51 綿津見島 8
眠って、起きたような感覚だ。
眠りと異なるのは、場所が異なることだ。
波と船を眺めていたのに、建物を背にパレードを見ていた。切り替わる前、居たと思った黒い仮面はどこにも見えず、白いウサギの仮面が隣の子どもに渡していた風車を、流れで受け取った。
「パレードだ! パレードが行くよ!」
くるくる回る風車を片手に、子どもたちが追いかけて走っていく。その保護者達も慌てて追っていくことになる。
そして人気がなくなった路上に蹲る人を見つけた。
身なりはかなり良い。貴族の娘の外出着だ。しかし供がいない。
どういうことだろう、と自分を棚に上げて思い、しばらく周囲を窺ったが、誰が戻ってくるということもなかった。
飾車は帯に差し込んで、具合悪そうに蹲っている女性の傍らに、そっと屈みこんだ。もし、と声掛けして、顔を覗き込んだ。
銀と青の縁取りが入った仮面をつけた女性----思ったより若い女性だった。二つか三つ上だろうか。きれいに化粧をしていたが、それでもはっきり分かるほど青白い顔色で、口元を拭ったために紅が落ちた唇は紫だった。
それでいて、額にはびっしりと汗の玉が浮かんでいて、帽子からこぼれた金色の前髪がはりついている。
「ごめんなさい。突然、気持ちが悪くなってしまって。」
立ち上がろうとするのに手を貸して、手近な石段に座らせた。
「人いっぱいでしたもの。きっと人に酔ってしまわれたのでしょう。」
背中を撫ぜてやりながら、襟元や帯を軽く緩めてやる。お姫様生まれだが、育ちのせいで、自分の身のまわりも他人の世話にも抵抗がない。
彼女の巾着から小ぶりの水筒を見つけて手に握らせた。
白い喉をあげて、ゆっくり飲んでいくのを見守った。
「----ところで、お連れ様はどちらですの?」
新しい観光客の群れが路地を上がってくる。道脇に座り込んだ娘二人に、どうしたのだろうと視線を向けはするが、女性の知り合いらしい人は現れない。
「…言い争いを、してしまって。」
手巾で汗を拭ってから、小さな声で女性は言った。
「はい?」
「せっかく一緒に来てくれたのに、気を悪くさせてしまって、」
「----で、置いていった、と。」
あり得ないんですけれど。顔に大書きしてしまったらしい。
「具合の悪い人を!?」
「いえ、その時は具合は悪くなかったのです。」
「具合も悪くなりますわ。」
庇おうとする女性はいじらしいが、重ねて思う。あり得ない、と。
家柄も育ちもよさそうな、うら若き女性を、治安は良いというが、所詮は訳の分からない場所に一人きりにするなど----カティヌの小説でいうなら、婚約を破棄されるべき「屑」だ。
「あの、普段はとても頼りがいがあって、少しぶっきらぼうではありますが、優しい方なんです。」
洗脳だ、とカノンシェルは、カティヌの『この人生が二度目だと気づいたわたしは、屑な婚約者を正しく屑箱へ廃棄します』を念頭に断じた。
ちょっと心細くさせ、そこに計画的に手を差し伸べて、依存させようという手口だ!
「参りましょう!」
その手にのってたまるものか、とカノンシェルは決然と女性を促した。
「こちらは風も通りませんし。私、お付き合いしますから、港まで降りてしまいましょう?」
「ありがとうございます。ですが、あなたは上に行く途中なのではありませんか?」
どうしてここに居るのか、まったく不明だが、戻る選択肢、しかない。
「大丈夫です。私も港に行くところなので、」
「あなたもお一人なのですか?」
「港で待ち合わせなんです。船は何時ですか?」
「最終です。」
「では同じですね。時間はまだたくさんありますから、ゆっくり参りましょう。」
立ち眩みを警戒して、腕を貸して立ち上がらせた。
「お連れの方も頭が冷えたら戻ってくるでしょう。港には絶対来なくてはならないのだから、行き違いにもならないし。」
強引かな、とは思ったが、体調の悪い人を置いていくことはできない。歩き出すと、女性は抗うことなく付いてきた。
「----ここの、上だったのね。」
例の絵タイル広場から、カフェ通りに続く坂だった。あの時かなりぼんやりしていたから、いろいろ曖昧なのだが----こんな重厚な建物が両側に続く道だったのか。
四つの物見の塔が建つ、開放的な広場。塔と、水飲み場の位置は同じ。だが、地面が違う。
一面に青のタイルが敷き詰められていた。海原を模した、その石畳の中央には、ただ一つの意匠。
壊れた塔を挟んで右手に三花陸、左手に千切れて飛んだ花陸。明るく輝く水面を西に向かう船団。淡い黄色の小さな花、「再生」を花言葉にもつリシアと「祈り」たるカークの白い花が散る。
見たことのない、絵だけが、あった。
非常識な島だから、僅かな時間で張り替えた、ということもあるかもしれない。或いは、違う広場なのか、いや、一本道だったと思っていたが。
混乱のまま、じっと絵を見つめるカノンシェルの様子をどう見取ったのか、少し顔色を戻した女性は誇らしげに頷いて、弾むように言った。
「功績を、綿津見が讃えてくださった証ね。何度見ても、なんと素晴らしい未来の寿ぎでしょう。これからは、シャイデに向けて船はどんどん旅立つでしょう。も・う・、気紛れに海原を掻き回す柱はないのですもの。珍しいものが、間違いなく、たくさん運ばれてくる。楽しみではありませんか?」
まるで未来のことのように、女性は言う。
「シャイデに…、」
「今頃は、多くの船があちらに着いて、偉業を知らしめているでしょう!」
チカチカ、と『真白き林檎の花の都』での講義が胸をかすめる。
双異翼の柱の解放を報せて、三花陸からの船が増加したことが、シャイデ内の幾つもの紛争を収めるきっかけと為った。
----昔むかしの話だ。
港。≪調》の天幕は同じ位置にあった。しかし、女性の姿を見て駆け寄ってきたのは見取らぬ顔だ。勿論、カノンシェルが顔を合わせていないだけかも知れない。
「リジェレーナ! どうしたの!? あいつは!?」
「怒らせてしまって。ごめんなさい、せっかく船を用意してくれて、彼も呼び出してもらったのに。」
「はあ!? 子どもすぎでしょ!?」
まったくだ、とカノンシェルはつい頷く。
「顔色、よくないわね。内で休んで。あいつは、探して連れ戻すから!」
「時間になれば戻ってくるでしょう。気にしないで、カナエ。」
「でも、あなたにはもう時間がないのに、」
女性は淡く微笑み、カノンシェルを顧みた。
「送ってくださったの。」
「まあ、ご親切に。お暑いでしょう? 冷たいもの用意しますから、どうぞ内へ。」
「…ええ、」
違和感。
だれに声をかけても、便宜をはかるから、と当主は言った。
確認すればいい、と思いながら天幕の中に足を踏み入れた瞬間。
ばちり。と、何かが途切れるような感じがして。
女性も、≪調≫の女も失せて、≪調≫の店員がにこやかな表情でカノンシェルを迎え入れた。
「どうなさいました? もう少しお飲み物が必要でしょうか? すぐお持ちしますね。」
「…いえ、あの…、」
もう何度目だろうか。
空間が千切れる、この感覚は。
----何が、起きた?
曖昧に頷きながら、とりあえずはカップを受け取って外のベンチに戻ろうとしたが、ふと問いかけてみることにした。
「リジェレーナ、という方をご存じ?」
「…申し訳ございません。その名のお客様に、私は心当たりがございません。」
店の者と随分親し気な様子ではあったけれど。
「そう、…では、カナエという方は?」
ぱっと店員の顔が輝いた。もちろん、と大きく頷く。
「会長の奥方様の?」
「…コドウさんの、」
「ええ、母君で。会長ともども経営からは退いておられますが、たまに店に顔を出されます。気さくで、とても活動的な方で…、」
「----あの、ぬいぐるみを作った方…?」
「とても高名な人形師ですわ!」
…なるほど。
信じられないことだが、この世には、信じがたいことがたくさんある、と知っている。




