忘れじの、蓮の葉
私の人生が大きく変わったのは、十年前のあの日。
父が「引っ越しする」と告げたとき、私は何も言えなかった。小さな頃から見てきた家がなくなることも、友達と別れることも、あの池のそばで遊べなくなることも。全部、仕方ないことだと思った。
「もう戻れないんだね……」
その日の夕方、校庭の池のそばで、私は一人つぶやく。蓮の葉が浮かぶ水面をぼんやり見つめながら、涙がこぼれるのを必死に堪えた。
惟央くんに会って、お別れを言うべきだったのかもしれない。でも、なんて言えばよかったのかわからない。
「またね」と軽く言える状況じゃなかった。
だから、何も言わずに去ることにした。彼に私の重たい荷物を背負わせたくなかったから。
新しい生活は想像以上に厳しかった。
転校先の学校では、表面的にはみんな優しく接してくれた。でも、その「優しさ」は、私の本当の気持ちに触れることはなかった。
「沙羅ちゃんって静かで大人っぽいね」
そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。本当はそうじゃない。私だって笑いたかったし、もっと自然に誰かと仲良くなりたかった。でも、どうしても心の中で壁を作ってしまう。
家でも、笑顔が消えていた。父は失意の中でうつむき、母は働き詰めで疲れている。私は誰にも迷惑をかけないように、「いい子」でいようと努めた。だけど、それは心を押しつぶすような感覚だった。
小学生の頃、とある雨の日。学校帰り、ふと図書館に寄った私は、一冊の本を手に取った。『蓮の葉の秘密』というタイトルが目に留まり、自然とページをめくった。
「蓮の葉は、表面が水を弾く構造になっていて、どんなに汚れた水の中でも清らかさを保つ」
その言葉を読んだとき、胸の中に何かが押し寄せてきた。
けど、今ならわかる。
──私は、そんなふうにはなれない。
泥の中でも綺麗でいるなんて、私には無理だ。現に今、私は自分の中に広がる泥に押しつぶされそうで、どうしようもなかったから。
中学生になる頃には、私の家庭はさらに崩壊に近づいていた。父は新しい仕事を見つけようとして失敗し、母は働く時間が増え、家にはいないことが多くなる。家族として一緒にいる意味が、次第に薄れていくような感覚があった。
そんな中、唯一私を支えてくれたのが祖母だった。祖母はいつも私の話を聞いてくれて、そっと優しい言葉をかけてくれた。
「大丈夫。あなたは蓮の葉のように、きっと浮かび上がれるわ」
でも、その祖母も体調を崩し、やがて私の前からいなくなった。
祖母の最後の言葉は、私の中で消えない痛みとして残った。
高校生になった頃、私は周囲に「弱さ」を見せない方法を覚えた。いつも微笑み、教師からの信頼を得て、友達とも表面的には仲良く接する。
でも心の奥底では、ずっと何かが沈んでいた。
あの街、あの池、そしてあの頃の記憶──。
それだけが私を支えていた。惟央くんの顔や声がふとした瞬間に思い出されるたび、私は泣きたくなるほど懐かしい気持ちに襲われる。
「もう一度、戻りたい」
そう思ったのは、高校最後の夏休みのことだった。
惟央くんに会いたい。その気持ちが私を動かした。何もかもが壊れそうになったとき、唯一残った希望だったから。
再会した惟央くんは、記憶の中と同じように優しかった。
でも私は、彼に自分のすべてを見せることが怖かった。傷ついた過去も、心の中にたまった泥も、全部彼に嫌われてしまうんじゃないかと思ったから。
けれど、彼は言った。
「もし沈みそうなら、俺が支えるよ」
その言葉に、私は初めて自分の心が少しだけ軽くなるのを感じた。
「それなら、少しだけ浮かべるかもしれないね」
彼と一緒にいると、蓮の葉が再び浮かび上がるような気がした。