02.第一章一話
ある大陸ではかつて、人間族、獣人族、エルフ族、ドワーフ族の四種族の連合と魔族による、激しい戦争が繰り広げられていた。それまではそれぞれの種族ごとに魔族に対抗していたのが、人間の呼びかけで初めて四種族が連合を組んだのだ。
連合の四種族には『聖戦』と呼ばれていたその戦争の期間は一年にも満たない。歴史的に見ても世界規模の戦争にしては長いとは言えない期間であったけれど、その間にいくつもの命が失われ、いくつもの土地が焼け野原となり、いくつかの国が滅びを迎えた。
その聖戦に終わりを告げたのは、四種族の連合国の希望であり、『魔王』を滅ぼす神の力を与えられた人間の少女――『聖女』と呼ばれていた者の死。魔王が直々に討ち取った、歴代最強とまで言われていた聖女の訃報に、四種族は絶望し、魔族は歓喜したという。
魔族を統べる魔王を殺すことができる唯一のすべを失った連合軍が戦争に勝てるはずもなく、勝利を手にしたのは魔族だった。
「『――戦争から数百年。戦争に参加した国々すべては魔族が支配することとなり、大陸の七割の土地が魔国の直接的な管理下に置かれた。戦争の余波で世界のエネルギーバランスが崩れ、世界中で魔力や瘴気の濃度が上がり、五つの種族の中でも特に虚弱で魔力や瘴気への耐性が低い人間はどんどん数を減らし、純粋な人間はやがて全滅したのだった』」
少女は手に持っていた本の最後の文章を声に出して読み、ぱたんと閉じる。本棚にそれを戻し、背表紙をそっと指の腹でなぞった。
本の題名は『人間の滅び』。事実に基づいて書かれたほぼノンフィクションの、人間についての小説である。
人間が滅んだ後に書かれた小説なので、もちろん書いたのは人間ではない。魔族の小説家だ。
「いい気味」
そう呟いた少女の声音は温度のない冷え冷えとしたもの。青みがかった紫の目は、心底憎いと雄弁に語っている。
少女の身のうちに燃え上がる憎悪の対象は他でもない、絶滅したという人間たちである。この少女は人間という生き物が大嫌いなのだ。
ドアが開く音が聞こえて後ろを振り返る。
視界に映ったのは、赤い瞳をした見慣れた男だった。
「フィーネ」
「ジェイラスさん」
少女――フィーネの名を呼んだ男を、フィーネもまた名前で呼んだ。
今フィーネと彼がいるこの書斎はもとより、この建物の持ち主であるジェイラスは、フィーネが片手に持っている箒を見て眉を寄せる。
「そんなことはしなくていいと前から言っているはずだけどね、フィーネ」
そんなこと。箒を持っているのだから、それが示すのはもちろん掃除である。少し読書に耽ってはいたけれど。
「そういうわけにはいきません」
「君はちゃんと他の仕事もしているだろう」
「私がやりたいからやってるだけですよ。魔法は使ってないので魔力も無駄に消費してませんし」
こてん、と首を傾げてフィーネは続ける。
「それに、他のひとに顧客情報に関する書類やら何やらを見られてもいいんですか?」
そもそもジェイラスは書斎に他者が入ることを嫌っている。フィーネだから気にしていないのであって、他に雇っている者を立ち入らせることなどしたくはないだろう。
ここの従業員はすべてジェイラスがオーナーとなってから、ジェイラスの目で直接見て判断して雇っているけれど、ジェイラスより古株の者もいる。
絶対的な信頼を寄せてはいても部屋に近寄らせないのは、万が一も考えてのことだ。問題が起きた時、出入りを制限していればで犯人を見つけやすくなる。この部屋付近で不審な動きをした者を捜せばいいだけなのだから、魔法を使えば容易いことだ。
もっとも、書類やその保管場所には認識阻害や窃盗防止などの魔法をジェイラスが何重にもかけているため、内容を見られることや持ち出されることなどそうそうないだろう。
「まったく。物好きだね、君は。やらなくてもいい仕事をしたいとは」
「長いことお世話になってますから。できることはやりますよ」
にっこりとフィーネが微笑むと、ジェイラスは呆れたようにため息を吐いて椅子に座った。書類に視線をやり、肘掛けに頬杖をつく。
フィーネがにこにこと継続して愛想良く笑みを浮かべながらジェイラスを見つめていれば、根負けしたジェイラスはまたもやため息を吐いた。ため息を吐くと幸せが逃げていくと、どこかで聞いたことがある。
「紅茶を」
「はい」
フィーネはすぐに応え、手際よくジェイラスの好きな紅茶を淹れた。ついでに軽くつまめるお菓子も用意する。
ティーセットも茶葉もお菓子も、異空間に置いていたものを空間魔法で出したものだ。異空間は時間の流れがないので物が傷むことがなく、食べ物であっても保存がきく。なんとも便利なものである。
ただ、時間の流れがない異空間への扉――『空間の歪み』を出すのは、そう容易なことではない。そもそも扱いが難しい空間魔法の中でもかなり高度な魔法だ。フィーネはあっさりやっているけれど、ベテランの魔族や魔法の実力に長けたエルフであっても、そうそうできることではない。
「うん、美味いね」
ジェイラスは紅茶を一口飲んだ後にお菓子を食べ、短く感心を零した。フィーネが嬉しそうに口元を綻ばせる。
「先程作ったばかりですからね。ジェイラスさんに試食してもらおうと思って準備してました」
「店の新作か。これなら問題ないよ」
「よかったです。では、メニューに加えますね」
魔王城の周りを囲む城下町の一角に佇む、貴族や国の重役たちが足繁く通う絶大的な人気の会員制高級ホテル『レーヴ』。それがジェイラスの言う店――『魔女のやすらぎ』というブランドを取り扱い、プールや温泉、カジノなどの娯楽施設を含んでいるこの建物である。
レーヴの利用客は八割が貴族や資産家などの富裕層だ。レーヴに来る目的も、休暇を誰にも邪魔されずに楽しむためであったり、一流のシェフが一流の食材を使った料理を楽しむためであったり、知り合いとお茶やゲームを楽しむためであったり、宴会や密談をするためであったりと様々。
レーヴで働く者の半分以上が平民出身でありながら情報が漏れることは一切ないと、顧客から多大な信頼を寄せられている。密談にはもってこいの場所でよく利用されるので、従業員はそこらの情報屋よりよっぽど情報通だ。
レーヴのオーナーだったジェイラスの母親が亡くなり、ジェイラスはその跡を継いだ。フィーネは従業員で、レーヴの中でも少し特殊な立ち位置にいる。
フィーネの仕事は主にジェイラスの補助だけれど、それだけではない。魔族で使える者は滅多にいない治癒魔法の使い手で薬などにも詳しく、魔力回復薬や治癒薬など、薬関係のものを売っている。それらが魔女のやすらぎの商品だ。
レーヴのみで扱われているという高いブランド性。元から客を選ぶレーヴだけれど、更に徹底的に厳選された者にしか購入権はない特別感。また、安心できる確実な効果。それらを求める客は後をたたない。
さらに、体の疲労回復効果を込めたお菓子やデザートも、三年ほど前からフィーネの提案で売り始めている。こちらは薬などと比べると比較的安価で、購入者の制限も緩和されているため大人気となっており、菓子類目当てにレーヴを利用する客はかなり増えた。
フィーネはその珍しい力と、平民でも気軽に手を出しやすい商品であり価格でもある自身の力を込めた菓子類を広めたことから、従業員や客の一部の間で『癒しの魔女』と呼ばれ、いつしかそれが広まり定着した。今やこの王都に住む者で癒しの魔女の名を知らないのは、言葉を理解できない子供や最近王都にやってきた者たちくらいのものだ。とはいえ、後者はすぐに噂で知ることとなるのだけれど。
「今日は確か、ヴェルディ殿の注文があったね」
再び紅茶に口をつけた後にジェイラスが訊ね、フィーネは「はい」と頷いた。
魔女のやすらぎの菓子類は基本的に予約制で、最長の三ヶ月先まで常に埋まっている。キャンセルもなかなか出ない。今日の予約も三ヶ月前に入ったものだ。
「ルームサービスのデザートとお土産用のおすすめお菓子セット二種類。いつものご注文です」
常連のヴェルディは国の重鎮中の重鎮で、良い意味で貴族然としていない気さくなお爺さんだ。フィーネを実の孫のように可愛がってくれており、彼が魔女のやすらぎ――フィーネの商品を頼む時は、大抵何を注文するか決まっている。お任せのデザートとお菓子セットだ。
基本的にルームサービスやレストランのメニューはホテルの料理人が作るけれど、デザートに関してはフィーネが作ることもある。もちろん通常より料金は高い。フィーネのデザートやお菓子のクオリティは料理人やパティシエにも負けないので、癒しの効果を抜きにしても一級品で、満足度は高いようだ。
「ただ、今回はお菓子セットの一つが甘い物メインのご注文なんですよね。いつもはしょっぱい系と半々で二つなのに」
「まあ、たまにはそういうこともあるよ」
深く考える必要はないと、ジェイラスは軽い。
家族が気に入ってくれて甘い物を多めに買ってきてほしいと願ったのか、それとも誰かへのプレゼントか。はたまた、ただの気分ということもあるかもしれない。
フィーネとて客の細かい事情に突っ込む気はないけれど、些細な違いが少し気になってしまうのは仕方なかった。ヴェルディならば、訊けば理由を教えてくれそうではある。
「他にも数組分あったはずだね。色々と準備もあるだろうから、厨房に行ってきていいよ」
「わかりました。では失礼します」
フィーネが礼儀正しく一礼して書斎を出る。
その背中を見送ったジェイラスは薄らと穏やかな笑みを浮かべたまま、本棚に視線を向けた。掃除の途中でフィーネが読んでいた本を捉えると、意図せずすう、と目が細まる。
その様子を見ていたわけではないものの、フィーネがあの本をよく読んでいることをジェイラスは知っていた。フィーネがあれを読んだであろう後は決まって、彼女の纏う空気が普段より少し鋭いのだ。
先程ジェイラスが入室してきた時もそうだった。隠してはいたけれど、怒りや憎しみといった負の感情を感じ取ることができた。
フィーネは昔からジェイラスを慕っており、フィーネの母親が病で亡くなってジェイラスが後見人となってからは、更に懐いてくれている。だからフィーネは基本的にジェイラスに嘘をつかない。隠し事もしない。しかしあの本のことについては、問いただしても笑顔で返すだけ。どうしても答える気はないらしい。
あの本だけではない。すでに滅んだとされている人間についての情報に、フィーネはやけに敏感だ。
誰にだって一つや二つ、それ以上の秘密があってもおかしくはないし、無理に暴くつもりはない。
けれど、少し寂しく感じる。フィーネを娘のように思っているジェイラスにとって、隠し事をされるのはなかなかに堪えるのだ。隠し事の例が他にないから尚更、いつか独り立ちをしてほしいと思ってはいても。
これがいわゆる親心と呼ばれる気持ちなのだろう。




