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20、彼の望む世界

 彼は幼い頃からとても優秀だった。


 物事の本質を見抜くことに長けていたのだろう。一を知れば十を知り、あらゆる物事を俯瞰的に、客観的に捉え、世界は複雑であると同時にシンプルなものでもある、と十代になる前に理解していた。


 そんな彼が、自分と同年代の周りの人たちと馴染めなかったのは必然だった。


 どうしてこんなにも単純なことが理解できないのだろう、どうしてただ見ればわかるような簡単なことが読み取れないのだろう、どうしてみんなそんなにも無駄なことを繰り返すのだろう、と思ううちに、周りの人たちとは会話がかみ合わなくなっていった。


 べつに、見下していたわけではない。ただ、自分と同じベクトルで話せる仲間が身近には居ないのだろう、とは感じていた。その意識が、彼をより周囲から孤立させていった。


 けれども、彼はそれでいいと思っていた。そもそも、人間に興味はなかった。この世界を構築する美しい数式、神の存在を感じさせるほどに完璧な符合。そういったものと向き合うことこそが、彼にとっての幸せだったからだ。


 だから、そんな自分が人間相手に恋に落ちるだなんて、思いもしていなかった。




「ねえ、その本、面白いの?」


 と、彼女は唐突に訊ねてきた。大学の学食でのことだった。人間に興味のない彼は、当然大学でもありきたりで平凡で普通な人間関係は築けずに、一人でいることが多かった。


 だから、そうして話しかけてきた彼女とはもちろんそのときが初対面だった。そして彼は、初対面の人と話す気なんてさらさらなかったから、その問いかけを無視する。


「ねえってば。その本、面白いの?」


 けれども彼女は、めげずに訊ねる。


 ああ、これは言葉を返すまで何度も訊ねてくるタイプの人間だ、と彼は諦めて、手に持っていた本から目を外して、彼女を見た。


 そこには、丸い顔があった。大きくて、まるでビー玉のような澄んだ眼に、少し大きめの鼻。口元は少しいびつで、その笑顔は左右対称なものではない。けれども、決して醜い顔ではない。むしろ、愛嬌があって、周りの人間から好かれる顔なんだろう、と彼は心の中で分析した。彼女はまるで小動物のような雰囲気を纏っていた。


「ああ、面白いよ。だからこうして読んでいるんだ」


「ふーん。どれどれ」


 と、彼女は彼の手から、その本を()(さら)う。


「あ……」


 小さく漏れるような声は、彼女には届かなかった。


「平行世界……? これって、SFの分野でしょう? なに、キミ、小説家でも目指しているの?」


「まさか。フィクションに興味はない」


「だよねぇ。キミ、校内じゃ有名人だもん。稀代(きだい)の大天才だ、世界に誇る偉大な脳だ、って。いずれ世界を変える大発見をするかもしれないキミが小説家になるだなんて、先生たちが許さないでしょう」


「……僕、そんな風に言われてたのか」


「え、知らなかったの?」


「まあ、他人とはあんまり話さないし」


「あー、まあ確かにキミが誰かと話してるのはあんまり見たことがないかも……」


「で、キミはどうして話しかけてきたんだ?」


 校内で有名になっているというのならば、他人と交流を持たない人間であることも知れ渡っているのではないだろうか。それなのに話しかけてきた彼女のその動機が不明だ。


「え、私? そりゃあ、面白そうだったからに決まっているじゃない」


 なにが決まっているのかわからなくて、彼は小さく首を傾げる。


「面白そう……?」


「そ。私はね、小説家志望なんだよ。だから、面白そうなものを見つけたのなら、積極的に取材したいじゃない」


「いや、知らんけど」


「だって、身近にいる大天才だなんて、小説家を書く上において、絶対においしい材料じゃない。関わっておきたいじゃない!」


「ああ、そう」


 その勢いに気圧されそうになったけれども、なんとか平静を装う。


 彼女が声をかけてきた動機はわかった。要するに彼女は変わり者だということだろう。小説家になりたい、だなんて公言してしまう人間がまともであるはずがない、と彼は小さくため息を吐く。


「で、なんでこの本を読んでいたの?」


「それは、その小説家としての取材?」


「お? 取材には応じない、ってことですかな? じゃあプライベートな場でのただの雑談ってことで」


「いや、そもそも最初からずっと雑談だったじゃないか……」


「で、どうしてこの本を読んでいたの?」


 彼女の好奇心はどうやら相当に旺盛らしい。下手にあしらうのは逆効果だろう。諦めた彼は大人しく彼女の問いに答える。きっと、彼女が満足するまで答え続けたのならば、帰ってくれるはずだ。


「ワームホールに関する研究の一環でね。平行世界についても言及されていたから、興味を持ったんだ」


「へえ、なるほどね。そういうことか。キミ、もともとはワームホールの研究をしてるんだね」


「まあね」


「でも、どうしてワームホールの研究をしているの? いずれ住めなくなるかもしれないこの地球からの脱出を見据えて、とか?」


「なんだよ、それは」


「いや、ワームホールなんて単語が出て来れば、思い浮かべるのは宇宙船のワープとか、タイムトラベルじゃない? 貴方がロマンで動くタイプじゃなさそうなのはわかるから、タイムトラベルの研究をしているとは思えない。なら、より現実的な宇宙開発の分野の応用のためにワームホールを研究しているのかと……ねえ、正解?」


 ねえ、正解? と、彼女のそれは質問口調ではあるものの、その表情には自信が満ち溢れている。きっと、これこそが正解なのだ、と信じきっているかのような顔。


「いや、ぜんぜん違うけど」


 彼女のその自信を打ち砕くように、彼は首を振る。


「えー違うのか」けれども、彼女はちっとも悔しそうな顔をしない。「じゃあなんでワームホールなのさ?」


「ワームホールの研究がとても難解そうだったからさ」


「難解そう……?」


「ああ。簡単な問題を解いたって、べつに面白くもなんともないだろう? 難しい計算を解いてこそ、研究する甲斐があるってものじゃないか」


「ああ、なるほど。そこに山があるから登るんだ、的な?」


「いや、それは違うと思うけど……」


「とにかく、その難解なワームホールの研究の一環として、この平行世界についての本を読んでいた、ということだね」


「うん、いや、だから最初っからそう言ってたんだけど」


 なんだか会話が噛み合っている気がしない。彼のことなんかはお構いなしに、彼女は彼女だけでどんどん突き進んでいっているような気がする。


「私はワームホールよりは平行世界のほうが興味を惹かれるけどな」


 なんて、ついに彼女は自分の意見を述べ始める。彼女は取材には向かない人なんじゃないだろうか、と彼は思わず苦笑してしまう。けれども、そんな彼女のことを面白い、と思うようになっている自分がいることにも気付く。


「どうしてキミは平行世界に興味があるんだい?」


「だって、私は小説家志望だよ? 私はね、いろんな世界の可能性、夢を文章にして伝えたいと思っているんだよ。だから、いわば可能性の世界そのものとも呼べる平行世界に興味を持つのは当然のことでしょう」


「そういうもの……か?」


「そういうもの、だよ。キミは平行世界にはあんまり興味はない?」


「そうだなあ、あくまでワームホール研究をする上での副次的なもの、だという認識だけど……」


「勿体無いなぁ。キミが本気で平行世界の研究をするのなら、きっと、世界は未知への扉を開くっていうのに」


「なにそれ、勘?」


「勘」


 彼に向けた言葉の根拠を、なんの迷いもなく勘だと言い切ってしまう彼女に、思わず笑ってしまう。


「は、いいね。面白い」


「面白い?」


「ああ、平行世界の研究に興味を持った。いいよ。キミの言う通り、世界を変えて見せよう」


 その言葉に嘘はない。彼女の言葉で、平行世界に興味を持った。けれども、それ以上に彼女そのものに興味を抱いた。


 ――彼女はとても面白い。


 彼女の求めるものを、彼もまた見たくなったのだ。


「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕は……」


「知ってるよ、加來(かく)ヨシヤ、でしょ。言ったじゃない。キミは有名人だって」


「ああ、そうだったね。それじゃあキミの名前は?」


 そう訊ねた彼に、彼女は待ってました、と言わんばかりのとびっきりの笑顔を向ける。


「私は冬木(ふゆき)ハルカ。よろしくね」


 その屈託(くったく)のない、まるで青空の下で咲き誇る花のような笑みに、彼はどうしようもなく恋に落ちてしまった。




 その日から、ヨシヤは平行世界の研究に本腰を入れ始めた。


 そして、平行世界の研究にのめり込めばのめり込むほどに、天才だともてはやされてきた彼は周囲からは冷ややかな目で見られ、そしてやがて忘れ去られていってしまった。


 当時、平行世界の研究はキワモノと見られていたからだ。


 平行世界の存在する可能性は以前から話されていた。とはいえ、実際にそれが存在するのだとしても、それを研究することは無意味だとされてきていた。だって、平行世界が実在するのだとしても、そこに移動できる手段がないのだから。次元を超えた移動なんていうものは、高次元からの干渉からしかありえないもので、人類がこの次元に存在する以上、平行世界へと行くことは不可能なのだから。


 平行世界というものはあくまでもSFの領域だとされていた。

 SFを研究する彼のことを科学者だと認める科学者は、一人としていなかった。


 そうして孤立していくことに、ヨシヤはとくになにも思わなかった。小さな頃からずっと周囲とは噛み合ってきたことがなかったから。今さら、周りから人が離れていったところで、それはただ昔に戻るだけのことだった。


 そしてその孤立をより深めていったのが、ハルカの死だった。




「ねえ、私がいなくなってしまうと寂しい?」


 病床で彼女はそう訊ねた。枯れ木のように細くなったその腕を掴もうとして、けれども触れれば折れてしまいそうな気がして、ヨシヤは手を膝の上に置く。


 ――そんな決まりきったことを聞かないでほしい。僕は……


 彼女を少しでも安心させたくて、彼はなるたけいつものように控えめな笑みを浮かべる。沈着冷静な普段通りの自分自身を演じる。


「さあ、どうだろうね。キミは少し騒がしかったからね。静かになれば研究が(はかど)るかもしれない」


 彼のその言葉に、彼女は小さく微笑む。


「えー、ひどいなぁ。私、これでも病人だよ? もっとこうさ、慰めの言葉とかないの?」


「口先だけの言葉は不誠実だろう?」


「ふふっ。まあ、そうだね。キミが『頑張れ、愛してるよ』なんて言ったら、ちょっと気持ち悪いもんねぇ」


 ひどい言われようだ。けれども、二人はずっとこんな調子だった。できることならば、これから先もずっとこんなやり取りを繰り返していたい、と願っている。こんな状況でも、こんな状況だからこそ、もっといつものように在りたいのだ。


「……でも、キミと共に平行世界を見てみたいと、今でも思っているよ。どこかに存在するかもしれない、究極の理想郷。無限の平行世界を渡っていけば、いずれは辿り着くのかもしれない、人類の進歩の極致(きょくち)に至ったシャングリラを、キミと共に」


「…………」


「だからさ、せめて僕のその願望を叶えるために、もう少しだけでも生き延びてもらえるとありがたい」


「なによ、それ。キミの願いのために私が長生きしなくちゃいけないの? 随分と自分の欲望に忠実なマッドサイエンティストね」


 と、彼女は笑う。その笑顔は、かつてのものと比べると、どうしても弱々しく、儚く消え入りそうに見える。

「当然じゃないか。僕は世界を変える科学者だよ。狂気的(マッド)なくらいじゃなきゃ世界なんて変えられないさ」


「ああ、うん。そうだね、その通りだよ。キミは大天才さ。きっと、キミは世界を変える。私が保証する。だから……だからさ、私がいなくなっても、絶対に諦めたりしないでよ」


 彼女のその言葉に、ヨシヤは小さく息を飲む。


 ――そんなことを言うなよ。


 ――キミにしては珍しく弱気だね。


 ――僕はキミに生きていて欲しい。


 ――キミを愛している。


 彼女に返す言葉はどれがいいのか考えて、そのどれもがこの場にはふさわしくないような気がして、なにも言えない。


 結局、それが彼女の最期の言葉となった。




 人生で初めて、そして唯一愛した人が逝った。べつに、珍しことではない。若くして病に侵されて亡くなる、なんて悲劇はこの世の中にいくらでもありふれている。


 けれども彼女を失ったその欠落を埋めるものはこの世界にはなく、ヨシヤはただ膝を抱えて三日三晩、ただ壁のヘコみだけを見つめ続けた。


 涙を流すことができたのならば、もっと楽になれたのかもしれない。けれども、涙は出なかった。涙が出ないぶん、悲しみは胸を余計に締め付ける。


 何度も何度も呼吸を見失いながら、それでも膝を抱え続けた。

 そしてある日、唐突に思い至った。


 ここではない平行世界には、彼女が生き続け、幸福に暮らしている世界もあるはずだ、と。平行世界の可能性は無限。彼女が幸福に暮らす世界が無いはずがない。


 彼女だって、言っていたじゃないか。私がいなくなっても、絶対に諦めたりしないでよ、と。


 彼女の最期がこんなものであっていいはずがない。幸せに暮らす彼女の未来だって、ありえたはずだ。その姿を見てみたかった。その姿を必ず観測してみせる、とヨシヤは決意した。


 ――ならば研究を続けよう。歩みは止めない。


 そうして彼は毎日毎日、ただひたすらに研究を重ね、寝食を忘れて没頭し続ける。

 そしてついに平行世界の観測に成功した。


 平行世界は実在すると証明できたのだ。そして、一度観測ができてしまえば、後は楽なものだった。芋づる式に平行世界を発見し、観測に成功した平行世界の数は四百九十六を数えた。


 ――かつてハルカが夢見た世界は、ここに無数に存在する。


 そして、彼はその研究成果を世間に公表した。


 けれども、世の中は彼の発表に見向きもしなかった。科学者たちの間で、彼はもはや終わった存在なのだと見られていたからだ。ハルカを失ってからは特に、その喪失感を埋めるために現実から目を逸らし続けている、と思われていた。誰も、彼の論文にまともに取り合おうとしなかった。


 それでも、彼は研究を止めはしなかった。


 彼の目的はもはや、平行世界の発見だけではなくなっていた。かつて失ったハルカが存在し、幸せに暮らす世界。そんな夢のような世界を発見すること。そして、いずれはその幸せな彼女と接触することを目的としていた。


 そのために、新たな平行世界の発見をいったん止めることにした。まずはすでに発見した四百九十六の平行世界のさらに詳細な観測を行うことにしたのだ。


 自分たちの世界と近い文明を築いた世界はあるのか。ハルカが存在する世界がるのか。そして、その世界で過ごす彼女は幸せなのか。


 研究をさらに続けた結果、それらすべての条件を満たす平行世界は六つ観測された。その数は決して悪い数字ではないだろう。


 あとは、その平行世界へと干渉するための研究だ。それができれば、幸福に暮らす彼女と出会い、直接会話を交わすことさえもできるようになる。けれども、同時にその研究こそがもっともハードルの高いものだということも理解していた。それは、次元に干渉するための研究なのだから。それこそ、ワームホールについてのすべてを理解し、活用する必要性があるかもしれない。


 そして、やはり平行世界へと干渉するための研究は困難を極めた。


 研究そのものの難易度はもちろんだけれども、なによりも研究をするのための資金が底をつきた。


 けれども、そんな彼の前に救いの手が差し伸べられた。

 一人の男が、彼の研究を全面的に支援する、と現れたのだ。


「キミの研究は実に面白い。きっと、これは世界を変えるだろう。この実験の意義を見出せない無能な科学者たちの戯言(たわごと)なんて放っておけ。俺はキミの研究にすべてを賭ける」


 その言葉に嘘偽りはなく、男は充分な研究資金と充実した研究施設に、優秀なスタッフを用意してみせた。


 その男の協力によってヨシヤの研究は順調に進み、そしてついに平行世界へと移動することのできる穴を開ける(すべ)を手に入れることに成功した。


 その穴の向こうには、彼の望む世界があった。

 ハルカが生きて、幸福に暮らす世界。


 その世界では、ハルカはヨシヤと出会ってはいなかった。小説家としてそれなりの成功をおさめ、ヨシヤとは別の男と出会い、結婚し、二人の子供と共に暮らしていた。彼女が別の男と出会って結婚していた。その隣に立つ人間が自分ではないことは不服ではあったけれども、それでも彼女が幸せそうに笑うのを見て、それでもいいと思えた。


 ――ああ、こんな世界が存在するのだと知っているのならば、それだけでこの先も生きていける。

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