、と耳に届く。なにを当たり前のことを、と思うかもしれないが、これってつまりわたしの鼓膜が震えて音を認識しているってことだ。そういえばノノの声だって聞こえていたし、当たり前に、世界がわたしに干渉している。わたしから物理的な干渉は出来なかったけれど、干渉されることは出来る。誤差程度の前進だ。
「うん。できる、できる」
この今は誰にも届かない声だって、もしかすると届ける方法があるのかもしれない。そういうことを師事してくれる相手が欲しい。居ないだろうか、野良幽霊の先輩とか。海だし、ほらなんか、そういう怪談スポットじゃないですか。一人や二人、さまよっていらっしゃらないでしょうか。
ぷかぷか浮いたまま、辺りをぐるりと見渡してみる。水面には誰も居ない。空にも誰も浮いていない。船の上には、たまーに人が居る。ざざん、海は絶えず鳴りつづけている。誰とも視線は交わらない。
それだけでも虚無感に満たされそうになるけれど、幽霊の心が折れたら本当にまずい気がする。そのまましゅるしゅる小さくなって消えてしまう気がして、わたしはおおきくおおきく息を吸い込んだ。きっと磯くさくて湿気ったぬるい空気を、記憶の底から引っ張り出す。
「こ、こんにちはー!」
この声が聞こえた誰かが顔を上げてくれないか、わたしを見つけてくれませんか、と声を張り上げる。
しばらく待ってみたけれど、答えてくれる人も魔物も居なかった。
虚しいひとときは、それなりの気分転換にはなった。どうしようもない、と諦めて、もっとどうしようもない船倉にゆらゆら漂って舞い戻る。薄暗くこもった積み荷の片隅に、少年入りの木箱が一つ。ゆらりと顔を突っ込んでみるけれど、まだ意識は戻っていない様だった。
未だわたしの死体には脳がちりちりするけれど、吐き気を無理矢理に飲み込んでノノに顔を寄せた。元より健康的とは言えない白く細い身体はますますもって痩せてしまい、哀れなまでに貧相だ。目元は腫れているしクマが濃いし、嗚咽をかみ殺した唇には血が滲んで荒れ放題だ。このまま死んでしまうんじゃないだろうか。
無性に触れたくなって手を伸ばすけれど、やっぱり、髪の一本も揺らせない。ノノに届く寸前でわたしの身体が揺らいで、形を見失う。まるで湯気みたいだ。揺らせないのだから、湯気以下か。
「ノノ」
今まで何度呼んだかわからない名前を、愛おしい音を、そっと口の中で転がした。
「おとなりに、着いたら、なにしようねえ」
少し前までは、毎日毎日、そんな未来の話をしていたのに。二人で、狭い木箱の中でそっと息を潜めて、夢を見ていたのに。
「ノノはすごいんだから。きっと大人気になって、みんなが毎日ありがとうって言ってくれるんだよ」
治癒の魔法って珍しいらしい、という事ぐらいは知っていた。ノノが言ってたのだ。隣国では魔法使いの育成を重視しており、その才覚次第では学園へ保護され職への道が繋がる未来がある。特に治癒魔法使いなんていくら居ても困らないのだから、その上ノノはとってもすごいのだから。
「おねえちゃんも、がんばって、はたらくから。おいしいもの、いっぱい食べようね」
魔法の才能がないわたしはきっと足手まといだ。でも、それでも、二人で頑張ろうって、たくさんかんがえた。やりたいことをたくさん話した。食べたい物を指折りかぞえた。――おとなになる、夢をみた。ああ、思考が止まる。考えたくない。
「ああ、ええと、そう、だなあ」
意味のない音で、意味のない呼吸をして、意味のない言葉で繋ぐ。
「ええと、そう、海がね、くるくるってなることがあるんだって。ねえさんが教えてくれたことがあるの」
ねえさんのお風呂を手伝っているときだった。必死にねえさんの身体を磨いてるわたしに、水面をぐるぐる指で回したねえさんが笑ったのだ。
「くるくる渦巻きが、あんたの髪の毛みたいね、って。あんたは渦巻きからぽーんって生まれてきたのかもね、って笑ってた。みれるかなあ、うずまき」
ぼうっと思考をまわす。可愛がってくれたねえさんたち。くるくる、くるくる。ああ、でも、この船は渦潮に耐えられるだろうか。とてもそんな推進力や頑丈さがあるようには見えなかったけれど、ここは奇跡も魔法もある世界だ。くるくる。有能なノノだけじゃなく、つまらないわたしまでいっぱい愛してくれたねえさんたち。くるくる。ああ、水や風を操って、船だってどうにかこうにか出来るんじゃないだろうか。
「んふふ。船がくるくるしたら、わたし以外みんな酔っちゃうねえ」
だってわたしはぷかぷか浮いているだけなので、波の揺れも三半規管も関係ない。沈んだって大丈夫、呼吸もしていない。
「おねえちゃん、たすけてあげられるように、がんばるね」
水死体だってガスを発生させられるのだ。幽霊だって、酸素を発生させられるかもしれない。きっと、もしかしたら。船ごと沈んじゃったら、ノノだけ助けてあげなきゃ。よし、がんばるぞ。がんばらなくちゃ。まかせてほしい。
「まずいな~」
甲板でぷかぷか、大の字で空を見上げてうなり声が漏れた。なにがまずいって、わたしの思考だ。どんどんおかしくなっている気がする。
考えることしかやることがないので延々と思考を巡らせるうち、だんだんと性質の悪いばけものに寄っていって居る気がする。今は少し離れて冷静になると疑問を抱けるのだけど、そのうち境目がわからなくなる予感がするのだ。理性が溶けていく。
「――だって、かわいそうなんだもの。ひとりぼっちの、かわいそうなノノ」
あんな狭い木箱の中で、死体を抱えて治癒魔法と気絶を繰り返しているかわいい弟。いっそ死んで、魔物になって、一緒に居られたのなら、その方が幸せなんじゃあないだろうか。あの子がしあわせになるなら、わたしは、くるくるのうずになって船を沈めたってかまわないのだ。
「まずいな~」
繰り返してため息を吐く。油断するとすぐこうだ、日に日に境界線はどんどん希薄になって、わたしは魔物に馴染んでいる。ノノ以外どうだって良くなっている。ノノの為の自分以外見えなくなっている。はやく、ノノを保護してくれる人を見つけないと。わたしが居なくならないと、良くないことになる気がする。
ああ――ノノを、だきしめたいなあ。あの子を、撫でたいなあ。あの子と、いっしょに、大人になりたかったなあ。
「ああ、そっか」
唐突に、ふっと、何かがすとんと腹に落ちた。
「わたし、おとなになれなかったんだ」
弟の事とか、前世のこととか、未来のこととか。一気に押し寄せてそれどころじゃなかったけれど、今更に気がついた。わたし、わたし、死んだんだ。繋がらないんだ。もう、終わっているんだ。ほんとうに、もう、どうしようもないんだ。
「そっかあ」
ただそれだけ呟いて、ぷかぷか、浮いていた。
数日後。わたしの死体が、その肉が、ぼろりと崩れた。――限界だ、生かされすぎた細胞が、崩壊している。
喉を短く笛みたいに鳴らしたノノはぐじゅりと肉を掴んで、呻くみたいな声を出した。浅い呼吸のままきれいにする魔法を――老廃物とか排泄物を取り除く魔法をかけたら、肉の破片そのものがしゅわしゅわ消えていく。そりゃあ、そうか。そりゃあ、そうだ。死体なんだから。
「ぁう」
何にもなくなってしまった、きれいな手の中を見つめてから、ノノはただ意味のない音を出した。
何にも出来ないわたしは、久しぶりにわたしの死体を直視する。本能的な忌避感は相変わらずだけれど、想像以上に綺麗に保たれてて変な笑い声が漏れた。肌はまだ血が通っているみたいに桃色で、どこからも体液がこぼれるどころか傷一つない。今落ちた、指一本以外は。
わたしが死んでから、はや何日だろうか。正確な感覚が無くてわからないけれど、数度様子を窺いにきた船乗り――わたしを殺した犯人がまるで生きているようなわたしの死体と狂ったような弟を見て、明確に足を運ぶ回数を減らしたのがわかるぐらいの日数は経っている。
意味がわからないぐらいの努力を続けるノノも、いよいよ限界なのだろう。末端の少しの肉が削げたことに、ノノはまた、ぼろぼろと涙をこぼしてそれでも魔法をかけ続けた。そうしてやっぱり、ぶつんと電源が落ちるみたいに気絶した。
「せめて、こう、蝋化させるとか、凍らせるとかの方がまだ負担が少ない気がするのに」
ぷかぷか。夕焼けの頃、今日も甲板に逃げてきたわたしは空を見上げてため息を吐く。死体に対して生命維持し続けるなんて、無意味だし無駄が多すぎる。早く諦めて欲しい、このままじゃノノが廃人みたいになってしまう。
「やっぱり、沈めちゃう?」
ぐるぐる渦巻きになって、丸ごと藻屑になれば。きっと今のノノはわたしに対する執着で魔物になるかもしれないし、なれなくてもこの地獄みたいな現状からは解放される。そっちのほうが、よっぽど健全だ。
「くるくる、くるくる、うずまきみたいに」
わたしのくりんくりんの髪の毛を、指で掬う。短い癖毛の感触は、記憶の中から当たり前に再現される。
遠くの水面を見下ろして、想う。わたしはくるくるだから、おんなじように、くるくるすればいいだけだ。海にはたくさんが生まれて、たくさんが死んでいく。くるくる。青と黒の境目の赤い空。くるくる。狭間の時間、歪んで、捻れて、赤い太陽が沈んで水面がまぶしいぐらいの時間。くるくる。めぐる。指先で桶の湯を回したねえさんの笑い声。おんなじね、と。くるくる。ああ――いまなら、できる、気がする。
「しずめちゃおうか」
それがいい。それしかない。そうしよう。そうしたい。
「よくがんばったね、ノノ」
くる、とまだ肉が付いた指をまわす。たぱ、と小魚が跳ぶよりは、少し大きな音がしたのが不思議と耳に届いた。うん、できる。案外幽霊の才能、あるかもしれない。ゆらゆら水面が揺れるから、きらきら水面が光を散らすから。だから、わたしも揺れて、わたしも屈折して、わたしがくるくるすれば、それでいい。それだけでよかったのだ。おんなじになれば、それで、良いんだ。まざって、ぜんぶ、わたしの、さかいめも、なにも、くるくる、めぐって、ふかいふかい、そこに
「――止めろ」
わたしに向けられた声だ、と、不思議と理解した。知らない声だった。男の声だ。
ゆらりと振り向いたら、緑の目の人が居た。木の芽みたいな柔らかく明るい色が、じっと、哀れむように、わたしを見ていた。――わたしを?
「ぁう」
認識されている。その事実に、曖昧になっていた自分の輪郭が、かたちを取り戻したのを理解する。ばち、と目が覚めた。もう意味のない心臓がばくばくとして、我に返る。あぶな、あぶなかった。本気で沈めるところだった、船。
この人に声をかけてもらわなかったら、わたしは、ノノを殺していた。世界に溶けて、船の人間全員を、海に沈めようとしていた。
お礼、疑問、恐怖。さんざ巡った思考は、ええと、と繋ぐだけのつまらない無地の言葉を紡いでいた。
「ええと、こん、ばんは?」
男の人は眉間に皺を寄せて、はあ、とこれ見よがしに大きなため息を吐いた。