三億年の贖罪の果てに
「元第四天使、フリューゲルよ。貴様の刑期、3億年は今日にて過ぎた。残る余生は、和の国に与えられた住処で暮らすがよい。天上神アイテールの恩情である」
鋭く太く、そり曲がった二つの角を宿す兜をかぶった、ヒグマ二頭と同等の身長を持つ半裸の男――処刑人アイアコスはそう述べた。
アイアコスは、右手に持った巨大な斧を軽く振るい、残念そうに斧の側面をなでた。本来ならその斧は、刑期を終えた私の首を断つために使われるはずだったのだろう。
私に三億年の十字架刑が科されたのは、「私の命だけは救ってやろう」という情けなどではなく、地獄の苦しみを三億年間味合わせ続け、大地神ガイアに反逆したことを、死にたくなるほどに後悔させるためであったに違いない。
しかし何の因果か、私とは何の縁もないはずの天上神アイテールが、私の命を救った。
両手首を穿っていた釘は取り除かれ、私は十字架から解放されたのだった――。
ゆらりゆらりと、木々が風に乗って揺れている。
砂地の広がる公園で、子どもたちは追いかけっこをしたり、滑り台を使ったりして遊んでいる。その姿はとても無邪気で、怒りと苦しみと、過ちに塗れた人生を送ってきた私とは、全く別の世界に生きている存在なのだと痛感させられる。
しわだらけの手で木製の杖を握り、老人は微動だにせずその風景を眺めていた。そしてその老人とは私のことだった。
三億年にも及ぶ磔刑の末に、かつては瑞々しく栄えていた肉体は乾き果て、その内側で煌々と輝いていた私の魂は、岩石のように動かぬ塊と化してしまっていた。
私の肉体と魂が、無限とも呼べる時の中で削れていったのに対し、現世では、まだ一万年ほどの時しか経っていないとのことだった。以前には見られなかった技術により発展し、いくつもの長大な建造物の中で生活するようになった人間たちの文明は、人生で最も力のみなぎる時期である、人で言う青年期に到達しているように思えた。
だがそれも、今の私にはどうでもよいことだった。刑罰を完遂させるため、無理やり生かされ続けていた私の身魂は、とうの昔に限界を超えていて、朽ち果てるのは時間の問題だった。もってあと数か月といった所だろう。
それならばそれでいい。
私はもう、生き続けることに何の関心もなかった。今はただ、安らかに暮らしたい。
ただ、無意味に時は過ぎてゆく。私の何が行けなかったのだろうか。生まれては死んでゆく、この星の定めに終止符を打とうとすることの、一体何が間違っていたのだろうか。
生と死の境界も曖昧な意識の中で、私は眠りへと落ちてゆく。もう動かなくなったはずの私の魂が、最後に命を振り絞るように、輝く夢を見せた。
草花が生い茂る、果てなき草原の地平線で、光に包まれた美しき人が言った。
「さあ、共に行こう。私たちが目指した、理想の世界へ」
その景色が、その美しき人が、私にかつての想いを起こさせた。
ただひたすらに、願い、信じていた。すべての命が等しく幸福に満たされる世界に、いずれたどり着くことができると。
地の先に手を伸ばす。私の手が、その人の手に触れることはない。
だが、それでもいい。それでも、私の魂は、この理想と共にある。
すべてが消え去るとしても、私のこの果てなき夢は滅びない。私の魂を、この心を、全てを受け入れる理想の地、その概念そのものと化そう。
「たとえ、全てが消え朽ち果てても、私のこの願いは変わるまい。花を、鳥を、蝶を愛でるように、私はこの地を愛し、この地と共にあり続ける」
私が消えていく。私の存在そのものが、そのすべてが。
不思議と苦しみはなく、闇の底から光の先に墜ちていくような感覚に包まれる。
「愛しているよ、フリューゲル。私と一緒に、果てなき夢の中で眠ろう」
その声は、誰の声だったのだろうか。優しく囁く声に導かれ、私は果ての無い光の彼方へと墜ちていった。
「さあ、お行きなさい、フリューゲル(翼)よ。どこまでも、光のある方へと」
その美しき人、上天の神アイテールは、フリューゲルの魂を光へと変え、その星の束縛から解き放った。
神アイテールは、フリューゲルを愛していた。どこまでも自由に、理想へ向けて飛び続けるその魂を、心から愛していた。
アイテールは、その青き星を、悲しい目で見据えた
「この星の力は強すぎて、今はまだ、すべての魂を救うことはできません。ですが、いずれ、この大地の輪廻が終わる日が、やってくる」
その美しき人は、光が集う果てなき宇宙を見上げた。
「その時が来たならば、あなたが愛した人たちと共に、あなたの元へと旅立ちましょう。そして、今度こそ、私たちの理想の星を創りましょう」
アイテールは光の粒子へと姿を変え、青い星の大気と一つになった。