そして河童は川へ還らず
昔、昔のこと。そう、それは我々が忘れかけた記憶の中にある。
球磨川という川の上流に大きな滝壺があった。そこは魚の魚止め滝となっており、その釜は深くえぐれていた。里の者は滅多にここまでは来ない。そう、滝壺は河童の住処だったのである。河童たちはこの滝壺から人里のほんの上流まで行き来していたそうな。
人々は河童に会うと「シリコダマ」を抜かれ、殺されると思っていたのである。だから球磨川の上流には滅多に足を踏み入れなかった。
今日の球磨川は夏にも関わらず、滔々と流れていた。その水はひとときも同じところに留まることなく、清冽な流れを作り出している。夏ともなれば渇水のため、水かさが減る河川も多い中、球磨川は豊かな生命を育んでいた。目を凝らしてみれば、ヤマメやウグイの群れが瀬の中を悠々と泳いでいるではないか。そして、川を囲むようにそびえるブナやナラの木々は、優しいそよ風を川面に送っていた。
その日、河童の三郎は人里近くの淵まで遊びにきていた。淵にはウグイの群れが押し寄せていた。その銀鱗は太陽の光を反射し、美しく輝いていた。河童の中でも若者の三郎は、この淵で魚たちと戯れるのが好きだった。
三郎は岸に上がった。そして、夏の太陽を見上げた。それは燦々と輝いており、目が眩みそうなほど眩しかった。
「あははは、河童さん」
笑う女の声に三郎はギョッとし、後ろを振り返った。すると、そこには年の頃にして十六、七の若い娘が立っていたのである。ここで三郎が人間に会ったのは、この時が初めてであった。
「河童さん、見るの初めて。あはははは……」
娘は無邪気に笑っていた。
「おめえ、誰だ?」
「おら、よね」
娘の瞳は美しかった。それは純粋で透き通るような美しさを湛えていた。
「どこから来ただ?」
「あっち」
よねは下流の方を指差す。三郎は下流の百日村からよねが来たのだと推測する。しかし、この付近は河童を恐れ、人間が近づかないはずだった。
「あはははは……」
よねがまた笑った。
(この娘、まともじゃないな)
三郎はよねの態度を見て、そんなことを思ったりもした。
よねは河原に咲いていた百合の花を手折った。そして、三郎に差し出す。
「これ、河童さんにあげる……」
「ああ、ありがとう……」
三郎はよねから百合の花を受け取った。それは美しくも可憐な百合の花だった。この時、三郎はよねの「シリコダマ」を抜かなければならなかった。それが河童に課せられた宿命だったのだ。だが、一転の曇りもないよねの瞳を見ていると、少し気の優しい三郎は、そんな真似はできそうにもないと思った。百合は川上から吹く風で揺れていた。
「おらは河童の三郎っていうだ」
「三郎……。三郎、好き」
よねがにっこり笑って、そう言った。
「河童のおらが好きだって?」
三郎はにわかに信じられなかった。人間は河童を恐れ、近づかないものだと思っていたからである。それでも、よねは三郎のことを「好き」と言ってくれた。三郎には嬉しい一言だった。
(この娘は気が触れているかもしれんが、悪い娘じゃない……)
そんなことを思うと、余計によねの「シリコダマ」を抜く気にはなれない三郎であった。
「じゃあ、またね。おら、明日またここへ来るだ」
よねは「あはははは」と明るい笑い声を残して、下流の方へ去っていった。
三郎はそんなよねを呆然と見送った。ついに「シリコダマ」を抜くことはできなかった。
「なに、上流へ行っただと?」
よねの父親の吾作は驚いて言った。ちょうど、夕飯時だった。
「上流は危ねえ。さき、なしてよねを納屋の中さ、入れておかなかっただ」
吾作は妻のさきを責めるように言った。
「んだども、おらも田圃さ行かねえと人手が足りねえだよ。よねに張り付いとる暇などねえ」
さきは困惑したような表情で、汁物を掻き込んだ。
「確かによねは気が触れておる。じゃが、儂らの大切な一人娘じゃ。河童にでも襲われたら一大事じゃ」
「おら、河童に会っただよ」
よねがあっけらかんと言った。
「何だと。じゃあ、河童の噂は本当だっただか」
吾作が神妙な顔つきになった。さきは「おっとう」と吾作の腕にしがみ付く。
「でも河童さん、何もしなかっただ。優しい河童さん。あはははは」
よねが笑う。吾作は「うーむ」と唸っている。さきはただオロオロするばかりだ。
「明日はよねを納屋の中へ入れておけ。田圃はおらが一人でやるだ」
吾作は押し殺すような声で言った。
「んだども、河童さんと明日も会うって約束しただよ」
「駄目だ。河童は人の『シリコダマ』を抜いて殺す、恐ろしい妖怪じゃ」
「でも……、三郎は優しいだ。おらの花をもらってくれただ」
「妖怪は妖怪じゃ。明日からはしばらく納屋の中でジッとしてるだ」
吾作は厳しく、よねとさきに言いつけた。よねは俯き、父親には逆らえずにいる。
その頃、三郎は河童の仲間に取り囲まれていた。三郎が百合の花を持ち帰ったことが話題になっていた。新之助という河童が言う。
「綺麗な百合だなや」
「だろ?」
三郎が自慢げに百合を持ち上げた。それを五徳という兄貴分の河童がヒョイと取り上げた。
「おめえにこんな綺麗な百合は似合わねえ。それに、この百合からは人間の匂いがするべ」
それを聞いた三郎はドキッとした。河童の掟では、人間に会ったら必ず「シリコダマ」を抜かねばならなかったからだ。
「やだなぁ、五徳の兄貴。それは河原に捨ててあっただ。きっと人間が手折ったんだべ」
「三郎の。兄貴として忠告しておくが、あまり人里まで近づくんじゃねえぞ。掟とは言え、人間の『シリコダマ』を抜くのは嫌なもんじゃ」
「ああ、そうだな。殺生は嫌なもんじゃ」
「だが、掟は掟。もし人間を見たら、迷わず『シリコダマ』を抜くんじゃぞ」
「わかってるよ、兄貴。わかっているともよ……」
三郎はよねと会ったことを口外すまいと、固く心に誓った。三郎は五徳が放り捨てた百合の花を大事そうに拾うと、繁々と眺めたのだった。
実は「シリコダマ」の抜き方さえわからない三郎であった。河童と人間が出会うことなど稀であった。まだ若い三郎が「シリコダマ」の抜き方を知らなかったとしても不思議ではあるまい。だが、それを兄貴分の五徳に尋ねるのも、また河童として恥ずかしかった。皆様にも「今更恥ずかしくて、他人に聞けない」と感じた経験はないだろうか。それと同じである。
翌日、三郎はまた百日村の少し上流まで遊びにきた。昨日、よねと出会った淵である。川面から、ほんの少しだけ顔を出し、周囲の様子を窺う。人影はなかった。
(よね……)
よねは今日もここへ来ると言った。三郎は純粋で無垢な瞳にもう一度会いたかった。だが、よねの姿は見えない。
この淵が河童の掟で定められた「境界線」であった。この淵より下流へ行くことは許されなかったのである。それは、おそらく河童と人間が長い歴史の中で培ってきた決まり事のようなものなのだろう。兄貴分の五徳からも「この淵より下流へは行ってはならぬ」と厳しく言われていた。
三郎は河原に上がった。そこには百合の花が咲いていた。百合を眺めていると、どうしても、よねのことを思い出してしまう。
(よねに会いてえ……)
今、三郎は更に河童の掟を破ろうとしていた。
よねの家は球磨川の側に建っている。納屋からは川面を眺めることができた。
「三郎、会いてえ……」
よねは納屋の中で寂しそうに呟いた。だが今日は見張りに母のさきがいる。勝手に納屋から出ることはできないよねであった。
よねは川面を眺め続けた。すると、どうだろう。瀬に河童らしき影が見えるではないか。
「三郎……?」
その影をよねが眺めていると、さきが「ちょいと厠へ行ってくるだよ」と腰を上げた。
すると、先は納屋から出て、一目散に河原に向かった。
「三郎、三郎!」
よねがそう叫ぶと、水面からニュッと三郎が顔を覗かせたのであった。そしてニコッと笑う。
「よね、会いたかっただよ」
「おらも会いたかっただ」
二人は見詰め合った。よねの瞳はどこまでも澄んでいた。三郎は「そうだ、この瞳をみたかったんだ」と心の中で呟く。そして、枝に刺したヤマメを六匹、よねに差し出した。
「これ、みんなで食ってけれ。昨日の百合のお礼だ」
「お魚さん、あはははは」
よねが無邪気に笑った。三郎は照れたように笑う。
「河童さんのうち、どこ?」
「球磨川の上流だんべ。イワナの魚止め滝だぁ」
「よねもそこ行きたい」
「そりゃあ、無理だんべ。水の中では人さ、息できねえだよ」
「そうなの? 残念。でも遊びに来て」
「ああ、また来るだよ」
その時、さきがよねを呼ぶ声がした。三郎は「じゃあな」と言って、慌てて瀬に身を沈めて隠れた。
「三郎、また来てけれー!」
すると、瀬の中から水かきの付いた手が出て、左右に振られた。よねも手を振り返す。
「あ、よね。川さ行っちゃいかんと、あれほど言ったろうに……」
さきは呆れたような顔をして、よねの元へ寄ってきた。だが、ここに河童が来るなど思ってもいないさきは笑っていた。
「あれ、よねや、そのヤマメどうしただえ?」
「三郎に貰っただ」
よねは屈託のない笑顔で答えた。
「おめえ、また河童に会ったのけ?」
「あはははは……」
「馬鹿のおめえにはわかるまいが、悪い虫だけは寄せ付けさせねえだぞ。まして河童なぞ、聞くだけでも恐ろしいこんで……」
さきは困ったような顔をして、よねの腕を引っ張った。
季節は流れ、秋になっていた。三郎とよねの密会は続いていたが、稲刈りの時期に、そうそうよねの見張り役をしてもられぬさきであった。その頃には、よねはまた一人で家の中の留守番をすることになっていた。
よねは家でジッとなどしていない。早速、河原へと躍り出た。すると、瀬の中に河童の影が見えた。
「三郎!」
その声は川の中の三郎にも届いたのだろう。三郎は瀬から身を乗り出した。
「よね!」
その手にはやはり、枝に刺さったヤマメが六匹握られている。
「今日も獲ってきただ」
「三郎、ありがとう。おら、三郎だけが友達だ」
「人間の友達はいねえのけ?」
「みんな、おらのこと、相手にはしてくれねえだ。でもいいだ。おらには三郎がおる。あはははは」
三郎はそんなよねの瞳を見つめる。三郎も笑った。三郎にとってそれは、ささやかな幸福だったのである。
三郎には仲間がいる。それは兄貴分の五徳であり、新之助でもある。だが、よねとのひとときは、彼らといる時とは違う、安堵感をもたらしてくれたのである。よねと会うことにより、何とも言えぬ安らぎを覚える三郎であった。
「そこの淵にハヤ(ウグイ)がおる。一緒に捕まえるけ?」
三郎は上流のブッツケ(川の流れが岸に当たるところ)を指差した。
「うん。一緒に捕まえるべ」
三郎はブッツケのほとりに釣竿を置いておいた。その先からは河童の髪で編んだ釣り糸が伸びている。
三郎は河原を丹念に探した。餌にするバッタである。夏のこの時期、バッタは簡単に見つかる。三郎はバッタを五、六匹捕まえると、そのうちの一匹を針につけた。
「よね、この竿さ、握ってみろ」
三郎がよねに釣竿を渡す。バッタは苦しそうにもがいていた。よねは釣竿を受け取った。
「あのブッツケの下手の流れが緩やかになったところにハヤが溜まっているだ。だから、上手からそのバッタを流してやるだ」
よねが竿を振った。糸はなだらかな曲線を描いて、バッタを水の上に落とす。
「バッタを見失っちゃあならねえぞ」
丁度、バッタがブッツケの急流から、緩やかな流れに変わるところに差し掛かった時だ。急に水面が割れた。
「あれ、バッタが消えただ!」
よねが叫んだ。三郎は糸の先を見ている。
「よし、今だ。あわせるだ!」
よねが竿を立てた。すると、よねの握る釣竿に魚の生命感が伝わった。ハヤの引きは「ひとのし」と呼ばれるくらいに強い。竿は弧を描いた。
「三郎、きただよ!」
「やった。ドンピシャだ!」
三郎は自分が釣ったかのように喜んでいる。ハヤの引きは最初の「ひとのし」が終わると弱まる。そこをゴボウ抜きにすれば良いのだ。
「引っこ抜いちゃえ」
三郎がそう言うと、よねは強引に竿を持ち上げた。すると、糸の先では尺近くもあるハヤが跳ねていた。
「やったな、よね」
「あはははは、お魚さん……」
ハヤはよねの透き通るような指の中で、苦しそうにもがいていた。
「これも、おかずになるべ」
三郎が笑う。よねも笑った。
「よねー、よねー!」
よねを呼ぶ声が響いた。さきが田圃仕事を切り上げてきたのだろう。よねを探していた。
「いけね。じゃあ、またな。その竿はよねにくれてやるだ」
三郎はそう言うと、ブッツケの流れの中へ潜っていった。よねが手を振った。糸のさきではハヤが跳ねていた。
「よね、そんなところで何やってるだ」
よねを見つけたさきが対岸から叫んだ。
「三郎と釣りをしていただ。ほれ、ハヤ……」
「しかし、三郎っていうのは、本当に河童か?」
吾作がよねに尋ねた。それは責めるふうでもなく。優しく問いかけたのである。
「うん。おらの友達だ。あはははは……」
「しかし、上流の淵から先しか河童はおらんとの言い伝えじゃったが、人里まで下りてくるとはのう……」
「優しい河童だで。おらの一番の友達だ。今日は釣竿もくれただ」
よねが釣竿を愛しそうに握り締める。吾作は「ちょっくら、貸してみろ」と言って釣竿を握った。
「確かに糸はテグスやバスじゃなさそうだな……。河童の髪か……?」
「でもよう、おとう、よねが河童と会っているって聞いただけで、ゾッとするだよ」
さきが心配そうな目で釣竿を見ている。
「それにしても、なして河童はよねの『シリコダマ』を抜かんのじゃ? 言い伝えでは儂のじいさんのそのまたじいさんが、河童に『シリコダマ』を抜かれて死んだそうじゃ。それが、よねを殺さねえばかりか、ヤマメをくれたり、ハヤ釣りを教えたり……。儂にはわけがわからん」
「三郎、いい河童。友達。あはははは」
よねは呑気に笑っている。吾作とさきは心配そうな面持ちでよねを見つめた。
その時、よねが叫んだ。
「雨こんこん、降ってる。あはははは!」
「ああ、一雨きたか。球磨川が大水にならんとええがの。何せ暴れ川じゃて。用心に越したことはねえ」
吾作の心配は現実のものとなった。一晩で球磨川の水かさは増し、大水の心配が出てきたのだ。
魚止めの滝の釜の淵では、河童たちが寄り合いを開いていた。
「このままでは下流の淵が危ねえ。あそこはおらたち河童と人間の棲み分け線だ。あの淵が埋まると、また人間との境界があやふやになるだ」
五徳が心配そうに言った。それを長老の巳之助が聞いていた。
「これ、三郎に新之助や。おめえら、下流の淵の様子を見てきちゃくれねえか。この大雨が続くと、鉄砲水が心配だ。そうすると、五徳どんが心配するとおり、下流の淵が土砂で埋もれるかも知れんのでのう」
こうして、三郎と新之助が下流の淵を見にいくこととなった。
雨はただの雨ではなかった。台風の到来である。雨風は時刻を追うごとにひどくなっていった。当然のことながら川は赤茶けた激流のようになった。
「この分だと、下流の淵も……」
新之助が心配そうに言った。だが、三郎はもっと心配なことがあった。よねがことである。よねは三郎との約束のために、今日も河原に立っているに違いなかった。
三郎と新之助は下流の淵に着いた。三郎が初めてよねに会った淵である。そこは土砂に埋もれかけ、魚の姿は見えなかった。
「ヤマメもハヤもいねえ」
「きっとどこかに身を潜めているだよ。大水が去れば、また元の淵に戻る。ただ土砂が異様に多いな。こりゃ、五徳の兄貴の心配したとおりになりそうだぞ」
新之助は激流に抗いながら、三郎に言った。
すると、三郎は更に下流を目指そうとした。それを新之助が止める。
「こっから先は人里だ。行ってはならねえだ」
「んだども……」
三郎はどうにもよねが心配で仕方なかった。あの純粋な娘が河原に立ち、危険に晒されているかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
「やっぱり、おら、先に行くだ!」
新之助の制止を振り切って、三郎は下流目指して泳ぎ始めた。
「おい、馬鹿、三郎!」
その新之助の声も、三郎には届かなかった。
やはり、よねは河原に立っていた。
「よねーっ、危ねえ、早く逃げっど!」
吾作がよねの腕を掴んだ。だが、よねはそれを振り払う。川は濁流となり轟々と凄まじい音を立てて流れている。
「嫌だ。三郎さと、ここで会う約束さしてるだ」
よねはそう言って聞かなかった。
「駄目だ。来るだ!」
吾作が強引によねの腕を掴み、引っ張る。だが、よねはまるで駄々っ子のように寝転がり、吾作に反発した。
「聞き分けのねえことを言うでねえ! ここは半刻も持たんぞ」
既に上流のブッツケは濁流の勢いで、崩れかけている。この河原が水に浸かるのも時間の問題だった。
「よし、四半刻待ってやる。それまでに三郎とやらが来なかったら、諦めるだぞ」
そう言って、吾作は家の補修に向かった。強い風で家は傾きかけていた。
よねは三郎を待った。ひたすら待った。その間にも雨風は更に勢いを増していた。
すると川縁に立っていたよねの足元が急に崩れた。よねは濁流に呑み込まれる。
「ああーっ、おとう!」
その声を聞きつけて吾作とさきが飛んできた。だが、そこによねの姿はなかったのである。
「よねーっ、よねーっ!」
吾作とさきは必死になってよねの名を呼んだ。だが、そこには轟々と濁流の音が聞こえるだけだ。
「ううっ、やっぱりさっき、無理にでも連れていけば……」
力なく、吾作とさきがその場にへたり込んだ。横殴りの雨が容赦なく二人を打ちつけた。
その少し下流。濁流が巻き返しになっている瀞場があった。そこに魚たちは避難していた。だが、魚は慌てて散った。その瀞場によねが流されてきたのである。そのよねに続く二つの影があった。三郎と新之助である。
三郎はよねを抱きかかえると、水面目指して、上っていく。そして、岸へとよねを揚げた。
「よね、よねーっ!」
よねは水をたっぷりと飲んでいたが、まだ息はしている。三郎はよねの腹を押して、水を吐き出させた。
「よねーっ、しっかりしろ!」
「うーん……、三郎……」
「よね、よねーっ!」
三郎がよねを揺すった。するとよねはゆっくりと目を開けた。
「おお、よね!」
「ああ、三郎……、やっぱ来てくれただか……」
よねが笑った。そんなよねを三郎はしっかりと抱きしめた。新之助はそんな三郎の行動を憮然とした態度で見ていた。
「三郎、『シリコダマ』さ、抜かねえのけ?」
「おらにはそんなこと出来ねえ。よねを殺すなんて……」
「河童と人間の合い惚れか……。だが三郎よ、おめえは掟を破っただぞ」
「おら、よねが助かるなら、どんな罰でも受けるだ」
三郎がよねを抱き上げた。その姿は誠に凛々しいものであった。三郎はよねの家のほうへ向かって歩き始めた。
上流の河原では吾作とさきが項垂れていた。そこへ、よねを抱きかかえた三郎が歩み寄る。新之助は柳の木の陰に隠れて、三郎の様子を窺っていた。
「おお、よね!」
吾作とさきが嬉しそうな声を上げて、顔を上げた。
「よねは大丈夫だ。心配ねえ……」
「ありがとうよ。おめえが助けてくれただか?」
吾作がよねの肩を支えて、三郎に言った。三郎は黙って頷く。
三郎は身を翻すと、川の中へ飛び込もうとした。
「待ってけれ!」
よねが叫んだ。三郎の背中がピクリと跳ねた。
「三郎、また会えるべ?」
だが、三郎は振り向こうとはせず。そのまま、濁流の中に消えた。その様子を柳の陰から見ていた新之助も川へ飛び込んだ。
台風が過ぎ去り、川が落ち着きを取り戻した頃、魚止め滝の釜では河童たちの寄り合いが開かれていた。三郎を糾弾するための寄り合いである。
「三郎、おめえは自分がしたことがわかっているだか?」
兄貴分の五徳が三郎に詰め寄る。
「河童が『シリコダマ』を抜かぬばかりか、人間の女と合い惚れになるとはのう……」
長老の巳之助が呆れたように言った。
「やっぱりここは『日干しの刑』でしょうか?」
五徳が長老に向かって言った。三郎は震えている。よねのために命を捨てたつもりの三郎ではあったが、実際の罰は実に厳しいものであったからである。五徳の言う「日干しの刑」とは、日当たりの良い場所に河童を縛りつけ、そのまま晒す刑である。河童は頭の皿が乾くと弱り、やがて死を迎える。そんな残酷な刑であった。
だがこの時、三郎は覚悟していた。その覚悟は誠に潔いものであった。
(よねが助かったんなら、『日干しの刑』が何じゃ……)
長老の巳之助がゆっくりと立ち上がった。
「河童は『シリコダマ』を抜いてなんぼのもんじゃ。それを人間と合い惚れになるとは言語道断。三郎には最も重い罰を与える!」
巳之助の杖が水を一掻きした。三郎は目の前がグルグルと回った。それからしばらく、三郎の記憶は途絶えることとなる。
よねは河原に立っていた。いつも三郎を待っていた家の前の河原である。
「おーい! よねーっ!」
遠くからよねを呼ぶ声がした。それは確かに人間だった。だが、その顔には河童の三郎の面影がある。
「三郎……?」
三郎と思しき人影はよねに駆け寄った。
「そうだ、三郎だ。おら、河童の一番重い罰を受けて人間にされただ」
「三郎、好き!」
よねが三郎に抱きついた。三郎もよねをしっかりと抱きしめる。二人は見詰め合った。よねの瞳は今日も無垢な輝きを湛え、澄んでいた。
「もう、おらたちの邪魔をするもんはおらん。おら、よねの婿さなりてえだ」
「おとうもおかあも稲刈りだ」
二人は田圃に向かって歩き始めた。
「もう、おらたち上流には行けねえだ。河童に『シリコダマ』を抜かれるでよ」
「あはははは……」
よねの明るい笑い声が響いた。
(了)