■11 いのち、ひとつ
「つってもまあ、一番厄介で時間がかかるところが、もう済んでんだよなあ」
緊張したわたしの出鼻を挫くように、おにいさんはため息を吐いた。ノノの方を胡乱気に睨んで、無遠慮に指を突きつける。
「義務だからな、まず前提から説明する。魔物とは、人間じゃない。生き物が死んで、霧散し巡る前に、一層ズレた場所にたまたま偶然合致してしまった存在だ」
「ずれ……?」
と、首を傾げて疑問符を浮かべたのはもちろんわたしだ。なに言ってるかよくわかんない。
「中途半端で狭間でどっちにも所属しない干渉しづらい存在、とだけわかってれば十分だ」
「なるほど……?」
理解できるようなできないような話に、とりあえず頷いてみた。ノノはなにか思考できるぐらいには理解しているらしくて、わたしの死体を見て、それから幽霊のわたしを見て、それから自分の手元を見下ろした。真似してわたしも自分の両手を見下ろしてみたけれど、透き通る肌と小さくてほそっこい手があるだけだった。握る、開く、変わらない。
「……魔法、とおんなじ?」
ノノの言葉に、アンリさんは、うわーって顔をした。ノノはちっとも気にした風がない。
「概ね、正解だ。察しがいいな?」
「さっき、姉さんがぼくの魔法にほんの少しだけど干渉したから。そうなのかなあって」
話が通じてしまったらしい二人をぼんやり見てたら、アンリさんはわたしを見てちょっと安心したように笑った。わたしが理解してなかったからだ、ちくしょう。
「魔法の原理の話だ。操る人間はこっち側、魔力を操って人が本来干渉出来ないあっち側に変化を起こして、結果こっち側に影響を及ぼさせる」
あっち、こっち、と身振りを合わせてわたしに説明してくれる。
「で、魔物っつーのはその隙間にいる。半分あっち側なのに、こっち側に影法師のような肉体を持つ。だから、干渉が難しいし影響を及ぼしにくい。おまえなんかはその影すら無いから、こっち側からは普通は観測すら難しい」
なるほどー、ととりあえず頷くわたしには、多分本格的な理解は必要ないのだろう。ノノが理解しているからいいのだ。たぶん。
とにかくわたしは中途半端な隙間の幽霊で、物理は無効で魔法にも耐性があるみたいだ。魔力が干渉するために通り過ぎるその一瞬、きっと光とか音の速度みたいなレベルでちょっと触れられるだけなのだろう。すごいや、おばけ。
「魔物に関わる信徒は、まずそれを理解するために魔力操作の訓練をする。魔法、武器、声、肉体、視線、あらゆる物から干渉しやすい方法を探って、自力で魔物に干渉出来るようになるのが見習いの一歩目だ」
「ノノは、わたしが見えるんだよね?」
見習いになる前から自力で成すなんて、とてもすごいことじゃないだろうか。とてもすごいと思う。
「うん。ぼくの魔法にね、姉さんが触れたのがわかったから。ぼくは姉さんを間違えない。そこにいるんだったら、魔法で触れられたんなら、って、そのまま引き寄せたら見えるようになった」
魔法を使えないわたしにはよくわからない感覚だけど、ノノがすごくて可愛いことは十二分に理解した。かわいい。天才。
「……普通、できねえからな!?」
「うん、ノノがすごい! ふふ、えらいねえ、すごいねえ」
「でしょ」
アンリさんは何か言いたげに半眼になったけれど、疲れたようにまた溜めた息を吐き出しただけだった。正直、多分説明されてもあんまりよくわからないと思う。すごいんだなあ。
「ったく、それだ。それが、魔物と人間が共に在る方法だ。教会では、契約とも呼ぶ」
「えっ」
――てっきり、これからその方法を学んで、がんばって修行して、成すか成されないかがいつか訪れるものだと思っていた。おかしいぞ、話が変わってきた。
「魔物は中途半端で不安定だ。だから、こっち側で形を保つには自我と理性が強靱でないと長く保たない。曖昧になって存在ごと消滅するか、縋った感情に飲み込まれて理性が負ける。おまえも大分揺らいでただろう」
と、今度はわたしに視線が向く。素直に頷くと、ノノが不安に瞳を曇らせた。大丈夫だよ、と笑ってみせる。
「魔法で干渉するだけならその性質は変わらない。が、こいつ、奇跡的に契約に必要な条件を十二分にそろえやがった」
「そうなんだ? すごいね」
「……本来、互いの同意をとってやるものだ。説明はするが、もし喧嘩をするなら勝手にしてくれ、手遅れだ」
……なんだか、脅された気がする。ノノも首を傾げたから、作為的でも悪意があった訳でもないのだろう。じゃあ、問題ない。
「ノノが平気なら、なんでも大丈夫だよ」
「ぼくは姉さんが居ないなら、生きていく意味がないから」
あどけなく笑うノノは、やっぱり褒めてはいけない思想だろう。でも、先に死んでしまった以上、わたしに文句を言う権利はない。それに多分、ノノが先に死んだらわたしも同じぐらい思い詰める気がする。手遅れなのだろう、そもそもわたしたちは。
くふくふと笑いあうわたしたちにアンリさんはまた半眼になって、それ以上の追求をしなかった。
「――契約に必須なのは、望む人間と、魔物本人だけだ。だが、その死体があれば飛躍的に結びつけやすくなる」
言われて、自分の死体に視線を向けた。やっぱり相変わらず嫌で逃げ出したい存在だけれど、少し、まし、になった気がしなくもない。慣れたのだろうか。
「魔物は自分の死体が弱点だ。こっち側に残された、強く自分に干渉できる唯一の存在だからだ」
「うん。すごく、こわい。やだし、……ぐちゃぐちゃなきもちになる」
ずるくて羨ましくておぞましい、変わることのない現実を突きつけてくる容赦のない現実の権化だ。
「らしいな。だから無事に死体が残っていることがそもそも珍しいし、逃げずに魔物自身が傍にいることが奇跡だ。その時点で、契約するという目的があるから耐えている状況が大半だな。――おまえは、逃げなかった」
そこにノノが居たからだ、とは言うまでもなかったのだろう、物憂げな彩が新芽色の瞳によぎる。前世の記憶と未来への杞憂のおかげで、わたしは逃げ出さずに済んだのだ。幸か不幸か、わからない話だ。
「魔物自身は隙間に居るが、死体は確かにこっちに在る。それを魔物自身が本能で認識するからこそ、弱点になる」
これには理屈より本能で理解できたので、ここまでで一番明確に頷いた。おにいさんはちょっと口の端を持ち上げた。案外、よく笑う人だ。
「契約っつーのは、端的に言えば不安定な魔物に対して人間が楔となって、存在をこちら側に安定させることだ。重ねて共鳴させて、同じ物だと存在を連動させる。別の存在と繋げることは難しいが、影である死体があれば、繋がりやすい」
――その言葉を、噛み砕いて、考えた。多分最初に抱いたのは違和感で、あれ、とそれを辿るのに少し時間がかかった。
順番だ、と気付いたのは直感に近かった。ノノからわたしは見えてなかった、気付かなかった。それなら、難しい契約なんてもっともっと難しいだろう。ノノがわたしの存在を知ったのは、ついさっきなのだ。見えたから契約したのでなく、契約してから、見えたはず。
ノノの傍にいたのは、この子がずっと「干渉」してたのは――
「わたしの、死体」
呟いた声に、おにいさんは頷いた。嫌そうに、ちょっと睨むみたいに、叱るみたいに、心配してるみたいに、ノノを見た。
「自分の肉体と、お前の死体を連動させている。共鳴させ、同一化し、楔となった。そうして魔物本人が伸ばした手を魔力で引き寄せ、人に結びつけた。手順としては滅茶苦茶だが、必要な行程は完璧に近い形で踏んでんだよ」
それって、つまり、ええと、待って欲しい。ええ?
死体を媒介に、魔物のわたしと人間のノノが繋がっている。ノノはわたしに干渉できないけれど、死体はわたしに干渉できる。わたしの楔となるための死体に、ノノが連動している。――生きているみたいなわたしの死体に、ノノはいったい、なにをした? 同一化? 死体と? 生きているノノと死んでいるわたしが?
呆然と見下ろす中にある、いきているみたいに桃色の頬の、穏やかな顔で眠っているだけにしかみえない、わたしの死体。
嫌な気配が、背中を撫でた。じゃあ、死体が死体らしくなったら、連動したノノはどうなる?
「――わたしの死体を処分したら、連動したノノも、死んじゃう?」
「それが、契約だ」
目眩がした。手遅れだとは言われたけど、手遅れの度合いが本当に手遅れだった。
半ば確信めいた心持ちでゆるゆるとノノに視線を向ければ――ノノは、やっぱり、心底安心した、みたいな顔で笑っていた。一分の後悔もない晴れ晴れとした穏やかな顔で、誇らしげにさえ見える。
ああ――今更だけれど。わたしの弟は、びっくりするぐらい、天才なのだった。
今となってはもう、原作のノノというキャラクターが辿った未来すら怪しくなってきた。
生きている人形みたいな死体を持ち歩いている、シスコンロリコン天才ヒーラー。あれは人形なんかじゃなかったんだ、きっと。ノノは、わたしが魔物になっているのを知る前から自分と死体を紐付けて、腐らないように、魔法を使い続けていた。その何処かで、わたしの死体を守るために自分の命をいとも素直に利用したのだろう。ずっと、ずっと、死ぬまできっと。
――寂しくて、悲しくて、嬉しかった。ほんとうに、頭が良いはずのわたしの弟は、ほんとうにばかだ。
「ノノ」
呼びかける声に、喜びが滲むことが可笑しかった。嘆くべきで、叱るべきだ。お姉ちゃんなんだから。死者と生者なのだから。
だけど、もう、手遅れだった。この現状も、わたしも、ノノも。なにもかも、ぐずぐずに腐って落ちた果物みたいに甘くて取り返しがつかない結果が実ったのだ。
「だいすき」
ぼくもだよ、と誇らしげに笑うノノを、わたしはもう一度、思いっきり抱きしめた。
アンリさんは呆れながらもすっかり諦めたような顔をして、これからの話をした。
あと三日ほどで船は隣国に到着し、そこで一度警邏と教会に厄介になる。信徒は魔物関連の沙汰においては教会の特性上の信頼があり、保護監督役として立場を明確にしてくれたおかげでノノも大きな罪には問われないらしい。今回の件ではわたしという明確な犠牲者と船員という加害者が存在し、浮浪児二名の不法入国の責は手引きした加害者にかかる。良かった、子供で。
そも、この世界では平時の入国はそれほど厳しくないらしいのだ。戦時中でもないし、国民、それも平民なんて管理も権利もざっくりしている。もっと偉い人に関わるのならともかく、平民一人がどこへ行こうが大した問題じゃあないらしい。それもそうか。
だから隣国に着いても、ノノはお叱りよりも同情を受けるだろう、とアンリさんは言った。保護者として船の乗り賃、及び罰金は肩代わりしてくれるそうなので事情聴取後解放、教会へ見習いとして挨拶に向かうことになる。そうして、数年は共に過ごすのだ。
ノノは天才ですごいけど、まだ子供だ。当然、出来ないことが沢山ある。しかも、わたしという死体を自分と連動させてしまった故に保護し続けなければいけない。正気の人間のする事じゃない。死体を使って契約するにしても、普通は朽ちても致命に至らないような一部分しか用いらないらしい。それは、そう。ほんとうに、そう。
だけれどそのリスクの分、わたしは存在としてはとても安定しているそうだ。少なくとも簡単に霧散したりはしないらしい。
魔法や精霊しか関与出来ないあっち側にも、人間が物理を握るこっち側にも。そのどちら側に於いても、確かな実体を持つ存在として影響できる可能性を持つ立場となった。ちゃんと自分の扱い方を学べば、どっちに在るかの比率も変えられるんじゃねーの、とアンリさんは言った。
ノノが不自由になった分、わたしの自由が増えたのだ。天才のノノが自由な方が絶対良かった。いや、がんばるけど! がんばるけど!!
そんな真面目な話をしていると、かくん、とノノの頭が揺れた。何度かふらふらして、すぐに頭が持ち上がらなくなった。
アンリさんはゆっくり立ち上がって、そっとノノを寝台に寝かせて毛布を掛ける。ぷかぷかしてるわたしも、ノノの頭をそっと撫でた。すかすかと無意味なはずで、目を閉じて見えないはずなのに、ノノはふにゃりと頬をゆるめた。
「――気絶じゃなくて、ちゃんと寝てるノノ、ひさしぶりにみたぁ」
嬉しくて、声がくすくす揺れてしまう。ずっとずっと独りでがんばっていたノノが、やっと精神的にも休めるのだ。
わたしと契約状態になったことにより、連動のための魔法にもわたしの存在が干渉するようになったらしい。ノノが常に魔法を行使し続けなくても、わたしが居れば問題なく働いている。生きてる、わたしの死体。意味が解らない。
にまにまノノを見ているわたしに、アンリさんが潜めた声をかける。
「少し、船の様子を見てくる。なんかあったら呼びに来い。鍵はかけてくから、そいつが起きても部屋から出すなよ」
「わかった。おてすう、おかけします。ありがとう」
厄介事としての自認があるので殊勝に頭を下げれば、おにいさんはひらりと手を振るだけの返事をした。
ぱたん、がちゃり。眠る子供に配慮するような控えめな音と、足音が遠のいていく。
穏やかなランプが小さく灯る部屋の中、ぎい、ぎい、と遠く船は軋んで波が船を洗う。狭くて息苦しい木箱の中じゃなくて、少し貧相だけど十分睡眠がとれる寝台の上で可愛い弟は穏やかにわたしの死体と眠っている。わたしは生き返らないけれど、これからが生まれてしまった。ノノが生きる場所を、手助けしてくれる人と縁を結ぶことが出来た。世界って案外、やさしくてあったかいのかもしれない。と、死んだわたしが言うのは皮肉だろうか。だけれど、まあ、なんにしろ。
――ひとしにいちど、願ってみるものだなあ。




