10.第二章五話
翌朝。まだ日も昇っていない時間帯に、フィーネは再びゼノンルクスが使用している客室を訪れた。彼を起こすためだ。
「陛下」
呼びかけても、ゼノンルクスはぴくりとも反応しない。もう一度、今度は声量を多少上げて呼んでみても、無礼とは思いつつ軽く肩を揺らしてみても、その瞼から赤い瞳が覗く様子はなかった。
無防備な、微かな寝息が聞こえる。魔法をかけてからもう何時間も経っているのに、ここまで熟睡しているとは。
(魔法が効きすぎた……?)
眠りの魔法をかけた昨夜、魔王相手だからとかなりの力を込めたのがいけなかったのだろうか。それとも、フィーネの魔法とゼノンルクスの相性が良すぎたのだろうか。
たまにあるのだ。魔法を使用する者とかけられる者、お互いの魔力の相性が良く、魔法が効きすぎてしまうことが。そういった者は、加減をした魔法でも効果が強く出てしまう。逆もまた然りで、相性が悪いせいで効きにくいこともある。
フィーネは広いベッドに片手をつき、もう片方の手をゼノンルクスの額の上にかざした。詠唱して魔法を発動させ、現れた魔法陣がゼノンルクスに吸い込まれるように消えていく。
するとゼノンルクスの眉が僅かに動いたのを確認し、フィーネは手を離して姿勢を正す。
眉根を寄せた後、ゼノンルクスはゆっくり目を開いた。瞼の向こうに隠れていた濃い赤が露になる。
寝起きのせいかぼーっとしているようで、ゼノンルクスはのそりと、ゆっくり起き上がった。静かな室内では衣擦れの音が妙に大きく聞こえる。
上半身を起こしたゼノンルクスの前髪を掻き上げる仕草は気怠げで、どこか妖しい大人の色香を纏っている。着ているシャツは胸元があいているため、それも相まって目に毒だった。
(美形の破壊力すごい……)
フィーネの周囲にはジェイラスを始めとした美形が多いので、ある程度目が慣れている自負はある。しかしそれも、ゼノンルクスほどの美貌を前にしては無意味でしかないらしい。
元々あまりはしゃぐようなタイプでないのが救いだった。ここで色香にあてられて騒いでいたら、ゼノンルクスから極寒の眼差しで睨まれたことだろう。彼は見るからに騒がしいのを嫌っていそうだ。
フィーネは彼に見惚れていたが、すぐに切り替えて一礼する。
「おはようございます、陛下」
フィーネの声に動きを止めたゼノンルクスは、こちらに視線を向けた。フィーネを認識すると伏し目がちだった目がちゃんと開けられ、赤の双眸がしっかりフィーネを映し出す。
そうして数秒の沈黙が流れ、ようやくゼノンルクスは「……ああ」と短く返事をした。
表には一切出ていないけれど、ゼノンルクスはとても戸惑っていた。
不眠症で気配に敏感なゼノンルクスは、眠っていても近くに誰かが来るとそれを察知し、否応なく目が覚めてしまう。体質的な要因ももちろんあるけれど、育った環境ゆえに早く身についたのだ。
なのに今回は、部屋に入ってきた他者の存在に気づくことができなかった。
レーヴはジェイラスの結界によって守られている。結界の効果でレーヴ内は気配が読みづらくはあるものの、その点を差し引いても、彼女が鍵を開けた時の音、もしくは彼女がドアを開けた時の音で、本来のゼノンルクスであれば確実に気づいたはずだ。間違いなく彼女の睡眠の魔法がゼノンルクスに効いていた証だろう。
誰かに起こされるという経験は本当に昔――それこそ、ほとんど記憶に残っていない幼い頃以来だと思われた。
「よく眠れましたか?」
「ああ」
「それはよかったです」
そう言うわりに、フィーネはどこか浮かない顔をしている。
「少し魔法の効果が強く出過ぎたようです。深く眠りすぎて、お体に負担がかかってしまってはいませんか?」
申し訳なさそうな表情を見せたフィーネに訊ねられ、ゼノンルクスは自身の体調に意識を向ける。わかりやすく変化があるが、悪い影響でないことはわかりきっていた。
「問題ない」
その返答に、フィーネが安心したようにほっと息を吐く。それを見た後、ゼノンルクスは何気なく自分の手に視線を移動させた。
数百年も続いていた不眠症が嘘のようにぐっすり眠れた。頭がすっきりしているし、体が驚くほど軽く感じる。こんなに体調がいいのはいつぶりだろうか。
ゼノンルクスはじっとフィーネを見つめた。赤い瞳がまっすぐ向けられて逸らされる気配がなく、フィーネは動揺を内心に閉じ込める。この瞳に見られているとどうも落ち着かない。
「どうかされましたか?」
「……いや、なんでもない」
フィーネは先にリビングルームへと戻り、身支度を整えたゼノンルクスが寝室から出てきたところで、紙袋を渡した。
「こちら、ご注文の商品になります」
注文があったお菓子や睡眠薬、入浴剤だ。
「お菓子は多めに入れています」
「……多めに」
「はい。魔王陛下への感謝や敬愛の意をお伝えしたく思い、勝手ながらご用意させていただきました」
昨夜、眠る前に新しいお菓子を準備したのだ。急遽だったので一から作る余裕はなく、魔法をかけた出来合いのものを追加しただけだけれど。
「そういうのは、大丈夫なのか?」
そう訊ねるゼノンルクスは、レーヴの規則を知っているのだろう。
個人的な贈り物は受け取るのも、そして渡すのも、本来は禁止事項である。思わぬトラブルを避けるためだ。
「オーナーの許可はいただいています」
ジェイラスには昨夜、新しいお菓子を準備する前に話を通している。
ゼノンルクスには例外に例外を重ねているし魔王でもあるから、まあいいだろう、とのことである。ジェイラスとゼノンルクスの関係性があってこそ許可できるらしい。
だからご遠慮なさらずに、という気持ちを込めて期待の眼差しで見つめる。
「そうか、わかった」
そう口にして、ゼノンルクスは紙袋を受け取る。
「ありがとう」
お礼を告げられたフィーネの心には嬉しさが広がった。リラックスできるよう魔法を施したお菓子を追加しただけの些細なことではあるけれど、彼のために何か、ほんの少しでも多くのことができるのが、本当に嬉しい。
一方的な思慕による行動だ。煩わしく思われるのではないかという不安が吹き飛んで、フィーネは舞い上がっていた。しかしなんとか表面には出さないように抑える。
「この度は当ホテルと魔女のやすらぎの商品をご購入いただき、誠にありがとうございました。ぜひ、またお越しください。お待ちしています」
所作に気を遣い、フィーネは一礼する。
「ああ。また来る」
「……!」
ゼノンルクスが魔法で姿を消す直前。顔を上げたフィーネを見つめるその表情が少しだけ柔らかくなったように見えて、フィーネはぱちりと瞬きをした。




