3話 白鷺さんに、純粋な下心を。
「(……来た)」
純白の碧眼少女。ブレザーの両ポッケに手を突っ込みながらボケーっと突っ立っている。
彼女は、全方位から視線を浴びていることに気いたのか、不思議そうに教室内を見回す。
そして、それを跳ね除けるように堂々と歩みを進め、腰まで通る綺麗な白髪を左右にたなびかせる。
その毅然とした無表情を微塵も崩すことなく、彼女は僕の前の空席にゆっくりと腰を下ろした。
バナナはもう乗っかっていなかったが、うっすらと南国の香りがした。
「(……うわぁ、やっぱめっちゃ美人だなぁ……)」
圧倒的な可愛さ、美しさを前にして、僕の怒りはまた溶けて消えていった。
「………すごい…」
「………綺麗…」
教室の至る所から歓声が上がっている。しかし、彼女はどこか嫌そうに眉を顰めながら、逃げるように窓の外へ目を逸らした。
「あの、白鷺ユリさん、ですよね。俺担任の黒瀬なんだけど、ちょっと聞いてもいいかい。」
「なに?」
ぼそっと聞き返す。彼女の瞳は蒼空を映したままだ。
「今日は何の日だと思う?」
「……?……誰かの誕生日?」
「どこかで誰かしらは誕生日でしょうよ。……え、今日入学式ですよね?なんで遅れたんですか?」
「道でおばあちゃんが困ってたから」
「はい?」
「道でおばあちゃんが困ってたから。………道でおばあちゃんが困ってたから」
「聞こえています。目覚まし時計ですか」
「それはどういうこと?」
首を傾げて、じっと見つめる。渾身のツッコミは彼女の心に届いていない。そんな様子に狼狽えつつ、担任の黒瀬はそそくさと話を締める。
「とりあえず今日はいいです。次から絶対に連絡をするようにしてくださいね。」
「やだ」
「担任やめようかな」
奇妙なやり取りに、遅れてざわめき出す教室。
担任の黒瀬は手を2回叩いて、授業を再開した。
淡々と無機質に進んでいく、気怠げな1限目。担任の弛んだ声を聞き流しながら、前に鎮座する白鷺さんの華奢な背中を、再燃した怒りと共に後ろから睨みつける。今朝の恨みだ、くらえ。
しかし彼女は、相変わらず空を眺めて、何も考えてなさそうに呆けている。授業中なのに、机の上には何も出していない。それどころか、配布された教科書やプリント類は全て地面に捨てている。
その身に纏う神々しさとは対照的に、あまりにもアホっぽい。
「(…………)」
当人がこんな調子だと、僕のちんけな悪意なんかあっという間に削がれていくわけで。
「(…………いいや)」
逆恨みはここまでにすることにした。時間の無駄だし、もういいよ。
「(……にしても、なんか視線を感じる)」
後ろから教室を眺めてみると、ほとんどの生徒が彼女の容姿をしきりに盗み見ていた。
ある人はチラチラと横目で視線を忍ばせて。
ある人は窓の外を見るふりをして視界の端に捉えて。
他の人たちも今朝の僕と同じように、その美貌に釘付けとなっているようだ。
授業には似つかわしくない、浮ついた空気感が続く。
いつしか、容姿についての感想戦が各所で始まりだした。髪色がどうとか、肌がおもちみたいとか。砂糖醤油で食べちゃいたいだとか。
彼女が黙っているのをいいことに、好意と好奇の眼差しが躊躇なく向けられる。担任の黒瀬は未だに気怠そうなままで、咎めるつもりはなさそう。
数分も経てば、秘密裏に交わされていた会話が、威勢よく教室を飛び交い始めた。
褒め言葉だから良いだろう、誰か1人がそう言った。
彼女はというと、あれからずっと教室に背を向けるかのように、窓の外を眺めていた。そんな彼女の横顔を後ろから見つめる。
「……!」
蒼天を映し出すその瞳には、赤黒い殺意が滲んでいて。麗しく整った口元が、不快感に歪んでいて。
それから彼女は小さく口を開き。
「…………最悪」
僕にしか聞こえないくらいの声で呟いた。
すると白鷺さんは、教室を一望できるように身体の向きを変え、座り直す。スカートを折ってしまわないよう、腰からなぞって丁寧に。
辺りの喧騒が彼女の動きに気付いたようで、息を呑み、その一挙手一投足に注目し始めた。教室は静寂に包まれる。何を喋ってくれるのだろうか、どんな動きを見せてくれるのだろうか、そんな周囲の期待とは裏腹に
彼女はクラス全員を、明確な悪意を持って
「ちっ」
舌打ちでぶん殴った。
『………………』
白鷺さん以外の全員の肩が、ビクッと震えた。一瞬にして、教室は並々ならぬ緊張感に支配される。誰も喋れないまま、膠着状態が暫く続き。
「……やっぱ教師やめようかな」
担任の黒瀬が、この状況を愚痴りだしたことで、漸く時が動き出した。
彼女は居住まいを戻し、再び窓の外を眺めて。
「…………はぁ」
空の彼方へ不満を吐き出した。
1限も終わりが近い、そんな時。前の席の白鷺さんが、久しぶりに動いた。
「…………ん」
彼女は徐にプリントの端をちぎり、鞄から鉛筆を取り出し、何やら書き始めた。誰もが手を止め、固唾を飲んでその音に耳を澄ます。そして、書き終えたそれを……。
手だけ後ろに伸ばして僕に渡してきた。
「……え?」
親指ほどの小さな紙切れ。意図が汲み取れないでいると、それを僕の机にぱっと払い落として、何事もなかったかのように定位置に戻っていった。
「……えっ???」
頭の上に、幾千ものはてなマークが浮かぶ。一連の動きを盗み見ていた他の生徒らが、僕の動向を神妙な面持ちで窺っている。
「それ、何書いてあるの?」
僕の右隣に座っている朝の指差し女子が、僕に話しかけてきた。花宮さん、だったっけ?確か。新入生宣誓してた人。
「……あっ、あぁ、えっと……」
紙片を裏返し、確認する。
"まだ死ぬつもり?"
「…………」
「なんて?」
「…………え?あっ、な、何も書いてなかった」
「…………?そっかー。不思議だねー」
何も書いてないわけあるか、なんて訝しげな視線があちこちから突き刺さる。でも、言えるわけがないだろ。こんな内容。
というか、まだ死ぬつもりかって。彼女はそれを聞いてどうするつもりなんだ?冷やかしか。単なる興味か。
“もう死のうとしないでね”
また、朝の言葉を思い出した。
「(……邪魔するつもりなのかな)」
意図が読めない。彼女の背中を見つめながら、思考を巡らせる。気付いたら1限が終わっていた。