05.第一章四話
王城の一室――執務室の主人である男は、繊細な装飾が施された椅子に腰掛け、執務机に広げられている書類につまらなそうに視線を落としていた。
羅列している文字を前髪の隙間から覗く赤の瞳で追っていると、男は扉の外に衛兵以外の気配が増えたのを感じる。
ノックの音が小さく室内に響く。人工物のように整った顔を上げると、白い肌によく映える漆黒の髪が揺れた。
横髪を耳にかけながら、男は外の衛兵から続けられる言葉を待つ。
「陛下。ご来客です」
「誰だ」
「ヴェルディ様です」
ヴェルディという名前を耳にした瞬間、男――魔王の眉がわずかに寄せられた。
部屋には今、本来いる護衛の二人はいない。その理由は魔王が仕事を押しつけたからに他ならないけれど、数分前の自身のその行動を心の底から後悔した。ヴェルディの相手を引き受けてくれる者がいない。
「取り込み中だ。追い返せ」
仕事中のため暇ではないことは事実なので、あっさりそう放つ。罪悪感は一切ない。
聞こえていないはずはないのだけれど、外の気配が遠ざかっていく様子はなかった。何やら話をしているのが小さく漏れ聞こえてくる。そして「えっ、例のあれですか!?」と驚きと興奮が混じった声が上がり、それから十秒もしないうちに――。
「あっ、ちょ!」
「公爵様!」
衛兵の焦った声の後、間髪入れずに扉が開かれる。
強行突破した張本人はしわのある顔にニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべていた。その後ろでは衛兵がおろおろしており、魔王の唇の隙間からため息が零れ出る。
「ため息とは酷いですのう。老体に鞭を打ち、陛下のためにわざわざ参上いたしましたのに」
ヴェルディの楽しそうな声音に、魔王は厳しい眼差しを向ける。老体と言っているが全然元気なくせにと言わんばかりの目だ。それから、衛兵の制止もきかずに勝手に押しかけておいて何をふざけたことを、とも考えているのだろう。
「呼んでいない。帰れ」
「ふぉっふぉっふぉ。近頃、更に耳が遠くなりましてなぁ」
「ずいぶん都合のいい耳だな」
無表情に近いながらも確かに睨んでいる魔族の絶対的主に怯むことなく、ヴェルディは持っている紙袋を執務机の上に置く。「なんだこれは」と訴える魔王の赤い瞳に応えるヴェルディは、ニコニコと機嫌のいい笑顔である。
「以前お話しした、魔女のやすらぎの菓子セットですじゃ」
魔女のやすらぎ。貴族の間でも頻繁に話題に上がる言葉だ。
レーヴの存在も魔女のやすらぎの存在も、魔王はもちろん以前から把握している。あまりにも有名すぎるのだ。特にこの老人がよく話題に出すものだから、嫌でも耳に入る。
「これを食せばお体の疲労も和らぐことでしょう。効果はわしが保証いたします」
なぜかヴェルディが自慢げである。
ヴェルディはレーヴの常連客だ。そして、魔女のやすらぎの熱烈な愛用者でもあり、『魔女』に孫との縁談を持ちかけるほど魔女のことも気に入っていると聞く。関係者のような感覚なのだろう。
「まったく。弟子が自分の体を気遣うことをいつまでも覚えず、わしは気が気ではありませんぞ。いつ倒れてしまうかと心配するあまり、寿命が縮まりそうじゃ」
「お前がくたばるところは想像できんな」
いっそ一度倒れた方が性格が矯正されるのでは、などと思ったけれど、ここで口にするような愚行はおかさない。面倒なことになるのは目に見えている。
「わざわざ足を運ばなくとも、孫に持たせればよかっただろう。老ぼれは大人しくしておけ」
「なんと酷い仰りようか! わしは陛下をそんな風に育てた覚えはありませんぞ」
「よよよ」と泣き真似をして傷ついているアピールをするヴェルディだけれど、その目に涙など一切滲んでいないし、大袈裟でわざとらしすぎる。隠す気もないのだろう。
「お前は魔法や剣の指導をしただけで、別に私を育てたわけではないはずだが」
「何を仰います。陛下にとってわしは三人目の祖父も同然ですぞ。もっと敬い、尊重なされ」
「不敬罪で投獄されたいのか、お前は」
尊重されたいのなら普段からそれ相応の態度でいろと、魔王の鋭く細められた目が雄弁に語っている。
ヴェルディは長い人生の中、暇を持て余して他者で遊び、更には臆することなく魔王までをもからかって遊ぶような老人だ。到底魔王は彼を祖父のように慕うことはできない。そもそも実の祖父二人に対しても、尊敬の念は特に抱いていない。
「とにかくお試しください。お菓子ですので休憩にもちょうど良いでしょう」
最後に告げ、ヴェルディは意外にもそれ以上その場を掻き乱すことなく去っていった。
こちらを窺っている衛兵二人には、お咎めはないから仕事――扉前の警備に戻るよう言いつけ、扉が閉められた後に一息つく。
本来であればヴェルディを力づくでも止めなければいけないのが彼らの仕事だけれど、ヴェルディは公爵であり、長く仕えている一応は忠臣だ。そして性格もいいので、彼らとしては強く出られないことも理解はできる。
魔王は紙袋に視線を落とした。
お菓子だというそれを確認するべく、中の箱を取り出す。蓋を外せば、数種類のお菓子が綺麗に並んで入っていた。魔力が込められたものだと一目でわかった。
チョコレートでコーティングされたお菓子を一つ取り出し、観察するように、伏し目がちにそれを赤い瞳に映して数秒後。魔王――ゼノンルクス・ロイ・ヴェレジアス・ローヴァインは、目をわずかに細めたのだった。