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■1 いっぱいのあいじょう



 子供が泣いている。

 年齢は体躯からして十を越えたか越えないか。正確な値は、わたしも本人もきっと解らない。たぶん、もう、知ることはないのだろう。


 子供の食いしばった小さな口から呼気がふうふうと漏れて、瞳からぼろぼろこぼれ続ける涙が真っ赤な頬を滑り落ちていく。晴れた空色の瞳が、大雨のいろ。ああもう、あんなに腫れて、痛々しくてひどくもどかしい。そんなに擦っちゃだめだよ、と今こそわたしが言って手を取ってあげなくてはいけないのに。


 あの子の癖のない素直な髪が涙で頬にすっかり張り付いて、もうどこもかしこもぐしゃぐしゃだ。押し殺した呻き声と、鼻を啜る濡れた音。それが、ごうん、ごうんと鈍く揺れるこの暗い船室内にか細くか細く鳴っていた。まあ、船室というか、船底に近い貨物置き場の船倉、その片隅の、さらに狭い木箱の中、なのだけれど。


 子供は、この子は、かわいいかわいい、わたしの弟は。ずうっとわたしにすがりついて泣いている。大丈夫だよ、と笑いかけて安心させてあげる事ができない。手を伸ばして撫でることができない。ただただ、わたしを離さない小さなこの子を見下ろすことしかできない。

 ――わたしは、ただ、見下ろしている。



 ひとつ息を吐く。一生見ることなんてないと思っていた光景に、わたしだってどうしたらいいか解らない。ぎゅうと目蓋を閉じて、開いて、巡る雑多が意味のない乾いた笑みになった。ふふ、と掠れきった小さな笑い声は濡れた呼吸にあっさりかき消された。

 届かない。もう、届かないのだ。一生に一度のおねがい、なんて使うチャンスはなかった。冥土の土産、なんてもらえなかった。

 どれだけすがりついて幾度名を呼ばれようと、彼の腕の中のわたしはぴくりとも動かない。そこにあるのは、死体だった。わたしの、死体だった。



 わたしの死体にすがりついて泣く弟を、わたしは、頭上からぼんやり見下ろしている。




 ――ああ、わたしはどうやら、死んでしまったらしい。





 この世界には魔法があって、魔物が居て、精霊が居て、貴族が居て王族が居る。神様というのが本当に居るかは解らないけれど、とにかくわたしから見れば随分とファンタジーな世界だ。いろいろと鑑みて、ああ、これあのゲームの世界で異世界転生してたんだ、と気付いたのは死んだ後だった。手遅れにもほどがある。対策しようもなければ逆行しループする気配もない。正真正銘詰み盤面、人生として終わってる。


 死んで、思い出して、もうどうしようもなく終わっていて、それでもここには確かな自我がある。前世と過去と未来の情報量に押し流されそうになるわたしが辛うじて瓦解せず繋ぎ止められたのは、幼い弟がわたしの死骸にすがりついて手放さなかったからだ。わたしを殺した男が目の前に居るのに、怯え助けを求めることもなくただ死体を手放すことを拒絶した健気で異常な弟がたった一人。これで正気を手放し逃げられる姉ではなかったらしい、わたし。あっぱれだ。


 かわいいかわいい、たった一人の弟。今世で記憶の始まりは娼館の裏通り、いつのまにかたった二人でお腹を空かせて寄り添っていた。過去は胡乱で曖昧で、記憶は遠く思い出せないところの方が多い。産みの親も知らなければ、本当の姉弟かどうかも解らない。というか、多分違う。似てないし、産まれた頃から一緒だったのならもっと昔からの記憶も覚えていると思う。

 それでもなんとなく、根拠無く、この子を助けなきゃというのがわたしの根本的な原動力だった。だから、あの子を抱きしめたどうしてだか怪我だらけだったわたしは姉で、泣きだしそうに震えていたあの子は弟だった。


 そのころ、わたしたちには名前も無かった。呼ぶ人が居ない以前に、自分に必要なものだという意識すらなかったのだ。あれは明るく賑やかな路を歩く人々が、目も眩む大勢の中でも誰かを見失わないために必要なものだと認識していた。この誰もが身を潜めて目をあわせない、個の認識が不必要な薄暗い場所には要らなかった。姉と弟、その区分で足りたのだ。


 運が良かった――良かった、と思いたい事実として、わたしはそれなりに身体が丈夫で弟には魔法の才能があった。ああだこうだとそれなりに色々あった末にわたしたちは個の名前を得て、娼館での下働きを許されて、なんとかここまで生き延びることができたのだ。

 主な仕事は雑務清掃と店のねえさんたちのメンタルケア。基本的に子を産み育てることが推奨されないねえさんたちは、しょうがないねえ、と渋った風にわたしたちを受け入れ可愛がってくれた。大したことも出来ない子供を、店主からあれこれとかばってくれた。どうして赤の他人にそこまでしてくれたのか、死んだ今になっても腑に落ちない。


 例えば。弟は品の良い白に近い金髪で、癖がなくて真っ直ぐだった。やわくて美しい髪なので買い取ってもらうために伸ばしていたのだけど、日々弟の髪に櫛を入れ油を馴染ませ頬を緩めていたねえさんの姿は買い取り以上の手間で意味だった。だから、弟の髪は短くなった今だってさらさらで美しくて柔らかい。涙で頬にべったりくっついてはいるけれど。ちなみにわたしの髪は弟より濃い金色でくるんくるんの手強い癖っ毛だったので、手入れが面倒でのばしていない。けれどねえさんたちはそれさえ、鮮やかな色で飾った指を絡ませてはくるくると撫でて、寝過ぎた日向の猫みたい、とくすくすと笑うのだ。今日もかわいい寝癖頭ねうずまきちゃん、とねえさんたちはいつも両手でわたしの頭をやわらかくぐしゃぐしゃに――やめよう、こんな話。もう、意味がない。


 とにかく、弟には魔法の才能があった。事象を活性化させ、代謝を加速し、細かな世界の理をほんの少し操作する。循環と増幅、そんなわたしの理解の外の奇跡が、得意だった。

 生前のわたしには学だとか専門的な知識は当然ない。文字だってほとんど読めなくて、数字は数えられるけれど難しい計算なんてできない。それでも弟がそれなりに特異な魔法を――治癒の魔法を扱えるのは、きっと環境と才能のせいだった。


 娼館で世話になる以前、酷い環境でそれなりに無茶を重ねて生き延びていたわたしはいつだって死にかけほうほうの体。傷だらけで色んなところが腫れては膿んで、潰れて腐りそうになるのを弟が必死に魔力を巡らせ繋いだ命なのだ。どうみたって一桁代しか生きていなかったわたしが何回死にかけたか、数えることすらバカらしい。

 無茶をしては当然医者に見てもらえることもなく死にかけるわたしを、弟はただ救おうとした。砕け折れた場所を歪まないように押さえ込み、千切れた管を一つずつ繋ぎ合わせ、異物があれば吐き出させ免疫を活性化させ無害化させる。清めて、切って、入れ替えて、縫って、焼いて。間違いなく弟はわたしよりわたしの肉体を把握し、幾度となく命を救ってくれた。弟は間違いなく天才だ。


 わたしというそれなりに丈夫な人間を使った、数え切れない実地で背水の治療。最初はもちろんそれなりに失敗してわたしの中身は、まあ、少しばかり、多少、それなりにぐちゃぐちゃだけれど、それでも死ななかったのだから十分以上だろう。おかげでわたしの免疫くんは大変な異常で過剰な防衛っぷりだ。生前から、たぶんそんなに長生きは出来ないだろうなとなんとなく察していた。


 それなりに丈夫なわたしと、それなりに便利な魔法が使えた弟。それなりに愛されて、それなりに楽しい生活。それなりに最低で、それなりに幸福な人生。

 それらを唐突に終わらせたのは、身勝手な客の心中目当ての火事だった、らしい。らしい。異常に目を覚ましたら辺りに黒い煙が満ちていて、端っこの隅っこに居たわたしたちは転がり飛び出して、赤々とくべられる娼館を見上げるしかできなかった。そのまま娼館は無惨に焼け落ちて、生き残ったねえさんたちにひっそりと精一杯の治療をして、けれど店としては子供二人に庇護を与える余裕はすっかり燃え尽きてしまったらしい。らしい、としか言い様がないのだ。ねえさんたちにだってまだまだ治療が必要だったのに、無情なものである。


 商品棚から転がり落ちてしまったねえさんは、それでも最後にわたしたちを抱きしめた。他のねえさんを助けようとして片手を失ったそのひとは、居場所がなくなったわたしたちに教えてくれた。きっと言いたかったそれ以外の何もかもを飲み込んで、ただ未来へ繋がるようにと眦を濡らしていた。



「海を渡った、わたしの祖国。あの国なら、魔法を使える子供は庇護してもらえるわ」



 治療魔法ならきっと、異国民でもきっと。ねえさんは祈るようにひとつの国の名前を教えてくれた。少し焦げた一冊の本と、くしゃくしゃと頭を撫でるいつもの半分、片手いっぱいの祝福を受けて、わたしたちは旅立った。



 ――知っていた。これが、ねえさんたちなりのわたしたちの守り方だと、知っていた。知っていて、わたしは逃げ出したのだ。




全十三話、執筆済みです。最初に三話まとめて投稿後、日に一~二話投稿予定です。

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