41 綿津見島 2
蒼白の頬の少女の腕をとって、抱えるようにして広場を後にした。ほっそりとしたレオニーナだが、船上で重いロープを運んだり、帆を張ったりする船員であるから、腕力(筋力)はそのあたりの町の男の比ではない。
日陰が殆どない広場を出て、市街地に入る。オープンカフェが軒を連ねる、瀟洒な街並みである。
手近なパラソルの下の椅子に少女を座らせて、レオニーナは店内に注文に入った。
前の客のやり方を、見よう見まねで「注文」を行う。そこに店員はいない。
メニューが書かれた平たい画面で、ほしいメニューの文字を押す。会計、と書かれた部分に、そのメニューの値段が浮かび上がり、口を開けた穴にコインを入れれば、ややして奥から白い盆が、水のない川を流れるように移動してきた
カップを二つ載せたお盆ごと取り上げれば、どこからしれないところから、「ありがとうございました」とあいさつの声が降った。やはり、店員の姿はない。
遠目に、そのさまを見ていたカノンシェルは薄気味悪そうに、肩を縮めた。
メニューは違えど、界隈の店はみな同じ型式のようだった。触れ通りに、仮面を付けた人々が、物珍しそうに次々と入店して、屈託のない歓声を上げている。
レオニーナが注文し、目の前に置かれたカップのなかみは、丸い氷が浮かべられたオレンジティー…に、見えた。
「…この、材料はどこから…」
「さあ?」
レオニーナは自分用のカップを取り上げ、くん、と香りを嗅ぎ、少量を口の中で転がして、----嚥下した。
「レオ、ニーナさま…?」
「大丈夫そうよ? 少なくとも、毒の類は入っていないわ。」
商売柄、彼女も体を慣らしているひとりだから、その判断は頼もしい。だが、少女は緩く首を振る。
すごい、どうなっているの?と陽気にさざめいて受け入れている人々が、カノンシェルにはさっぱり理解できない。この空間すべてが薄気味悪いのだ。
震える指先でポシェットを探って、小さな水筒を取り出した。
「----申し訳ありません。」
冷たい飲み物を、という厚意は伝わっているが、どこのだれか、どころか、どうやって作ったかも分からない食べ物を口にする気は、起きない。
僅かに唇を湿らせて、パラソルの下で目を閉じた。
どうして、と傍らに崩れるように膝をついた----あの、とき。
「本当はその場で楽にすべきだったが…、」
楽にする----楽にする? すぐ近くで話しているのに、ひどく遠くから薬師の姫の声は聞こえた。薬師の姫は寝台の逆側に立って、噴き出す血とも膿とも、崩れていく肉ともつかぬモノをぬぐっている。ひどい腐臭がした。
頭部も顔も分厚い包帯が巻かれている。わずかに露出している目も瞼がただれ、膨れ上がっていて、唇も焼け落ちている…としか見えなかった。
辛うじて右腕だけが無傷だったが、左足から左半身は潰れているのか平たかった。服はもう着せられなくて、布が巻き付けられているが、真っ黒な液体が染み続けている。
ありていに言えば即死じゃないのが不思議というか、なんで生きていられるのかという状態だ。
口元に置いた鏡が、思い出したように曇る。
「恐らくは、亖剣の二を保持しているからだと思う。」
盾になったのだ、と王子----いや、国王はきつくきつくこぶしを握った。
「『遠海』軍・・・いや、結果的に『凪原』王都にいた全員を護った。」
「----だけではないな。」
不意に声が割り込んだ。この場にいなかった男が、当然の顔で枕辺に立っていた。
「あのまま、≪梯子》を発動させていたなら、今頃この花陸は海の底、いや海の砂? または大気の一部となり、衝撃の大津波は蒼苑海を越えて、他花陸に押し寄せて、多大な被害をもたらしたろう。本人は、とっさにお前たちを護っただけだろうが。」
尊いことだ、と淡々と言葉をつむぐ«父»を、涙があふれたままの瞳で、きっと見上げた。
「助からないの!?」
「どうして助かると思える? なんとか人の形を保っているだけだ。二剣のせいで、死ぬこともできない。」
僥倖ではなく、呪いなのか、と国王はぎり、と奥歯を鳴らす。
「----死なせてやれるのか?」
「ライヴァートさま!?」
諦めるのか、とカノンシェルが悲鳴のように国王を呼ぶ。
「さて、」
父は、こてん、と首を傾げた。研究対象を見るような目が気に食わない。
「普通は保持者であろうと死ぬときは死ぬんだ。剣は剣。無理矢理生かしたりはできない。彼がこの状態で命を保っているのなら、それは剣主の意志あって・・・だろう。」
少女は青年を見た。微かに曇る鏡と、触れている指先がまだ生者の弾力を持っていること唇を噛んで、再び父と、そして薬師の姫を見る。
「尋常の傷ではない。」
界魔や界獣の傷には、特殊な薬草を用いるか綺を使った処置が確立されており、彼女はその第一人者だ。その彼女が首を横に振って、治癒の可能性を否定した。
「じゃあ、ずっと、このままだとでも・・」
痛みを感じているのか知るすべはないが、そうだとしたら耐えられない。
文字通りの、生きる屍・・・、
「・・・、いやだ、そんなの。」
呟いて、ふと目が合った。父、と。同じ色の瞳だ、とぼんやり思った。
「希うか。」
同色の瞳が、確かに光った。
「助けたいと。」
「手はない、と。」
「このままでは、な。」
唇の端が上がる。きっと、人の運命を決める神は、こんな意地悪な顔をしているに違いない。
幼い記憶が揺れる。ほしいものを、ほしいままに口にして、叶わないことはなかった。決められたおやつ以外の焼き菓子だったり、内緒のお出かけだったり、肩車や馬への同乗だったり、些細なもので----甘やかしすぎ、と怒るのは母で。
娘が喜ぶのを見ていた父の記憶は、静かに遠ざかる。このひとは、なにかを楽しんでいる。
「お前が、希うのなら。」
いつか聞いたことがある、気がした。が、いまはそれを思い煩う時ではない。この、気紛れな神(あるいは悪魔)の興味を反らしてはいけない。
「希うわ。エヴィ、…エアルヴィーンを還して。髪の一筋、指の一本まで元通りに。」
悪魔への願い方を間違えてはならない。童話を思い出しながら、少女は必死に言葉を紡ぐ。
生き返らせて、とただ頼んだら、傷も欠損も腐敗も、そのままだった。
「私たちを覚えている、私たちの覚えている、エアルヴィーンを戻して。」
「賢しいな。わたしに似たのか、義父どのの血か。」
低く笑った。機嫌は悪くなさそうだ。
「では、代償は? その希いのために、おまえは何を支払う?」
きた、と思う。
次に生まれてくるものと引き換えに、と言ったら、犬の子のつもりが我が子だった。
「…彼が悲しまないものならば。」
父----男は傲然と居合わせる旅の仲間を見渡した。
「一人分の覚悟では足りぬな。この者が生きる運命を与える決断を、だれが引き受ける?」
「私、」
「おれが、」
「わたくし、」
「僕、」
視線が集う。
「迷いなしか。」
恐れ入った、と上機嫌に男は言った。
「この事例もなかなか興味深い。」
男は虚空に手を伸ばし、何もないところから抜き身の剣を一振りつかみ取った。
皓く発光する刀身。
「白…剣?」
喪われた剣。
男は無造作に青年に向かって、それを放り投げた。瀕死のけが人に何を、と抗議の声は、青年の右と左の腕が朱と黒の光を放ったことに止められた。白剣は、欠損した(と思われる)左半身にずふずぶと埋まっていく。
ことは、それで終わりではなく、
「----来たな、」
また突然、勢いよく現れたものを掴む仕草で、男は今度は蒼い剣を手にする。ひときわ強く主張する剣を、これまた無造作に青年に放る。
「【律は溶けよ、律は解けよ、律を繋げよ、律を調えよ、新たな律と在れ】」
古聖語とともに、白と蒼からは激しく、朱と玄からはちろちろと、糸のような光が溢れて、青年に巻き付いていった。
息を飲んで見守る一同の前で、巨大な繭玉が出来上がる。
「【かくして律を為せ】」
喪われた二剣を身を宿し、亖剣を保持するという新しい理のもとで、青年の死は覆された。
この後、部屋から追い出されて、翌日、「希った通り」の「元のまま」姿に寝台に眠る青年を前に、カノンシェルは「ありがとう」と言ったが、悪魔はやはり不親切であった。
自分たちが(青年も含めて)いかなる代償を支払わされるのか、男から言及はなかった。少なくともカノンシェルは聞いていない。
謎かけのような、古聖語だけが胸に刺さっている。
「この島は----、」
静かに目を上げた。
ひとには知られぬ時間を描くというなら。
「ひとの世界ではありません。それでも、レオニーナさまは進まれるのですか?」
ええ、とこちらも凪いだ目だ。
「わたくしは、行くわ。」
あってはならぬ絵を見て、少女は立ち止まるべきと唱え、彼女は進むのみ、と告げる。
割符を一つ、テーブルの上に置いた。
「わたくしたちの戻りの船は、最後の時間に出る。わたくしがもし戻なければ、待たずに乗りなさい。」




