■2 すぎたるはおよぶ
いつかねえさんたちを飾るはずだった弟の髪を売ってわたしも無理矢理働いて、手に入れたのはほんのわずかな金銭だった。異国へと渡る船に乗るにはもちろん全く足りなくて、日々を生きていくのも精一杯。いつでもお腹が空いていた。
ねえさんがくれた本は、ねえさんの祖国の文字で書かれた本だった。わたしたちが娼館に――ねえさんに出会った切っ掛けであり、名前の無かったわたしたちがこの本から互いの名を付けあったはじまりの本。異国語の読み方を、少しずつ教えて貰っていた、まだまだ読み切れていない本。母国語すらまともに読めないのに異国語を学ぶなんて歪は、死んだ今になって思い返せばねえさんの不健全さだ。わたしたちのための教育でなく、ねえさんのための満足。だけれど、そんな正しく無さが、わたしたちに海の向こうには手が届くのだと錯覚させた。夢物語でなく、目指す場所になった。抱く希望になった。幸か不幸かは、よくわからないけれど。
日々船着き場で海向こうに焦がれ、耳と目で拙く異国語を学ぶわたしたちは、まあ、結果、酷い目にあった。
とある船乗りの男が協力してくれたのだ。貨物に紛れ込ませて運んでやる、と親切な顔をして木箱に布とわずかな食料とともに詰め込んで船に乗せてくれた。わたしたちは不安から目を逸らして幸運に感謝し、酷い揺れでもひもじくても声を上げずに耐えて抱き合っていた。男は時折顔を出しては水や食料を与え、あと何日だ、とわたしたちを励ました。狭い木箱の中で、目も粗い肌触りの悪い布で身をくるんで体温を分け合って、わたしたちは耐えた。耐えた。耐えて、耐えて、耐えて、わたしは殺された。
考えてみれば単純な話で、魔法の才がある弟こそが男の目当てだったのだろう。わたしは要らなかったから、弟の心を折って手中に収めるために使われてうっかり勢い余って殺されたのかもしれない。慌てた男はもちろんわたしの死体が腐って目立って見つかるのを避けるため、魚の餌にしようと手を伸ばす。だけれど、弟が絶対に離さなかった。わたしの死体を取り上げようとした途端に大声で狂ったように泣き叫ぶものだから、男は仕方なくわたしの死体をいったん諦めて脅しつけるだけで姿を消した。
多分、男にとっても想定外だったのだと思う。よしんばわたしたちが他の人に見つかったとして、罰されるのはわたしたちだけだった。あの人に乗せて貰ったんです、とかなんとか言ったって信用がないのは目に見えていた。なのに、他殺の死体が出来てしまった上に弟はどう見たって犯人足り得ないのだ。殺してしまった瞬間、はなしがちょっとだけ、変わってしまったのだ。
船旅半ば、陸はまだ遠い海の上。逃げ場所のない暗い木箱の中で、そうして死体のわたしにすがりついて泣き続ける弟に至るのだった。
■
ざっくり現状までの記憶を反芻し、現実逃避の行き止まりにたどり着く。はてさて愚かにも騙され密入国を企んだ哀れなただの孤児は、このまま奴隷行きだろうか、個人の慰み者だろうか。どちらにしろ勿論ちっともぜんぜんまったくおもしろくない。わたしのかわいい弟だが?
弟は、今も嗚咽を飲み込んでひぐひぐとこもった息をしゃっくりみたいに繰り返している。起きないわたしをか細く呼びながら、必死にすがりついて魔法を使い続けている。起きるはずがないのに。
それを見下ろすしかできないわたしは、幽霊だった。怪奇現象という無かれ、この世界では立派に魔物の一種である。
この世界では、魔物は、死体から生まれる。その原理や由縁、子細を人は解明できていないけれど、死の際で強い感情を持って殺されたなんらかの適正のある生物が様々な形で目を覚まして成り果てる――らしい。それを、人間は魔物と呼んで大雑把に区分しているのだ。適正、というのは判別の付かない部分としか言えない。死ななきゃわからないのだ、人には確かめようもない。間違いないのは、死体から生まれるということぐらいだ。
死んで生まれて、瞳をひらいて初めて映すのは自分の死体で、産声は悲鳴。死体の中で目覚めるのではなく、死体の前にただ在るのだ。新たな姿が獣のようになるものもいれば、生前とさして変わらぬ姿の者も居る。わたしみたいに幽霊となるパターンもあるんだなあ、と死んで初めて知ったところだ。それが今のわたしだ。
わたしの前世については、なんかもう、どうでもいいだろう。ただこの世界によく似た場所の――少し未来の物語を、わたしはゲームとして遊んだことがある。恋愛ゲームとしては戦闘難易度が厳しめのシミュレーションで、学園に通うヒロインが魔物と向き合ったり人々のカウンセリングをしつつ地位を上げたり幸せになったりするのだ。恋愛もしくは修行するとキャラクターの戦闘性能が上がるので、プレイスタイルによっては攻略キャラにひたすら効率的な修行コマンドを繰り返させる鬼軍曹みたいなヒロインになる。そういうよくあるゲームだったはずだ。
さてわたしのかわいい弟はと言えば、実は攻略対象ではない。今より十年か十五年後か、美青年の姿に成長していた未来。基本は教会関連の回復施設に立つNPC、特定イベント後に条件付きでパーティに入る、イロモノヒーラーだった。そう、イロモノ。恋愛攻略対象外。ヒロインと恋愛しない。できない。
――そりゃあいつでも大事そうに包帯の巻かれた少女人形に「姉さん」と愛おしげに呼びかけ、共に寄り添ってる立ち絵しかない男が王道なわけがない。スチルじゃなくて立ち絵だ。常にそうなのだ。それ以外の姿が存在しなかったのだ。ちなみにその人形はわたしみたいなくりくりの金髪ショートでちょうど今のわたしとおんなじぐらいの背格好だ。なんてこったい。そういことだ。どういうことだ。
イベント中にヒロインがこっそりと人形に触れる選択肢を選ぶと、「意外と柔らかい。まるで生きてるみたい」「いま、動いたような気がする?」なんて描写が入るが恐ろしいことに正体は判明しない。ちなみにそのあと何故か勝手に触れたことがばれてしまい、謝罪と反省を怠ると連続するはずのクエストが途切れ二度と仲間にならないどころか回復施設のNPCとしても利用できなくなる。クソ地雷キャラすぎる。でもかわいい弟なのだ。性能もめちゃくちゃ良かった。なによりかわいい弟なんです。ほんと。
前世では「人形愛好家、もしかすると死体愛好家のヤバすぎるシスコンロリコンイケメン天才ヒーラーNPC」として設定積載過重で一部ファンがついていた気がする。
細くやわい子供のような白金の髪、慈愛にとろけ濡れた瞳、ヒロインと並んでもなお白い肌。聖歌でも歌っていそうな美少年の成長の先の天使みたいな治癒魔法使い。が、いかんせん攻略対象外である、こんな過去はちっとも全く語られていなかった。どこぞの貴族の娘さんにそっくりだといわれる美少女顔イベントや、旅先でモブと妙に親しそうだったりする意外な親しみやすさ、みたいな意味深だけど特に本編とは無関係なイベントがいくつかあったぐらいだったはずだ。基本的にヒロインの恋愛的な選択肢は全て受け流されて終わる。
異国で無事に生きていられる未来が解って嬉しいような、吐き気を催す絶望のような、わたしの心情ももうめちゃくちゃである。最悪の一歩手前でしかない。無力感がすごい。生前の内に思い出させてくれ? もしくは時間遡航とか転生でやりなおさせてくれ? どう考えても大半はわたしが殺されたせいじゃないか、あの属性過多。
だけれどなんとも奇跡は中途半端なまま、死んだわたしはぷかぷか浮いて、弟は死体に魔法をかけ続けては気を失って、目覚めてはまたすがりついて魔法を発動し続ける。不健全で完全に終わっている状況だ。
――自分の死体を見るのは、気分が悪い。感傷的なものでなく、本能的な忌避にうなじがちりちりして、本当はすぐにどこかへ逃げ出してしまいたい。これはたぶん魔物としての習性だろう。だけれど、弟が泣いている。だからわたしはここに居る。伸ばした手がなんにも干渉できなくても、弟が痛々しく目に余る状況でも、辛うじて逃げずに居るだけしかできない。無力なおばけだ。
わたしは死んでいる。なんにもできない。だけど、せめて、この子が無事に誰かの庇護下に入るまでは見守りたい。あんな変態的な大人になってしまうのだとしても、概ねわたしのせいだと察してしまって余計に離れ難くなった。こうして魔物として目覚め前世を思い出し正気を保っている以上、事態の改善を願うのは当然だろう。かわいいかわいいわたしの弟だ、この地獄に捕らわれずヒロインと恋愛できるぐらい吹っ切って欲しい。
たぶん、前世を思い出さずに子供のままの精神なら、こんな現実は見ていられなかった。本能のまま逃げて、悪霊にでもなるか気力無く消滅したに違いない。だけれど、思い出してしまった以上、この子のあんまりにも哀れな未来を知ってしまった以上、このちりちりとした危機感にも似た焦燥感を飲み込んででも傍に居たくて仕方ないのだ。
なんてわたしが無力にぷかぷかしていても、もちろん、無力なことに、弟は魔法を止めない。
弟の特異とする治癒の魔法は、循環と増幅、活性化が主軸だった。
意味のある属性や呪文、敬虔な信仰心というよりは、力業の屁理屈、と言う方がイメージに近い。どこからか雨が降るのだからと大気中から水分を生み出すこともできたし、いつか朽ちるのだからと老廃物や汚物を処分することさえ出来た。だから、木箱に詰め込まれたって僅かな食料さえ貰えればなんとか耐えられたのだ。
――いま、弟は、その力をわたしの死体に行使している。頭に触れて、撫でるように身体を辿って、魔力で無理矢理死体の中で疑似的な生命活動を行わせようとしている。血が留まらないよう、筋肉が弛緩しないよう、内臓が腐敗しないよう。だいじょうぶ、だいじょうぶ、とか細く繰り返しながら無意味な行動を続けている。
「そんなこと、しなくていいんだよ、ノノ」
わたしの声は、届いていないのだろう。かわいいわたしの弟、たったひとりの家族、いとおしいノノ。
柔らかくてあどけない響きはあんまりにもシンプルすぎて、前世ではそれなりに深読みされて意味を考察されていたっけ。実際は、二人で開いた本の中でよく出てくる文字の並びを拾っただけだった。
音と文字を拙く辿って、こんなに何度も出てくる言葉なのだから、きっと親しまれていることばに違いないと笑えるほど無垢に名付けあったのだ。だからわたしの名前も、この子の名前も、愛おしく滑稽である。
――ノノの目が、ふっと虚ろになる。焦点がぶれて、充血して赤くなった白目をぐるりと晒す。身体がぐらっと揺れてわたしの死体に倒れ込んで、小さな指先が痙攣していた。呼吸は浅くて早いし、力がこもっているらしい爪の下は真っ白だ。わたしが死んでから何度目だろうか、心身ともに酷使しすぎの気絶である。わたしはそれを受け止めることも止めることも出来ず、ただ見下ろして意味のない息を詰めては無力にゆらゆら揺れていた。
ゲームとよく似たこの世界、目に見えた魔力値やポイントは無いけれど、魔法の行使には集中力が居るらしい。己の限界を超えて無意味に神経を削った無謀者は、こうしてシャットダウンされるみたいに意識を手放す。正気を手放したまま規則正しく眠りもしないのだから、かわいい弟の健康が心配になるお姉ちゃんである。
――死体が腐り始めたら、間違いなく船乗りに捨てられる。だからなのか、それとも姉の死をただ受け止められていないのか。出来ることならノノにはなるべく早く正気になって生き残るために意識を切り替えて欲しいのだけれど、前世で知る『未来』を思えばそれが容易にはちっとも思えない。困った。
さすがに十年以上先の未来まで死体を保持し続けるとは思えないので、どこかのタイミングで人形に代替するのだろう。それだって健全とは言えないけれど、病原体になりえる死体よりはよっぽどマシだ。それで医療施設に常駐してるって、もはやテロリストだ。
夢枕にでも立って姉離れを促せれば良かったのだけれど、何度試してもノノの夢に干渉できた手応えはない。気絶しているノノは数十分から数時間でびくんと跳ねるように飛び起きて、反射的にわたしにすがりついては酷く絶望した顔で呻いて、また魔法を灯すのだ。頭のてっぺんから、足の先まで。水を生み出してはわたしに飲ませ、無理矢理内臓を働かせて肉体を保持させて。さてわたしの脳や血中がどうなっているのかなんて既に我が手中にはなく、手動の生命維持装置と化した幼い弟はなるほど治癒魔法の天才なのだろう。ゲームキャラの「ノノ」もこうして、びっくりチートな回復魔法を操れるようになったのだろうか。哀れだ。
なんてつらつらと他人事みたいに並べているけれど、本当に本当にどうしたらいいのか解らないのだ。
幽霊――魔物になってイヤってほど実感したのだけれど、魔物は自分の死体がほんとーに酷く苦手だ。母体とも言える「生前の自分の成れの果て」は視界に映るだけでもうなじがチリチリして内臓がひっくり返りそうに吐き気がして、本能的に逃げ出したくなるものだった。生まれてしまった魔物はあっという間に人前から消えてしまうと噂には聞いていたけれど、その理由の一端を垣間見た気分である。
自分の死体をほったらかして逃げたり、食い散らかして無くしてしまったり、魔物によっては持って逃げたりと噂は様々だった。わたしは幽霊という特性上触れることすら出来ないので、とにかく逃げたくて仕方がない。だけれど弟が心配で目を離せない。そういう反発がずうっと意識の中で意見を違え続けていて、気がちっとも休まらない。
だから、とても情けないけれど。わたしはほんの少し楽になりたくて、ノノが目を閉じた隙に少しだけ逃げることにした。