8話 白鷺さんに、嘔吐シーンを。
目を開ける。
「…………え」
ここは……どこ? あれから…‥どうしたっけ?
薄暗い橙色の空が広がっている。状況が掴めず、恐る恐る右手を目の前まで掲げて何度か握ってみる。
「生きてる……? いや、死後の世界か……」
急いで体を起こして、周りを見回そうとしたが……。
「――っ!!!」
左肩に尋常ではない激痛が迸った。関節が固く縛り付けられているような感覚。動かしたらダメだ。痛すぎる。なんか、自分の肩じゃないみたいだ。なんだこれ。
骨と肉が軋む音を聞きながら、おぼつかない動きで辺りを見渡す。
「ここは……屋上……。まさか…………?!」
視界の端に見つけた、白い影。
「白鷺さん……」
「うぅ……あ、おはよぅ……」
少し離れたところで四つん這いになっている。顔だけこっちによこしてきた。酷く気持ち悪そうに項垂れていて、彼女のすぐ横には謎のもんじゃ焼きが吐き捨てられていた。
「……なんで…………」
「……言ったでしょ……死なせないって…………お、ぇぇぇ……」
もんじゃの体積が、少し増えた。
「……どうやって…………」
「それもないしょ…………と、いうか……しばらく喋りかけないで…………」
「あ、ごめん……」
すぐそこで、ずっと戻し続けている彼女を尻目に、僕は自分の掌を眺める。
「あの状況から……生還した……?」
なぜ生きている。どうやって助けた。なぜそんなに吐いている。僕の左肩はどうなってしまったんだ。わからない。なんだ。何があったんだ。
再び白鷺さんの方へ、目を向ける。
「おぅ……ふ…………ふぅ、ふぅ。おぇぇぇ……」
「…………うわぁ」
まだまだ大盛りにしてくれるらしい彼女に、めちゃくちゃドン引きしてしまった。
「どうやって引き上げたんだ。というかなんでまた邪魔しやがったてめぇ」と詰め寄って、怒り散らかしたい気持ちはまだあるんだ。けど、その容疑者にここまでの天罰が降っていると、さらに追い打ちをかけるのは気が引ける。
もう一度飛ぶことは容易いし、きっとこの状態なら彼女も止める手立てはないはずだ。今すぐ飛べば、必ず成功する。次こそ、確実に死ぬ。やるなら、今行くべきなんだ。わかってる。
「(…………いや、でも……)」
彼女の横まで歩いて行く。そして、すぐそばに腰を下ろし、背中をさする……のは遠慮しておいて、彼女から見える位置に座り直した。嘔吐シーンを見てしまわないよう、背を向けて夕日を眺める。
僕が見える場所にいれば、彼女も安心できるだろう。
「おぇぇぇ……」
それから1時間ほど経って。
「ごめん……」
「あ、うん。別にいいけど」
顔面蒼白の白鷺さんがフラフラな足取りで起き上がってきた。口元に涎を残して、「うぅー」と呻いている。
「……ぃまなんじー?」
「あー、えっと……19時くらいかな」
「……わたし、2時間も……吐いてたの……?」
話を聞くと、僕よりも早く目を覚ましてずっと嘔吐し続けていたらしい。流石に可哀想。
「大丈夫?」
「もう……平気。ありがと」
ぴょこんと頭を下げて、気まずそうに苦笑いを浮かべる白鷺さん。吐いちゃったの、多分恥ずかしいんだろうな。
「あんなに長い間吐いてれば、こっちも慣れるから、大丈夫だよ」
「それが……フォローのつもり……?」
口元の涎を拭いながら、「ベーっ」とわかりやすく拒絶してきた。そんな可愛らしい仕草をしかと見届けつつ、いよいよ本題に入る。
「聞きたいこと、あるんだけどいい?」
「……いいよ、何?」
「なんで僕はまだ生きてるの?」
「……え?」
鳩が豆鉄砲食らったかのように、ポカーンと呆けている。なんでだよ。引き上げたの君じゃないのか。
「あの状況から生還するのって、どういう……」
すると突然、はっ、と何かに気づいたような素振りを見せる。気まずそうに、視線を右斜め上へ逸らした後、チラチラとこちらの顔色を伺い始めた。
「……なんか………空からUFOが来て……ちょうどあなたが浮いて……戻ってきた」
「そんな訳なくない?」
何言ってんだこの人。
食い気味で即刻棄却した。
「自殺の邪魔したこと、怒らないから。その代わりに本当のこと教えてよ」
「…………」
なんとも居心地が悪そうに、頬を片方だけ膨らませて……何をするかと思ったら。
「…………っ!」
顔をぷいっと、背けてしまった。
「………えぇ……」
可愛らしくそっぽを向いて、物理的に疑いの目から逃げている。諦めずに繰り返し聞いたが黙秘を貫いていたまま。数分もこの攻防を続けたが。
「教えてってば」
「…………」
状況は変わらなかった。このまま続けても、多分無駄だろ。
「……まぁ、いいや。何も答えられることがないなら、もう帰るよ」
諦めるしかない。めちゃくちゃ気になるけど、しょうがない。大人しく帰ろうと、縒れた手提げを拾い上げて、ぶっ壊れたままの屋上のドアへ向かう。
「じゃあね、白鷺さん」
「…………」
最後の挨拶を済ませ、帰路に着いた。
死にたい気持ちは変わらない。独りぼっちな今も、辛い過去も、何も変わっていないから。
「(でも、少しだけ。心が軽いかも)」
生への執着が無くなって、死ぬ事も怖くなくなって。今は本当に、何にも縛られていない気がする。なんか、悪くない。気分が悪くないんだ。
次死ぬ時も、僕は笑っているんだろうなって、そう思えた。死は救いなんだって……いや、多分ちょっとずれてるかもしれないけど、そんなこの世の真理に気づいた。
「……ちょっと待って」
気持ち良く歩いていたのに、不意に呼ぶ声が聞こえてきて、反射的に足を止めた。
「まだ、死ぬつもりでしょ」
今日、何度も聞かれた言葉。ずっと、ずっと。返答は変わらないんだ。僕の心はいつだって。
「…………うん。死ぬつもり」
「……そ」
彼女は一文字だけ言って、話を終わらせた。なんだ。聞いた割にあっけない。
「じゃあ、話は変わるけど」
そう思った矢先、突然、彼女は訳のわからないことを言い出した。