07.第二章二話
数時間後。ジェイラスが直々に予約を受けた客が来る時間となった。
最初はジェイラスが対応するということで、フィーネは予約時間の数分後に部屋に向かうよう言いつけられていたため、指定された時間に合わせてその部屋へと歩みを進めている。
今回の客は受付を通してチェックインしておらず、会員証に付与されている魔法で直接部屋に転移して来ているらしい。それほど特別なお客様ということだろう。
特別待遇など滅多にないレーヴにおいて、ジェイラスがここまで融通を効かせている例外。一体何者なのか、ものすごく気になる。
ヴェルディが普段利用している部屋よりもランクの高い――このレーヴ最高額の客室の前につく。フィーネは懐にしまっている懐中時計で改めて時間を確認し、それからノックをした。
「フィーネです」
名乗ると少し間を置いて重厚な扉が中から開けられ、ジェイラスが出迎えた。
「おいで。失礼のないようにね」
「はい」
緊張という言葉とはほぼ無縁と言っていいフィーネは、臆することなく足を踏み入れる。ジェイラスの後に続いてリビングルームに入ると、背の高い男が立っていた。漆黒の髪がやけに印象深い。
「お待たせ」
ジェイラスが声をかけると、男が振り返る。その顔を確認したフィーネは目を瞠目した。
知っている。フィーネはこの男を知っている。
かつての記憶の一番最期に鮮明に残っている、忘れるはずもない男。他の誰かと間違うことなど決してない男。見覚えがありすぎる。
彼の正体をはっきりと理解した瞬間、フィーネは自身の心臓が止まった気がした。
神に選ばれし対の存在である聖女と魔王。少なくともかつての聖女はまったく名誉だと感じたことのない力と立場を強制された二人。それは聖女の意見でもう一方が自身の力をどう思っているかは知らないけれど、彼はそのもう一方――片割れだ。
「こちらは我らが魔王陛下、ゼノンルクス・ロイ・ヴェレジアス・ローヴァイン様だよ。ヴェルディ殿が差し入れした君のお菓子を気に入ってくださったみたいで、今回ありがたいことにご予約をいただいたんだ」
恭しい言葉とは相反して、ジェイラスの声音は愉快さを滲ませるからかい混じりのそれで。わざとらしいのが気に障ったのか、ゼノンルクスは不機嫌そうに鋭い視線をやった。ジェイラスはどこ吹く風である。
五百年前の終戦後、この国どころか世界の頂点に君臨することになったと言っても過言ではない魔王相手にこの態度で大丈夫なのだろうかと心配になるけれど、知り合いだと言っていたのを思い出した。こんなやりとりを気軽にできるほど親しいのだろう。
魔王と知り合い。更には、実はこのレーヴの利用客からなぜかあまりにも丁寧な態度を取られているところを見かけることが多々あったりするオーナー。
謎がある優しい後見人の正体も気になるけれど、今現在この状況において、フィーネにはそれよりも存在が大きすぎて無視できない人物が眼前にいる。
相変わらず冷たい印象を与える、作り物のように整った顔立ち。独特な空気感と絶対的王者の風格。五百年前よりもすべてに磨きがかかっていた。
彼を前にして、魂が、血が疼く。長年恋焦がれてきた存在を目にしたかのような感覚に陥る。恋心を抱いた経験など前世を合算しても一度もないのだけれど、きっとこれに似た衝動なのだろう。
(焦がれていた、は間違いではないかも)
フィーネにとって魔王がどれほど特別な存在か。
神によって選ばれた対の存在であり魂の繋がりがある以上、意識せずにはいられないのではという可能性も否定はできない。しかし確かに、それだけではない何かがあるのだ。
かつてのフィーネを、聖女を、『生』という呪縛から解放してくれた恩人。勝手に恩を感じ、今世でも一目でいいから、遠くから見かけるだけでもいいから会いたいと切望していた相手。
癒しの魔女として上流階級の魔族にもそれなりに名が通っているとはいえ、まさか平民の身である自分がこんな形で魔王と相対することになるとは、欠片ほども予想していなかった。
(ヴェルディ様が仰っていた仕事中毒のさるお方とジェイラスさんの仕事中毒の知り合い、どっちも魔王のことだったんだ)
思わぬ再会に動揺し、彼の美貌に魅入り固まっていたけれど、はっとしたフィーネは慌てて、しかし見苦しくならないよう細心の注意を払い、優雅に礼をとる。
「魔王陛下にお目にかかれて光栄でございます。レーヴで薬などを販売しております、フィーネと申します」
声が詰まったり裏返ったりしてしまわないか、震えてしまわないか心配だったけれど、最後まで無事に紡ぐことができて安堵した。
さすがに、彼を前にすると緊張してしまう。
咄嗟に体が動きつらつらと言葉が出てきたところは、レーヴで貴族を相手にすることも多いからと理由をつけてフィーネにマナーの家庭教師をつけ、必要以上にあれこれ学ばせてくれたジェイラスのおかげだろう。所作が体に染みついている。そうでなければ混乱のあまり、あのまま固まり続けて不快な思いをさせてしまっていたかもしれない。
彼の美貌や存在感に圧倒され、放心する者――特に女性は多いだろう。魔王もその反応には慣れているはず。しかしフィーネが彼に心を奪われるのは単純な理由ではない。
死を望み、死を与えてくれる唯一である彼の手にかかり、その記憶を持って生まれ変わり、再会を果たす。こんな経験をしたことがある者など他にはいないはずだ。
フィーネの気持ちは的確な表現が見つからないほど色んな感情が混ざった複雑なもので、そんなプライドにも似た何かがあるから、『その他大勢』の単純な感情と一緒にされたくなかった。
たとえ彼の目には同じように映ろうとも、他とは違うのだと、フィーネ自身が胸を張れるのならそれでいい。心の持ちようの問題だ。彼はフィーネの正体もフィーネが彼を慕っていることも知らないのだから、理解を求めようとは思わない。
「顔を上げろ」
落ち着いた静かな声が頭上から落とされる。
雰囲気は昔より鋭く重いものに変化し、貫禄が溢れ出ているけれど、声はあまり変わっていない気がした。
(そうだ、こんな声だった)
前世では一言二言くらいしか聞いておらず馴染みがあるわけでもないのに、妙に懐かしさを感じる。
相手に興味がなさそうな温度のない声。けれどなぜか心地よく耳に届く、不思議な魅力を持つ低い声だ。
言われたとおり顔を上げ、彼を再び視界に映す。
力の強い魔族の寿命はかなり長く、魔王ともなればどれほどの時を生きるのかフィーネには計り知れない。
魔族は大半が十代の後半から体の成長が徐々に遅くなって止まり、個人差はあるけれど一定の期間が経過するとまた徐々に体が成長を再開し、老いていく。平均寿命は千歳程度だけれど、魔力の質や量と寿命は種族を問わず大方比例するので、上級魔族は三千歳を超えることも多い。
だから彼も、体の成長は一時的に止まっているのだろう。容姿は以前と違いは感じられなかった。
何も交じりけのない漆黒の髪も、血のように濃い赤の瞳も、きめ細かな白く美しい肌も、何を考えているのか一切読み取らせてくれない無表情も、記憶に残る彼とほとんど変わっていない。わかりやすい違いと言えば、五百年前は長かった髪が短くなっていることくらいだ。
赤の双眸は観察するようにまっすぐフィーネに向けられていた。逸らされる気配がなく、フィーネは戸惑いながらも受け止める。
同じく彼を見つめ返せば、拘束されていないし自身は別人だけれど、ほとんどの意識をお互いに向けている五百年前に出会った時と似たこの状況で、当時に戻ったかのように錯覚してしまいそうだった。あの、この世界に他には何も存在しない、二人きりになったかのような、自分たちだけ切り離されて別の空間に放り込まれたような感覚は、あれ以来だ。