■13 ひとしにいちど
それから数日の後、隣国での日々が始まった。
船員さんたちとのやりとりは殆どアンリさんがやってくれて、ノノは無断乗船と保護、それぞれにごめんなさいとありがとうを伝える機会を一度だけ貰ってお別れした。犯人の男には、もう会うことはなかった。
新しい暮らしに慣れるより前の真夜中に、わたしとノノに始祖と狂犬が会いに来たりもした。美しく儚い――十六、七の娘にしか見えない始祖はわたしたちの頭を柔らかく撫でて、楽しんで生きろと微笑んでくれた。生きろ、と言ったのだ、死んでいるわたしにも。
始祖はひとつ、美しい石を授けてくれた。お守り代わりだけれど困ったら売って良い、共に生きることになった君たちへの祝福のようなものだ、と目元を和らげた。
「君たちの道は、平坦ではないだろう。これまでも、これからも。――何かを恨むより、不自由な生を選んだ君たちに、感謝する」
細くなる紫色の瞳に、ああ、始祖はこのために教会という組織をつくり、今もなお立っているのだ、と言葉より雄弁に理解した。
人と魔物が共に生きる。理想論で、綺麗事だ。だって魔物は大半、人間に殺されて目覚めるのだ。大事な人が居たとして、こうして見つけてもらえるなんて、奇跡に等しい話に違いない。残酷な話だ。身勝手な話だ。夢見がちな話だ。
寄り添ったわたしとノノを見て、始祖は笑って、来たときと同じようにひらりと窓から姿を消した。赤い瞳の狂犬はなにも言わず、始祖の手を取って一緒に跳びたっていったのだった。
教会は、アンリさんの言葉通り堅苦しい場所ではなかった。
強く縛られることもなければ思想を強制されることもない。ただ、ちらりほらりと魔物の姿があることが特徴的だった。
大半は人間と大差ない姿、ちらほらと獣じみた姿、たまーに、光みたいに曖昧ななにか。そんな人間ではないものが紛れ込んでいる。
ノノは魔力の扱い方と知識を学び、わたしも自分の扱い方を訓練する。ノノが望めば学園にも入れたらしいのだけれど、わたしという死体を一日の大半手放すことになるという大前提でお断りしていた。ぶれない弟である。
生前のわたしには、魔法は使えなかった。だけれど、死後魔物としてあっち側、に属することになったわたしは存在そのものが魔法に近しくなってしまったのだ。最初、不慣れすぎて全然うまく扱えなかった。
それでも、船上で幾度も理性を溶かしかけた経験が活きた。隙間で狭間の幽霊は幽霊らしく、世界に溶けるように混ざって影響させるという感覚は掴めていた。溶けて混ざっても、ノノという楔が居るから、心臓の音が聞こえるから、帰る場所は見失わない。
遅々とした成長と変化、変質。わたしだけじゃなくて、ノノも、少しずつ変わっていった。
まず、背が伸びた。アンリさんがちゃんと食事をとらせてくれて、睡眠も運動も健全に与えてくれた。
裏路地からの娼館の片隅で生きていた、不安定で不健全な生活からの反動かもしれない。小さかった弟は、みるみるとわたしより大きくなった。少しの寂しさと成長への安堵を覚えたものの、本人は、これで姉さんをいつでも抱えていられるね、と全くぶれずに笑うばかり。
治癒の魔法の腕も、知識を得るほどにあがったみたいだ。いつの間に文字を覚えたのかあっという間にたくさんの本を読んで、解らないことを素直に訊ね、手間を惜しまず検証と実験を繰り返した。変わらず今日もすごいのだ、ノノは。
――教会の信徒として、ノノの未来にはいくつかの選択肢がある。いまはまだ見習いだけれど、やがてはアンリさんとお別れする。示されたのは、大きく分けて二つの役割だ。
街にある教会関連施設に身を寄せて、奉仕活動に準じる道。魔物という哀れで危うい存在に対する人々への忌避感を薄めるため、敢えて街中で過ごし協力しあい人間と過ごすことになる、窓口であり繋ぎ口である。定住し暮らしたいという人々はこの道を選ぶことが多いらしい。
それから、アンリさんのように世界を巡り旅をする道。噂や各地の住民からの要望により足をのばし、魔物と人との関係を繋ぐ役割だ。
探し人が居たり、人々と過ごすのが苦手な場合は概ね放浪するらしい。諦めるか、力尽きるまで。――理性を無くし殺されたという恨みに呑まれた魔物は、人にとって害になる。それを退けられるように、信徒は魔力の扱い方を学ぶのだ。
まだ暫定だけれど、ノノは前者を希望してる。主にわたしという死体の存在がでかい。いくら成長しようと、死体を持ち歩くのはリスクがでかいのだ。ノノ自身のためにも、なるべく安全な場所に行て欲しいとわたしも思う。
――ああ、ゲームでのノノがヒロインのパーティに正式に加入しない理由もこれか、と今更に理解した。何かを退治したり旅に出たりという己の身の危険は、そのまま大事なわたしの死体への危険に直結するのだ。だから、いくらヒロインや偉い人に要請された天才ヒーラーでも一線を引き続けた。身も心も、わたし以外の誰にも預けなかった。……仕方のない弟だ、もう。
とにかく、ノノはわたしのために、人の中で暮らして行こうと学んで努力している。いくら教会が説こうと死者であり人ではない魔物を忌避する人は当然多いので、楽ではない道だ。
だから、わたしも努力した。ノノを守れるように、ノノを傷つけないように、ノノが喜ぶように。
一区切りまで、一年、かかった。一年かかって、短い間だけ、ようやく。
空が青くなくて黒くない、赤い時間の間だけ。隙間で狭間のわたしは、隙間で狭間の時間に瞼を持ち上げた。
――手のひらをみる。小さくて細くて、透けていない、白くて柔らかい肌。身体がぽかぽかと暖かくて、小さな鼓動はノノと繋がっている。
「ノノ」
顔を上げる。すっかり見上げることになった、可愛い弟。
溶けたわたしが、わたしの死体に混ざってひとつになった。幽霊になってしまったわたしがこっち側に干渉するのはまだ難しいけれど、死体がわたしに影響できるのだからわたしだって死体に影響できるのだ。本能的にも感覚的にも滅茶苦茶難しかったけれど!
だけど、ノノががんばっているから、わたしもがんばれた。
生き返ることは、できない。死んだわたしは、魔物でしかない。死体の中に、幽霊が混ざった、それだけだ。それでも。
「――ディ、ぼく、は」
ノノは、ちょっとだけ大人っぽくなった顔をぐしゃりと歪めた。わたしと再会する前みたいに、目尻を赤くして、大粒の涙がみるみる盛り上がる。
ちいさいままのわたしは、精一杯手をのばす。床に膝をつくようにノノもわたしに目線をあわせて、吸い込まれるようにわたしの腕の中に飛び込んできた。おおきくなっていたけれど、わたしと同じ温度だった。
「ありがとう、ノノ。ノノが守ってくれたから、ノノを抱きしめられるよ」
鼻をくすぐる甘いだけじゃない香りも、頬をくすぐる柔らかい毛先の感触も、縋るように引き寄せられる身体の感触も。全部全部、ノノが守ってくれたものだ。広くなってしまった背中に、もうこの手は回りきらないけれど。
「ディが、がんばって、くれたから。ぼくの、姉さんになってくれたから、だからぼくは、生きてるんだ」
ありがとう、と掠れて震えた弱々しい声が耳元に落ちた。ありがとう、ありがとう、と何度も繰り返す。
わたしの目の奥もじんと熱くなって、頬に滴が溢れてくすぐったい。頬を寄せたら、ノノもわたしも涙でべしょべしょだった。
「ノノがわたしの弟で、わたし、しあわせだよ」
だった、と過去形にはできなかった。やっぱりきっとノノは血の繋がった弟ではないし、本当の家族のことをわたしは知らない。
それでも、いとおしくて大切な、かわいいかわいい、わたしのたった一人の弟なことだけは、確かなのだ。
「ノノはやっぱりすごい。魔法もすっごく上手になったし、大人気になって毎日ありがとうって言われてすごすの」
――あの船の上で、毎日毎日、そんな未来の話をしていた。二人で狭い木箱の中でそっと息を潜めて、夢を見ていた。
「わたしもがんばって、……もっと、こっち側に影響出来るようになるね。そうしたら、周りの人もきっと不気味に思わなくて、こわがらなくて、もっとノノも生きていける。もっと自由に動けるようになったら、ノノのお手伝い、いっぱいできるね」
わたしに出来ることは、大きく変わった。やりたいことは一つに収束して、その結果に至るために模索する存在になった。
もう大人にはなれないけれど、わたしは、こうして呼吸が出来ている。それは、奇跡だった。
「うん」
ノノは、かわいいかわいい、わたしの弟は。震える声で頷いて、鼻をすすって、子供みたいにわたしにすがりついている。
わたしはおんなじ目線で受け止めて、手で背中と頭をぐしゃぐしゃと撫でた
「ふふ。目、こすったらだめだよ。ちゃんとあとで冷やそうね」
「うん」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ずうっと、ここにいるよ」
「うん」
「死んだって傍にいられたんだから、もう……ノノが死ぬまで、ずっと、そばにいるよ」
「うん」
きっとこれは、依存だ。互いに依存しあった、寄る辺がなかった子供たちの生存本能に近い執着だ。
そう理解していても、もう、手放す選択肢はどこにもなかった。わたしたちは、手遅れだった。
「ディ」
うたうように、いとおしいと音に乗せて、ノノがわたしの名を呼んだ。
「――あいしてる」
細くて柔らかい、震えた声。
それがどんな意味で、なんの希求でもかまわなかった。たぶんきっとどんな意味でも、わたしは喜んで受け止めると思う。なにが内包されていたって、おんなじなのだ。
「うん。わたしも、せかいでノノだけを、あいしてる」
狭い狭い世界の告白に、ノノはくすぐったそうに笑って、濡れた頬をぺたりとすりよせる。たったひとりの、わたしのいちばん。
ひととしてしんでしまうまで、ひととしてしんでしまったあとも。ずっと、ずうっと、一緒だ。こんがらがって、混ざり合って、一人だか二人だかももう判然としない。だから、わたしたちが願うのはもう、たった一つだった。
――わたしたちが、しあわせであること。
ああ、なんて身勝手で、つまらなくて、誰のためにもならない着地だろう。
我侭なだけのわたしたちは、くすくすと、日が沈んで夜になるまで、おんなじ鼓動を寄せ合って笑った。
■
とある村の小さな教会に、それはそれは優秀な治癒魔法使いが居た。
魔物を隣人とする教えを持つ美しい男を、最初こそ村人達は迎合しなかった。村中に魔物を連れ込まれるのも、好奇心を出した子供に半端な知識を教え込まれるのも迷惑だ。わざわざ冷遇し追い出すことはしないけれど、接するにはどうしても忌避感が拭えない。
だけれど、ようやく少年から抜け出して青年になったばかりのような男は無理に声をあげなかった。日々教会の手入れをし、庭を整え、畑を作る。教会の入り口には治癒の魔法や日々の薬を売れると看板を出し、ただそこに暮らし始めたのだ。
小さな村には、薬師が居なかった。かつていた薬師が亡くなったきり、後継はない。有事には離れた街に馬を飛ばして後手後手に対処するしかなく、不便なのも確かであった。
掲げられた看板の数字は良識的な範疇であり、奉仕活動などでの相談も可だと添えられていた。いつの間にだか、敷地内に整えられた小さな畑には確かに薬草が育っていた。試しにと頼ってみればきちんと効果を得られるものばかりだったのだから、村人たちは自然と警戒を薄めていった。
村に欠けた物を持った、穏やかで美しい、癒者である若者。教会から滅多に出てこないその人は、けれどある時大怪我を負った村人を見事に治療して見せた。命を救われたと深く感謝する村人に、いいえ、と驕ることもなく在るのだから人々の口には良い噂ばかりが巡るようになった。
噂を聞きつけた身分の高い者が抱え込もうと金を積もうが、良い暮らしを餌にしようが決して頷かずひっそりと教会の中にいた。
豪勢な誘惑にも、美しい令嬢のこいねがいにも首を横に振る。無欲を体現したような信徒は、ただ一人にだけ人間らしい顔をする。
――よく眠る、幼い家族が彼のただ一人だった。細くか弱い幼子を、妹だとも娘だとも周囲は噂した。
訪れる人々に治癒を施す傍らに、いつも在る眠り姿。一言も口を開かず目も覚まさない姿に、初めこそあれは人形だ死体だ不気味だ、と心ない憶測が人々の口を賑わせた。
それがすっかりと消えた切っ掛けは、ほんの時折、手を繋いで歩く姿が見られたことだった。生きていたと解れば単純なもので、病弱な幼い子供を庇護する優秀な癒者だと悲劇的な美談すら生まれだしたのだ。
本人たちがなにを語ったわけでもない。ただ、互いを慈しみあう様子と、幼子があんまりにもやせ細って哀れな愛らしさのままであることが拍車をかけた。あの慈悲深い癒者が、改善できないほどの状況なのだ。故に眠り続け、故に目を離さないように傍に置くのだ、と。
月日が経って、徐々に少女が目を覚ます時間が増えて行くことを村の人々はひそりと喜んだ。
祝うには接点があまりになく、また癒者は優しいが人を懐に入れない空気があった。誰に対しても平等に、穏やかだったのだ。
――少女が、癒者の手を引いて歩く。楽しげに笑い、身を寄せ、物珍しげに村を歩く。
癒者は心配げに、だけれど村の誰もが見たことがないほど嬉しげで無邪気な表情を隠さずにいる。癒者に世話になった村の住人たちは、邪魔をすまいと見守ることにした。誰にとっても、不興を買って怒らせたい相手ではなかったのだ。
やがて、様々な悪意や善意の果てにその少女が魔物であると明らかになっても、大方の人々は忌避より憐憫を覚えた。
眠るばかりだった、少しも成長せず哀れなままの体躯。それを庇護する恩ある癒者と、無力にしか見えない魔物はやはり悲劇の中にあるのがよく似合っていたのだろう。哀れみが高じて、忌避する者を咎めるまでになったのだ。
そのどれもが渦中の二人の言葉に関与しないものばかりであったが、互いが穏やかにあればいいという二人には都合の良い話だった。
だから、それなりに幸せで、それなりに苦労して過ごすことになる。
めでたし、めでたし、という締めくくりで、概ね異論が出ないくらいには。きっと穏やかな、人生だった。
おわりです。最後まで読んでいただいてありがとうございました!!!!
お気に召すところがありましたらぜひとも評価、ブクマなどしていただけるとひゃっほいと喜びます。よろしくお願い致します!