16.第四章一話
執務室で眉間を揉みほぐしていたゼノンルクスは、皿に載っているクッキーに視線を落とした。魔女のやすらぎのものだ。つまりはジェイラスが可愛がっている、紫がかった淡い灰色の髪を持つ少女が作ったもの。
フィーネを見ていると、ゼノンルクスは聖女を思い出してしまう。
見た目は似ていない。けれど、重なる。
五百年前の光景を思い返す。
城内で捕らわれ、連れてこられた彼女を、ゼノンルクスは見下ろしていた。
ゼノンルクスがそれまで手にかけてきた聖女と同じ、白銀の髪に青色の瞳を持つ少女。もっとも、髪も肌も服も汚れてしまっているけれど、それでもゼノンルクスは聖女が持つ色がわかる。知っているから。
ゼノンルクスを見つめるその青い双眸は、恐怖や怒り、嫌悪などが宿っているようには見えなかった。しかしゼノンルクスは気にも留めず、彼女の前に立って剣を振るった。
『――』
首を斬る直前。聖女が口にした言葉は誰かに聞かせる意図はない独り言だったのだろうけれど、ゼノンルクスの耳に届いていた。
だから疑問を持った。人間を、他の種族を救うため、魔王を倒し、魔族を滅ぼすために力を与えられたはずの彼女が、なぜ魔王であるゼノンルクスに対してその言葉を口にしたのか。
『ヴァージル』
『はい、陛下』
宰相を呼んで、命じた。
『聖女のことを調べろ』
そうして、ゼノンルクスは知った。彼女が置かれていた環境を。
◆◆◆
フィリアーナ・メルディ・ル・メルストリア。それが前世のフィーネの名だ。人間の国でも上位の国土、軍事力、経済力を持っていたメルストリア帝国の第二皇女であり、聖女でもあった少女。
豊かな帝国の皇女でありながら、その生活は悪い意味で普通とは言えなかった。
聖女であるフィリアーナは、生まれる前から膨大な量の魔力と神力をその身に宿していた。皇后はその影響を強く受け、妊娠中は体調を崩してずっと床に伏し、予定日よりもかなり早い出産ののち、数週間は生死を彷徨った。そして皇后は、自らを殺しかけたフィリアーナを忌み嫌った。同様の理由で、他の家族や皇族を慕う人間からも、フィリアーナはことごとく憎悪を向けられた。
しかし、フィリアーナは白銀の髪と青色の瞳という聖女の証を持った正真正銘の聖女だったため、使用人たちの手でそれなりに大切に育てられていた。
表向きは仲の良い家族を演じ、愛想よく振る舞い、慈善活動にも力を入れ、平民や孤児にも分け隔てなく接して――皇后や皇女たちは、平民からの支持がとても強かった。特に聖女であるフィリアーナは、魔族に対抗できる希望として人気が高かった。
そんな七歳のある日、フィリアーナはいつものように母と姉と共に孤児院を訪れていた。しかしその日は、事件が起こった。
どうやら近くの山に大きな狼の魔物の群れが住み着いていたようで、その日は群れが山を降り、孤児院のある村を襲ったのだ。
逃げ惑う人々、皇后や皇女を守る護衛たち、迫る魔物。
初めて見る魔物に、フィリアーナは恐怖で足がすくんでいた。
「あんた、聖女なんだからなんとかしなさいよ!」
まだまともに聖女の力の訓練もしていない幼いフィリアーナに皇后はそう言い放ち、動けないでいたフィリアーナの背中を思いっきり押した。その勢いで数歩進んで、フィリアーナは体勢を崩して正面から転んでしまった。
「いった……」
地面についた手のひらがじんじんする。膝も痛い。
体を起こして顔を上げると、魔物と目が合った。
フィリアーナよりも、大人よりも大きい狼の魔物は、震えるフィリアーナに襲いかかった。
「きゃあああ!」
それは誰の悲鳴だったか。姉か母のものだっただろう。フィリアーナは状況の処理に頭が追いつかなくて、何もできなかったのだから。
何もできないまま――魔物に、肩から胸にかけて、体を喰いちぎられた。
地面に叩きつけられたフィリアーナには、当然意識がなかった。心臓まで喰われてしまったのだ、即死である。
「陛下、殿下、お下がりください!」
騎士は必死に皇后と皇女を守りつつ、魔物を討伐していった。けれど数が多すぎて、一頭を殺すのにも手こずっていた。
怪我を負いながらも魔物と戦っていた騎士の一人が、ふと視界の端に映った遺体に目を留める。
(なんだ……?)
不思議な力を、なんとなく感じたのだ。
目を逸らさずにいると、遺体――フィリアーナの体が、宙に浮いた。
「なっ……」
騎士は自身の目を疑った。一体どういうことだと。
他の騎士や逃げ遅れている村人、皇后と皇女も、異変に気づいてフィリアーナを見ていた。
力なくだらりと四肢は垂れ下がっているけれど、フィリアーナは確かに地面から浮き上がっている。そして、眩い光に包まれた。
光が収まると、フィリアーナはそこに立っていた。喰われてしまったはずの体も元に戻っていて、まるで何事もなかったかのようにそこにいた。
皆が驚愕した。
ただ一人、フィリアーナは虚ろな目で魔物を捉え、ゆっくり口を動かす。
「――“消えてしまえ”」
フィリアーナの体から神力が広がり、それを浴びた魔物たちは一瞬で塵と化した。
数秒ほどして、フィリアーナの目に光が宿る。
それまでのフィリアーナには意識があるようでない、不思議な感覚があった。体が勝手に動いていたのだ。聖女の力が暴走したのだろう。
瞬きを繰り返したフィリアーナは、ぼうっとする頭が覚醒し始めたことで、ようやく周りに意識を向ける。
そこで、自分にどのような目が向けられているのかを認識した。
聖女は病気で肉体に限界がくるか、寿命がつきるか、魔王に殺されるかでないと死ぬことはない。――たとえ、心臓をなくそうとも。
「ば、化け物……!」
誰かが口にした言葉が、やけに響いた。
普通であれば即死の状態。実際にフィリアーナは死んでいた。しかしながら、心臓もないのにフィリアーナの肉体は再生し、生き返ったのだ。
それを目撃した者たちは恐怖に慄いた。奇跡だと崇めるのではなく、異形を目にしたような恐怖や軽蔑を抱いていた。
魔物を消したのに、感謝はされない。
大きすぎる力は畏敬を超え、強烈な恐怖を人々に与えることとなってしまった。
その日から、フィリアーナは皇宮の敷地内にある廃れた塔に幽閉されることになった。恐ろしいものを遠ざけたい、けれど聖女だから追い出すことはできない。その葛藤の末の扱いだ。
フィリアーナは死なない。だからまともな世話はされず、食事もまともに与えられず、塔で一人で過ごした。
空腹は決して満たされない。たまに水が運ばれてくるので、数日に一度は体を拭いた。それが湯浴み代わりだった。服も靴も、新しいものは成長に合わせてそれぞれ年に一つずつしか支給されなかったため、洗ってボロボロになっても使い続けるしかなかった。
普通の人間なら、餓死している環境だった。
独りぼっちで、暮らした。そんな生活が十年以上続いた。
突然塔に幽閉されて、――そしてある日、突然連れ出された。
フィリアーナが十七歳の時。メイド数人が塔にやってきて、フィリアーナを皇宮に迎え入れたのだ。
彼女たちは怯えながらもフィリアーナをお風呂に入れて身綺麗にし、痩せ細ったフィリアーナを皇帝の元へと連れていった。
「人間と獣人、ドワーフ、エルフの連合軍と、魔王軍の戦争が始まる」
「……」
「お前には、聖女として参戦してもらう」
挨拶も許されず、膝をついてただ黙って声を聞くことだけを求められた。
「しかし、今のままでは参戦は不可能だろう。よって暫くはこの皇宮で過ごすことを許してやる。食事をし、魔法について学び、我らの敵を――魔王を討つのだ。それが化け物であるお前の役目だろう」
化け物、と。そう呼ばれて、フィリアーナは顔を上げた。
十年以上も顔を見ていない皇帝――父は、歳を取っていた。しわができているけれど、記憶に残る姿とそんなに変わっていないような気もする。
「おとう、さま……」
「――余を父と呼ぶな、化け物が」
軽蔑の眼差しと共に、酷く冷たい声がぶつけられる。
フィリアーナは瞠目し、唇を震わせた。
皇后の椅子は空席だ。母は、フィリアーナの顔など見たくないのだろう。兄弟たちも。
フィリアーナはもう、家族ではなくなっているのだ。あの日――死ねなかったから、彼らの中ではフィリアーナは人間ですらなくなっている。
恐ろしい化け物。
ずっとわかっていたことだけれど、改めて突きつけられた。




