■10 あまいうみ
ノノと目があった。と思ったら、ノノが笑った。……もしかしたら寝ぼけているのかも、と思ってふよふよ浮いて移動してみたら、目線が間違いなく追いかけてきていた。――見えてる、これ!
「あ、あれ? あれー!?」
「うっそだろマジかよ……」
混乱して意味のない言葉をこぼすわたし、もとい、わたしたちを見て、おにいさんが低く唸った。第三者から見ても見解は一緒らしい。見えてる、これ。なんで? なにが起きた?
「ディ、ディ、ほめて」
「……ノノ、わたしは」
「ぼく、がんばった、から、褒めて」
床に転がったまま、ノノはあどけなく笑った。幼子じみた無防備な笑みは、突き放したら壊れてしまいそうなほど柔らかで儚く見える。
そうでなくたって、わたしが、このわたしが――お姉ちゃんが、かわいいかわいい弟が甘えてるのに、甘やかさないはずがない。
わたしはノノの傍にぷかぷか降りて、いつもみたいに頬を寄せてすりあわせる。温度も感触もないけれど、そのまま抱きしめて、背中と頭をよしよしと撫でる。触れないけれど、小さくて細い背中とさらさらの柔らかな感触は、記憶から容易に取り出せる。
「ありがとう、ノノ、だいすき」
ほめる、というより伝えたいだけの言葉を溢れさせるわたしの腕の中で、ふふ、とノノの気の抜けた笑い声がする。くふくふ小さく肩を揺らして、わたしに身を寄せた。わたしの身体は、湯気みたいにゆらゆら揺れてノノを透かせる。それに嘆くでも恐怖するでもなく、熱に浮かされたように笑うばかりだ。
「ディが迎えに来てくれたから、これがいい」
まるで会話になってない、向け合う互いの感情を言葉にしただけの応酬。ふわふわと溶けそうな声が甘えるので、魔物のわたしは喜んでノノを連れて行きたくなる。だけど、お姉ちゃんはぐっと我慢する。いま、この子はまともな判断力が無い状態だ。限界状態、おやすみが必要なことは間違いない。逸るな、わたし。
「迎えに来たんじゃ、ないよ。ノノは、生きてる」
「ぼくが生きてるのは、姉さんが守ってくれたからだよ。いままでも、これからも、ずっと」
「ノノ」
「ずっと、だよ」
晴れた空の瞳がわたしを見ている。まだ声変わりしていない透き通った声がわたしを呼んでいる。ああ、――だめだ、くらくらする。砂糖菓子みたいなノノ。諭して生きている世界に目を向かせなきゃいけないのに、この視線から逃れられない。拘束力なんてひとつもないのに、ふりほどけない。うれしい、うれしい。
いいのかも、ずっと一緒でも。だって、それがわたしたちの、しあわせなのだから。
腕の中のノノをもっとこちらへ、わたしのところへ、と引き寄せようとしたところで――ひょい、と姿が浮いた。ぱち、と瞬きをすれば、ノノを持ち上げて物理的にひきはがすおにいさんが居た。あまいあまい誘惑が、鼻先から取り上げられてしまう。
「はなして」
「一旦落ち着けガキども」
確かにわたしが幽霊である以上、ひきはがすならノノの方しかないのか、と納得しつつ伸ばしそうになる手を押さえて呼吸を意識する。深呼吸、深呼吸。嬉しくて、寂しくて、恨めしい。ああ、ああ、ああ。どうしてこんなに、酷いことを、するんだろう。欲しくて欲しくて仕方ない。においの無い残り香が、満たされることのない空白に爪痕を残す。
ノノは持ち上げられたまま、いまだわたしに手を伸ばしていた。寝台の方へ連れて行かれるのにわたしばかり見ていて、降ろされてもまたすぐ駆け寄るのが目に見えていた。だから、わたしもノノに近付いた。目覚めることのないわたしの死体は、やっぱり気味が悪かった。
「ディ、ディ」
「うん、いるよ、ノノ」
寝台の上、また当たり前みたいにわたしの死体を抱きしめて、わたしを呼んで、ノノは笑った。安堵の笑みだった。
おい、と低く不機嫌そうなおにいさんの低い声が割り込んだ。ノノはそっちを見ようともしないので、わたしがふよふよ浮いておにいさんの後ろに回り込んだ。ノノは首をこてんと傾げながら手を伸ばして、なおおにいさんごしにわたしにだけ微笑んだ。かわいい。ちがう。
「――おまえ、知ってたのか?」
おにいさんが、ノノをまっすぐに見る。何をだろう。ノノも、ちらりとおにいさんを見てから、同じ疑問を口にした。
「なにを?」
「魔物に干渉する方法」
まもの、と不思議そうに呟いてから、わたしに向けた目を少し細めた。
「そっか、魔物の一種、なんだ」
「幽霊、おばけだよ」
わざとおどけるように、ほら透けてるよー、と手を振ったら、ノノもこくりと大きく頷いた。
「魔物の勉強、するね。安心して、姉さん」
「ノノはすごいねえ」
「――。そう、だよ、ぼくはすごいんだから」
言葉を飲み込んで、ノノは言った。うん、と頷くことしか、わたしには出来ない。
ノノはすごい。それでも、世界はもっとすごくて理不尽で、目指した幸福は治らない欠損に歪んだ。それでもわたしたちは奇跡のようにまたこうして言葉を交わしている。わたしは上手く生きられなかったくせに、死ぬのもへたくそなのだ。ほんとうに、ひどいはなしである。
それから、ノノは数秒目を閉じた。そうしてようやく、わたしからちゃんと視線をはずして、おにいさんを見た。
「ねえ、おにいさん、ぼくを保護したんだよね」
「まあ」
「ぼくは、ノノ。姉さんの弟で、治癒魔法が得意。記憶するのも得意で、それなりに利用価値があるよ」
ぎゅ、とおにいさんの眉間に皺が寄った。たぶん、姉弟揃ってまずは自分を買わそうとしてきたからだと思う。
「だから、ぼくの先生になってよ」
にこ、と人に愛される笑顔で、ノノは天使みたいに小首を傾げた。あざとい。
「ここで買うのがいちばんお買い得だと思うよ。ぼく、ある程度なら利用されて良いよ」
「売り込むな」
「状況を鑑みるに、おにいさん、教会の人なんだよね。姉さんと一緒に居るために、その知識が欲しいんだ」
「話を進めるな」
おにいさんは、はあ、とため息を吐いた。姉弟揃って迷惑をかけて恐縮だけれど、ああなったノノを止めることはわたしには出来ない。多分、わたしが考えるより二歩も三歩も先を考えているから、手に負えないのだ。感情論と押し売りだけのわたしとは、違う。たぶん。そんな気がする。だってノノはすごいから。すごくなくったって大好きだけど。
「おまえ、そいつから手を離すつもりは」
「ないよ。絶対、しない」
当然のように、食い気味にノノは断言した。――やっぱり、これはもう、無理だ。わたしがここに存在していると知られた以上、穏便に姿を消して干渉しないよう消え去ることはよっぽどのことがないと不可能だ。こんなにぼろぼろなノノを突き放してこれ以上傷つけることなんてわたしには出来ないからだ。あとは悪霊にならないよう自我を保てるようにがんばろう。
どうみても肯定的ではない表情で、けれどおにいさんは存外あっさりと頷いた。さすがノノだ。
「解った。指導する。っつーか、そこまでやっちまった以上、詳しく知らない方がまずい」
「さっき言ってた、魔物への干渉、ってやつ?」
「そーだよ。自力でやりやがるやつが居るとは思わなかった」
褒め言葉かどうか怪しい声音に、ノノはにこりとわざとらしく笑った。それから、わたしを見てゆるゆると笑顔をとろかした。
「姉さん、ぼく、すごいんだ。だから――姉さんと、一緒に居る」
「よく、わからないけど、……できるの?」
「姉さんも、望んでくれるなら」
「それはもちろん」
「うん」
ノノが言うならきっとそうなのだ。もし出来なくても、ノノがそう望むのなら、諦めるまでわたしだってあきらめないだけだ。――呪いと祝福はおなじものだ、と言うのは、世の真理だ。本当に、どちらなのかは渦中にいても判然としない。
ふよ、と飛んで寄り添って、ノノの傍からおにいさんへ視線を向ける。
「――よろしく、おねがい、します」
ぺこ、と頭を下げると、おにいさんは渋そうな顔のままひらりと手を振った。
信徒と孤児と死体と幽霊が、ゆらゆら踊る波の上、小さな船室で向かい合う。変な図だ。
まず、とおにいさんが口を開く。
「本来とは手順も道理も異なるが、非常事態だ。俺が指導役になる、アンリだ。暫くはおまえの保護監督役として過ごすことになる」
「アンリ」
ぱち、とノノが瞬いた。気のせいだろうか、一瞬、瞳孔がきゅっと細くなる。じっとおにいさん――アンリさんの顔を見て、頷いた。そういえば恩人であるおにいさんの名前を尋ねもしてなかったな、と今更思い至る。視野狭窄極まっている。
呼び捨てられたことにか一瞬何か言いたげにしたけれど、浅いため息一つ。アンリさんはそのまま説明を続けることにしたらしい。
「魔物と縁を結び続けるのは、難しい。知識と手段と認可が必要だ。故に、おまえが望むことを叶えるには教会の信徒という役目と義務が生じる。それに反すれば、おまえもそこの幽霊も処分される可能性がある。わかるか?」
こくり、とノノは素直に頷いた。おにいさんも頷いて、元からそう大きくはない声をさらに潜める。
「魔物が人から生まれる限り、連なって嘆く人間がいる。だから教会の門戸は常に開かれて居るが、くぐった後に教えに反する者には甘くない。飽くまで、魔物に成り果てた、もしくは成ってしまったかもしれない存在との関わり方を指導し援助する組織だ。教会と銘打っているが、神がどうだの救いだのっつー類の教えは殆どない」
教会、という名前に似合わない、奇妙な組織だ。前世でゲーム世界として見ていた時でさえ変わってるな~、と首を傾げた覚えがある。でも、教会なのだ。とおいとおいむかし、その志を持って歩き出した存在を――始祖を、神様のように崇めて支えた存在が居たからだ。シナリオで見た。
「教えに反しているかどうかは、どうやって確かめられるの?」
ノノが問うと、あー、とアンリさんは僅かに言葉を迷わせた。
「詳しいことは知らされていないが、監視者がいる。慈悲深く我々を導きたもう神様の傍には、冷酷無比な狂犬がついているんだ。神様の御心を踏みにじる真似をすると容赦は無い、らしい」
あいにく俺は敬虔な信徒なんで何が起こるかは知らねえけど、と肩を竦めてみせるおにいさん。そう、そうなのだ、教会に纏わる攻略キャラクターにあまりに横暴な――例えば、教会の名を使って道理に反した行動を強いたり、知り得た魔物の情報を私欲に利用すると、件の『狂犬』に処分されるバッドエンドに直行する。本当に容赦がない。どれだけ強化したキャラクターでもイベントでボロ負けするので、ゲーム本編中もっとも戦闘能力で最強なのは『狂犬』だと結論づけられていた。それを従える始祖は名前だけの登場で、ファンディスクのおまけのミニシナリオでの登場だったのでノーカンだ。
「義務、の具体的な内容をおしえて」
「最初は数年、見習いとして指導役に学ぶこと。魔物とは対話を試み、互いの領分を侵すと判断した場合、被害を押さえるために尽力すること。魔物が人と共に生きることを望んだ場合、始祖との対話に応じること。主なのはこの辺だな」
「始祖?」
「教会を立ち上げたご本人、不老不死と言われる魔物だ。滅多に人前に姿を現さないが、今でも代わりがいない、『神様』らしい」
ノノが僅かに目を見張った。察するに多分、ここまでの話は協会の関係者にしか語られていないのだろう。
――魔物を想う、人間のための組織。それのてっぺんにいるが魔物だなんて、ほんとうに酷く歪で、優しくて、奇妙な組織だ。
始祖が望むのは、哀れな魔物の穏やかな幸福というささやかで叶え難いものだった。魔物は基本的に統率のない存在なので、本能的な恨みを抱えて怯えて誰かを害して、敵対したならば孤立した存在は遠からず集団である人間に討伐される。それを覆すために、むかし始祖は世界を巡り多くの魔物と向き合い、言葉を交わし、生きるを望まぬ者を互いのために手に掛けた。長い長い年月を掛けて、人間とも手を取り合い、現在までようやく至ったのだ。そりゃあ心酔する信者が居るのも頷けるって話である。
「ぼくたちも、会うの?」
「そうなるだろうな」
「どんなひと?」
「さあな、俺は会ったことがないからなあ」
アンリさんは軽く肩を竦めてみせる。……それは、まだ、彼が、信徒となった目的のひとに会えていないということだろうか。もしくは、会った上で、今こうしてここに居るという、ことだろうか。
つい、わたしの眉間がきゅっと寄ってしまったのだと思う。対するおにいさんは軽率な想像で勝手に感情を抱いたわたしに怒ることもなく、軽いことのように笑って両手を持ち上げた。左右のそれぞれで、わたしとノノの頭をぐしゃっと掻くように撫でる。わたしのくるくる頭は湯気のようにふわふわ揺れただけだけれど、ノノの髪は乱れて表情が見えなくなっていた。……ノノも、変な顔をしてたのかもしれない。
「俺の探し人は、魔物になってなかったっつーだけだ。足取りを追って、亡くなったって場所で暫く調査したけどなんの噂もなかった。それだけだ」
その言葉にさえどう返すのが正解か解らず、そっか、とだけしか答えられなかった。ノノはおにいさんの手を押しのけて前髪をなおしながら、早合点だったんだね、とらしくない生意気な減らず口を叩いた。うるせ、とまた頭をわしゃわしゃされていたのでほっとしながら、ずるい、と濁りそうになるのを飲み込んだ。とってもずるい。
「ま、ここまでの話を呑んだ後が急ぎの話だ。――おまえと、おまえの話だ」
アンリさんが、ノノと、わたしを順番に指さした。だからわたしは、慌てて背筋をぴんと伸ばした。