09.第二章四話
その後、正真正銘二人きりとなったその空間は、しん、と静まり返った。
どう話を切り出せばいいのか、それともこれまでのやり取りはなかったこととして仕事にとりかかればいいのか。フィーネがぐるぐる悩んでいると、口火を切ったのはゼノンルクスだった。
「改めて、先程はすまなかった」
「いえ……驚いただけなので、本当にお気になさらないでください」
殺意を抱いていたわけではないのであれば、触れられたところで文句は何もない。仮に殺されたとしても、仕方ないかと理解を示すこともできる。
彼は魔王だ。優先すべきはあくまで魔族の安全なのだから。
「――フィーネ」
「っ」
ゼノンルクスに名前を呼ばれ、不意打ちすぎて、フィーネは瞠目しながら息を呑んだ。
「は、い」
詰まりながらもなんとか返事をする。
「癒しの魔女は、三年ほど前からここで働いていると噂を聞いた」
「はい……それ以前からも、お世話になってはいましたが」
彼の質問の意図がまったく読めないけれど、戸惑いつつもフィーネは答えた。
「不自由はしていないか。……あれは、ひとをからかって楽しむような面倒な男だろう」
あれ、というのはジェイラスのことだろうか。
表情にわずかな変化があり、ゼノンルクスは苦い顔をしていた。親しい間柄のようだし、ゼノンルクス自身、ジェイラスに何かされたことがあるのかもしれない。
魔王のゼノンルクスに、ジェイラスは一体何をしたのだろうか。こうして融通を利かせて予約を受けている以上、仲が悪いわけではないようだけれど、実際はどうなのだろう。
確かにジェイラスは性格に難があるのは否定できない。紳士的ではあるものの、ヴェルディのような面を持ち合わせているのは事実だ。
しかし、基本的には優しい。だから従業員からも慕われているし、特にフィーネのことは一層大事にしてくれている。
「オーナーにも先輩方にも、とてもよくしてもらっています」
レーヴは、フィーネの大好きな場所だ。居心地の良い『家』だ。
「そうか」
何か言いたげな目を伏せて呟くようにそう零したゼノンルクスは、額にそっと手を添える。よく見れば顔色があまり良くなかった。
「お休みになりますか?」
「ああ」
一度、きつそうに目を閉じたゼノンルクスが隣の寝室へと歩みを進める。フィーネもその後を追った。
寝室に足を踏み入れ、豪華なベッドとサイドテーブルに視線を流していると、サイドテーブルの隣――壁に立てかけられているものを認識し、フィーネは歩みを止めて目を見開いた。
レーヴは上位の貴族やその護衛であっても、武器の持ち込みが一切禁止されている。受付ですべて取り上げられ、それにより他の客や従業員の安全を守っているのだ。
魔法で何かをされる可能性もあるけれど、レーヴの中では客が魔法を使えないようになっている。これもまた、ジェイラスの結界の効果である。
そもそも、そのような蛮行を犯す愚かな客がレーヴの会員になることはないだろう。
レーヴのれっきとした規則に例外は基本的には存在しない。だからここに、疑いようもなく武器に分類されるであろうそれが置かれているのはルール違反なのだけれど、こればかりは例外として処理するしかないだろう。
ゼノンルクスの剣はただの剣ではなく『魔剣』だ。『魔剣デスグラシア』。持ち主を選ぶそれは神が魔王に与えた武器で、神器とも呼ばれている国宝である。
魔剣は主として認めた者――すなわち魔王しか受け入れない。魔王以外が触れることを決して許さず、触れようとすれば最悪、命を落とすこともあると聞く。そんなものをレーヴで預かれるはずもないのだ。
フィーネがデスグラシアを目にするのは初めてではない。いや、正確にはフィーネは初めて見るけれど、聖女の記憶には残っている。
忘れもしない五百年前。聖女の首を斬り落とし命を絶つのに彼が振るった剣は、他でもないこの魔剣だ。魔王の力を高める魔剣は、特に聖女や光属性の魔法に対して効果を強く発揮するのである。
(ジェイラスさんなら、こんなものを持ち込むなって怒りそうなものだけれど)
回収できない武器を持ってこさせない、という手もあるはずだけれど、魔剣があることには間違いなく気づいていたはずのジェイラスがこのことについて何も言わずに退室したということは、容認しているのだろう。
ゼノンルクスは部屋への直接の転移も許されていたのだから、やはり色々と例外だ。
フィーネが魔剣から目を離せずにいる間に、ゼノンルクスはベッドに腰掛けて息を吐く。その音を拾ったフィーネは我に返り、ゼノンルクスのそばにしゃがみ、気遣わしげにゼノンルクスを見上げた。
「何かお飲みになりますか?」
「いや、いい。寝る」
ゼノンルクスがシーツの中に入り込み、横になった。
気怠そうなゼノンルクスと、ベッド。年頃の女性にはなんとも誘惑要素の強い光景である。
「……明日の朝は五時半に起こすようにと事前に連絡を受けていますが、時間に変更はありませんか?」
「ああ」
「承知いたしました」
現在の時刻はまだ夜の九時半。一般的に眠るには早い時刻ではあるものの、彼の朝は早い上、このレーヴには休みに来ているのだ。なんら不思議なことではない。
「では失礼します」
フィーネはゼノンルクスの額に手をかざす。魔力を込めて詠唱を始めると光を帯びた文字や模様が手の下に現れ、詠唱によって魔法陣が構築されていく。
目の前で魔法が完成するその様を、ゼノンルクスはじっと見ていた。耳が拾うのはうたを紡ぐ、美しく、よく通る声。
ゼノンルクスが聞きいるように目を伏せた後、詠唱が終わり魔法名が唱えられ、魔法陣がゼノンルクスに吸収された。その瞬間、ゼノンルクスは自身の意識が緩やかに遠ざかっていくのを感じた。自然と眠りに誘われる、久しぶりの感覚だ。
完全に目を閉じる前に、ゼノンルクスはフィーネに視線を向ける。
目が合ったフィーネは驚きに瞠目し、それからふわりと目元を和らげた。
「ゆっくりおやすみください」
薄れる意識の最後は、フィーネの優しい声だった。
数分もしないうちにゼノンルクスが寝息を立て、完全に眠りに落ちてなお、フィーネは退室せずにその寝顔をまじまじと眺めていた。
目を閉じていると、男にしては長いまつ毛が一層際立つ。部屋の明かりを消すと暗くなった寝室では、窓から差し込む月や星の光に照らされるゼノンルクスの肌の白さも神秘的で、完璧な容姿だと改めて感想を抱いた。
(綺麗すぎる……)
思わず触れてしまいそうなほど整った――要は好みど真ん中の顔立ちに無意識に手を伸ばしかけ、フィーネはぴたりと動きを止める。
(相手が寝てるからって、勝手に触るのはよくない)
ゼノンルクスだってそれでジェイラスに怒られていた。
まして、彼は魔王なのだから、そう簡単に触れていいような存在ではない。
特に、元聖女だという変えようのない事実が、フィーネの心に容赦なく突き刺さる。本来ならばこうして、ここに立っているはずもなかった命だ。
「良い夢を」
恩人がゆっくり休めるようにと祈りながら一礼し、フィーネは部屋を後にした。
自室に向かいながら、フィーネはこれは好機だと思考を巡らせていた。
前世の記憶を持つフィーネは、勝手ながらいつか魔王に恩を返したいと常々感じていた。けれど、魔族の頂点に君臨する魔王と接触できる立場はかなり限られてくる。魔王城で働くこと自体はフィーネの力を考慮するとそれほど難しくなくとも、元聖女である自分が魔王城に足を踏み入れるのはどうも憚られていたため、これまで行動に移せずにいた。
しかし今回、こうしてゼノンルクスと直接言葉を交わせるほどの距離感で邂逅することができた。それも彼は、フィーネの力を多少なりとも頼りにしてくれている。
ならばフィーネは、この機会を逃すわけにはいかない。誠心誠意、彼のために力を尽くしたい。
自室に向けて進めていた歩みを止め、フィーネは行き先を変更した。