1話 死にたい僕に、花束を。
暖かい日差しが全身を優しく包み込み、花々の甘美な香りが鼻腔を満たす。穏やかな春の日の朝。
僕は、裸足で、屋上の端に立っていた。
人生初の、飛び込み自殺。奥歯がカチカチと震えていることに気付いて、必死になって噛み殺す。
そうやって自分を欺いて、誤魔化して、1時間かけてなんとかここまで進んだ。そしてまた一歩、前へと進む。あと少しで、地面がなくなる。
「大丈夫……大丈夫」
雲ひとつない青空の下、そよ風に乗せて小鳥が美しい旋律を奏でている。
咲き乱れる桃色の木々が、春風の誘惑に身を任せて柔らかに揺れている。
目眩がするほどの心地よさに吐きそうになった。
「僕は……大丈夫…………」
巻き上がった一枚の花びらが、僕の足元へと舞い落ちる。微かに冷たい感触が肌に伝わった瞬間、忘れようとしていた死の恐怖が鮮明に蘇り、身体中へ波のように広がっていく。震えを抑えつけようと強く俯いて、深呼吸を荒々しく繰り返した。
「はあっ……はぁっ………………はぁっ……」
足場を失ったままのつま先がいつの間にか強張って、アルマジロのように丸まっているのが見えた。
怖い。死にたくない。
ここから先へ、進みたくない。
だめだ。もう。
「………………いかなきゃ」
意を決して、もう一度足元を見下ろす。15メートルはあるだろうか。視界に広がるのは、固く冷たいアスファルト。頭から落ちれば一瞬で終わるはずだ。だから、ただ重力に身を預けるだけでいい。
「…………ふぅ」
大きく息を吐いて、心を整える。そして、風に背中を押されるようにして、ゆっくりと体を前に傾けた。そのまま、そのまま…。
けたたましく警報を響かせる心臓とは裏腹に、脳はただ正常に身体へ指令を下す。
前へ、前へ。そのまま前へ。
鼓動が止まる。息が止まる。あと少しで僕が消える。怖い。
もう既に、身体は取り返しのつかない位置にあった。
最後に残された僅かな時間。
みんな、何を思うのだろう。
僕は、何を思えばいいのだろう。
駆け巡る走馬灯が終わりを告げたとき、僕は。
「(………………)」
何も思えなかった。悲しくも、切なくもなく。ただ虚ろで。
無意味な人生だったんだと、実感した。
……
…………
………………
このまま、死ぬはずだった。けど。
落下が始まる寸前、誰かに強く右手首を引かれ、体は地面を目指すことなく逆方向へ。視界が反転し、背中から屋上へと叩きつけられた。
「……はぁっ!!!! はぁっ!! …………はぁっ!」
いまだに脈打つ愚かな心臓が、早鐘を打ちつけて止まらない。
上擦った呼吸音が忙しなく鳴り響いて、小鳥の囀りと不協和音を奏でている。
生きている。僕は生きているのか。
「……はぁっ……はぁっ……。なんで……」
鼓動も呼吸も静まり始めた。死に損ねたことに、やっと気付いたようだ。冷や汗が何筋も頬を伝うのを感じながら、恐る恐る息を吐き出した。
「(なっ、なんで……? 誰かに……掴まれた……?)」
「……大丈夫?」
視界の端から、白い人影がひょいっと現れた。清流のように澄んだ声。優しい音。逆光で顔はよく見えないが、おそらく女性だろう。
「…………え、大丈夫??」
この人だ。きっと、この人の手によって自殺は阻まれたんだ。そう気付いた瞬間、驚くよりも先に、恨みと怒りが膨らんでいった。
顔を確認したくて、少しだけ体を起こす。起き上がったら絶対にぶっ飛ばしてやる、なんて思っていたが、彼女の容姿が顕になると、そんな怒りは甘く溶けて消えていった。
「…………よかった。無事だ」
季節外れの雪を思わせる、繊細で美しい白髪。
透き通る純白の肌。
日本人離れしたパッチリと大きい瞳は、宝石のような青色の光を芯に宿している。
春風が彼女を撫でる度に制服のスカートが軽やかに舞い上がって、ドキリと心臓が揺れる。
呼吸も、怒りも、何もかもを忘れて、ただ見惚れていた。今この世界で最も美しい存在は彼女だと、一目見た瞬間に確信した。バカみたいに綺麗で、アホみたいに可愛い。
「…………はぁ」
慈愛に満ちた微笑みから一転。彼女は露骨に嫌な顔で、ため息を吐いた。そして、僕の下心から逃げるように目を逸らしながら、小さく呟く。
「高さが足りない」
「………え?」
「死ぬなら、もっと高く」
そう言って、彼女が指差す先には天高く聳え立った高層マンション。あそこなら死ねるよ、と。どうやら自殺のアドバイスを貰ったらしい。
「…………いや」
「ん?」
「…………頭からなら、ここでも」
「なら、試してみる?」
「………え?」
彼女は僕の左手を絡め取るように掴み、挑発的な笑みを浮かべながら容赦なく引き寄せた。そして。
「いくよ」
とだけ言って、一気に駆け出す。僕に構わずぐんぐんと加速していく。美少女との思わぬ肌の触れ合いに、照れて頬を紅潮させる……なんて暇はあるわけもなく。
ただひたすら困惑するばかりで、状況の変化についていけない。彼女は一体どこへ向かって……。
「っ!? ……おい!!」
「何?」
揺らぐ視界の中、やっとの思いで彼女の向かう先を視認できた。
「何してんだよ!!」
「やってみるの」
「はぁ!?!?」
駆け抜けていくその先には、清々しいほど晴天な、蒼い空。
あっという間に屋上の端まで辿り着き。
「せーのっ!」
彼女は力強く地面を踏み締めて、空の彼方へと飛び出した。
手はまだ固く握られていて、半ば引きずられるように、
「あぁぁぁぁ!!!!」
連れていかれた。
激しい浮遊感。目を瞑りながら情けなく雄叫びを漏らしていると、大量の思い出が脳裏をよぎる。本日二度目の、走馬灯だった。
アンコール上映も真っ最中、突如として全身に迸る激痛。思わず目を見開くと。
「木?!」
身体に枝が絡みつき、徐々に減速していた。
バサバサッ!!
枝葉を抜けて、再び急速に落下する。目の前に広がったのは、積み上げられたゴミ袋の山。
ガサッ!ゴッッ!!
「いっっった!!」
腐敗臭を肌身に感じながら、生温かく柔らかい地面に、僕と彼女は落下した。木と生ゴミのおかげで、ちょっと脳天が痛むくらいの軽い怪我で済んでしまった。
頭を手でさすりながら、ゴミ山から這い出ると
「大丈夫?」
彼女は一足早く、抜け出していて。
「やっぱ生きてたよ?」
長い髪を滑らかに指で掻き上げ、身を屈めて語りかけてくる。その凛とした佇まいとは対照的に、腐ったバナナを肩に乗せていた。気づいていないようだ。
「………あっ、頭、おかしいの?」
「朝から死のうとしてる人に言われたくない」
「……………」
「じゃあ、私行くね。あっ、あと、もう死のうとしないでね」
彼女はバナナと共に、踵を返してスタスタと何処かへ向かっていく。その可憐な後ろ姿を、情けなく地面にへこたれながら目で追った。
「……………」
暗闇を白ませる月光のような静かな煌めき。全ての生命を一瞬で屈服させる、圧倒的な神々しさ。髪が左右に揺れ動くたび視界に入る、黒ずみ腐りバナナ。
もはやこの際、汚物すらも美しい。
あぁ、せめて名前だけでも聞いておけば良かった。
次こそちゃんと死んでさ。
生まれ変われたら。
きっと彼女に声をかけるから。
「…………はぁ」
なぜか彼女はそこで足を止め、ため息を一つ。そして振り返った。
視線が重なる。
「白鷺ユリ」
「…え?」
「私の名前」
「………あ、ありがとう。」
「うん」
彼女は再び歩き始めた。
「………え、なんで?」
これは、僕と彼女が過ごした
たった1ヶ月の
自殺の物語。