54 綿津見島 11
やはり、入れた。
門をくぐったレオニーナは安堵と共に、今までに覚えたことのない緊張を帯びて強張っていた手を、ゆっくりと振ってそれを逃そうとした。
命のやりとりも、難破の危機も、世界が滅びる寸前にも立ち会ってきた、というのに。
「お帰り、オレたちのお姫様。」
飛び込んだ胸の中で強く抱きしめられた後、腰に手が回って、軽々と抱き上げられた。腕に腰かけさせられる、だっこは幼い日から変わらぬものだが、いつまでも小さな子どものようで、やはり気恥ずかしい。思春期の頃はかなり抵抗したのだが、
「お前はずっと小さな可愛い娘だから、」
とか、
「オレもいつかよぼよぼになってお前を抱え上げるなど、到底及ばなくなるのだから、叶ううちはいいんじゃないか?」
とか。結局、なし崩しで今日にいたる。
見ている家人たちも、当たり前すぎて何の反応もないし、難しい年を過ぎてしまうと、もう仕方ないかと、逆に甘やかす気分になってしまう。しかし、齢すでに六十に近いはずだが、本日も全く揺るがぬ腕と背だ。髪はさすがに白くなってきたが、腹も出ていないし背筋も伸びて足取りも確か。洒落た感じで服を着こなして、まだまだ現役だと主張している。
「シャイデの話は報告を受けている。思わぬ長旅となったな。無事で何よりだ。」
「ええ。でも終わってみれば楽しゅうございました。大事な友もできて…シャイデと三花陸に分かれてしまうと、戻ったことは嬉しいのに、とても寂しい気持ちでもいますわ。」
「そうか。」
娘を腕から下ろして、今度はその腕を差し出した。変わらぬ逞しい腕に手を添えて、丈高い父を小柄な娘は慕わしく見上げた。
「報告書は読んだが、お前の口から此度の旅の話を聞かせてくれ。勿論、セディルにも。」
「ご様子は?」
返ってくる言葉が変わることはない、というのに聞いてしまう。
「変わりないよ。」
そして、あと…年、と心の中で月日を数えたことを見透かす目と合うのも。
「お前が生まれる前の出来事に、心煩わされる必要はない。これからを語りなさい。」
そうですわね、と微笑んで流すまで、がいつものやり取りなのだが。今日はなぜか、続いたのだ。
「それで、お前が未来を過ごしたい男をシャイデから連れてきた、と聞いたが?」
「!? どこから、いえ、だれからそんな荒唐無稽な話を?」
「連れだって、街歩きをしていたと、」
「この街が初めてだから、案内していただけですわ。」
「風采も悪くなく、お前の船の連中によると、海は素人だがかな見込みのある…、」
情報は合っている。合っているが、それ以前の話である。
「海皇に入りたいというから、統領に引き合わせようとしているだけです!」
「おや、うちはいつからそんな仁義を通す団体になったのかな?」
「とりあえず海皇に来てみたいと言うので。無下に断って、知らぬところをかき回されるより、厄介は防げるかと。ただ場合によっては、海皇の存亡に関わるかもしれませんので、」
「大事な跡取り娘の配偶者となるのなら、それは確かに海皇の存続には関わるだろう。」
「頭領、わたくしは船を預かる頭のひとりとして、新しく幹部として迎える者との面通しを要請いたします。」
娘ではなく部下として、低く抑えた声に、分かった、と男は表情を改めて請け合った。
「ちょっと残念だが、」
「は!?」
「娘さんをください、いや、オレを倒してから言え! …というのは、浪漫だろう?」
「…はぁ、」
相槌ではなく、溜息である。
「いきなり、わたくしの婚姻など取り沙汰されるなんて、らしくありませんわ。」
適齢期といわれる年代の頃であっても、まったく話題に上らなかったのに。「どこかお悪くされている訳てはありませんね?」
「元気だぞ? 見てのままだ。久しぶりにお前が戻って、オレも少し神経質になっているんだろう。寄る年波は数えるお年頃だ。」
笑いで収めようとするから、頷いた。
「…そうですの、」
その代わりに、今日すぐに終わらせる、と決めた。
応接室のひとつに待たせている。今日は供だけのつもりでいたが、変なウワサが広がりを起こす前に、立場をはっきりさせておく方がいい。
「同席するか?」
「いいえ、いらぬ世話でしょう。」
あっさり、辞退して。
「わたくしは、あちらに行っています。」
館の奥。本館からは独立し、複数の物見の塔が見下ろす迷路庭園と、幾つもの壁と門に囲まれ、一つの城のように守りを固められた場所がある。
年に一度、新年の儀の時だけ、幹部たちを数年の持ち回りで招き入れて、薄い紗を重ねたあちらから拝謁を許しているが、それ以外で立ち入るのは、家族と、家族同然のテフ家、古参の限られた使用人だけだ。鍵は家族しか持っていない。
部屋の清掃や、身の回りを整えるすべてを、この面子で行っている。といっても、食事や排泄の世話は必要でないから、毎日、すべき何かはない。
それでも、館に居る時はほぼ毎日レオニーナはここへ通っていたし、男はいまもそうだろう。
直射日光は入らぬように、ただし風通しはよく、湿度が年間を通してなるべく一定になるように設計された一画は、今日も静謐に満ちていた。
「ただいま、戻りました。」
紗の中には入らない。来客がある訳ではないから、一枚だけ下ろされたそれ越しでも十分に姿は見て取れる。
「お久しぶりです。まさか、こんなに留守にすることになるとは思っていませんでした。」
枕元に椅子を持って行って座る。最初から置いてある椅子は、男のものだ。
「蒼苑を渡ってシャイデまで。双異翼の柱が解放されてから、随分と航海は自由になったそうです。でも、わたくしのような昔を知らない者には、やはり厳しい海ですわ。季節風も、何より距離が半端ではございませんでしょう?」
室内には、何もない。壁には額縁もなく、床に絨毯も、燭台もなければ、花も飾らない。
最高級の絹を掛けた、寝台がある。
「あなたなら、どのような渡るのでしょう? とうさまが、あなたの風よみはそれは神がかっていたと何度も何度も言いますもの、きっと----、」
「----そういう趣味があったのか、年には合わんが、見た目に合っているというか?」
登録外の声と気配に、身体は反射的に動いた。帯に挟んでいた小刀を一本投げつけ、振り向きざまに抜刀していた(自館内だからこそ、あえて携行している)。
「…デューン、」
小刀を指先で捉え、正面に迫った白刃に顔色を変えることもない。
「どうしてここへ?」
刀を引き、小刀の返却を受ける。謝りはせず、問うた。
「頭領どのに、眠れる海賊皇に会いたいと言ったところ、頭領が追いつけるまでに辿りつけるのなら構わない、と許可を得た。」
二本のうちの一本のカギを見せ、事も無げに言った。
「ちなみに、頭領どのは最初四半時もくれると言ったが、その半分で、と。慎ましいだろう?」
どう煽った末の展開かは知らないが、相手が悪い----いや、ひとではないのだから、やむなしか。
「あなたに、興味を持たれていたとは思わなかったわ。」
おくびにも出さなかった。そも男の目的を計りかねている。海皇入りは、手段か方便か気の迷いか一時の好奇心か暇つぶし、だとは分かっている。
「気になるさ。わたしの知らぬ世界の話だ。」
面白そうに、だが、冷えた声だ。
「なのに、なぜお前は、人形遊びに興じているのだ?」
怒髪天を衝く、という言葉がある。まさしく、何もかも逆なでされた不快感。
「----貴様ッ、」
しまいかけた小刀を、そのまま喉元に突き付けて。
蔑みを湛えた双眸を、全身の怒りを込めて睨み上げる。
「…ほぉ、」
笑う、か。
「可愛らしい外見ばかりかと思ったが、そんな貌もするか。面白い。」
「貴様に評価される筋合いはない。」
吐き捨てた。
「去ね!」
吃驚したように首を傾げ、馬鹿にしたように頬を動かす。その言葉を待つことはない。
「父に敬意を持てぬ者なぞ、いらぬ。」
「おいおい。だって、それは、」
それ。
上から足を下ろして、踏みにじろうとする。
ああ、消したい。と、思った。思考の半分は冷静で、無理だと言ってくるのも、忌々しい。
「我らの海皇は、御座にて時至るまで眠られている。」
壮絶で、美しく笑む。
「それがなにか?」




