31 明けぬれば
古聖語は、シンラが残した力ある言葉、とされている。
昔、むかしは、御前会議や元首会談は、古聖語で行われていたという…が、いまはもう、難解すぎるという共通認識のもと、挨拶は古聖語で、あとは普通に…という具合で、〈聞く〉〈話す〉に関してはほぼ死語に近い。ただし、雰囲気を重んじる儀式は(定型な〉古聖語で執り行われ、法令原本は古聖語で書かれるし、国家間で取り交わされる文書は古聖語で記されるから、まだまだ上級貴(綺)族の必須教養とされている。上級貴族としての矜持がそこにあるかも知れなかったが、それでも大方は片言どまり、だと、城勤めの長かったフォガサ夫人は知っている。
一般庶民にはシンラ語と呼ばれて認識はされていても、記号にしか見えず使用目的もないから、わざわざ習得を目指す者も手段もない。
古聖語浄書を行う部署もあるが、特性のある文官が集められるだけで、養成機関ではない。
つまり、生まれ以外で、古聖語を身に付ける理由と機会はないのだ。
なら----これはいったいどういうことだろう?
片言程度ではない。整った字形と流ちょうな文字列。下級に近い中級貴族の夫人は習得に縁はなかったが、立場上、文書や古書を見る機会は幾度もあった。そのどれよりも、整った文面だ。裏紙でも。
少女はじっと書面を見つめていた。彼女もまだ習得を始めていなかったから、読めるわけではない。
静かに、何かを見定めるように顔をあげ、一歩前に踏み出した。そして、膝を深く折って正式な礼を取ったのだ。
「御機嫌よう。わたくしは、『遠海』の先の国王にしてサクレ大公クロムダートの一子リーシェリーヌの子、カノンシェルと申します。あなた様のお名をお教え願いますか?」
美しい姿勢だ、と夫人はその成長に感慨深いが、まるで自分より目上の相手に対する態度は咎めようと半身を乗り出し、
「ご丁寧に。御令嬢。」
しかし、青年の動きがそれを制した。微笑を刷き流れるように少女の片手をすくいあげて、口元に寄せる。触れはしない。きちんと作法を仕込まれた動きだと分かった。
「わたしは、先の朱公アルセゼールの次子、エアルヴィーンと申します。はじめまして。」
伏せた目を上げた。瞳の奥で、朱い光が炎のように揺らめいている。それが、なんのしるし、か知っている。
夫人は顎を落として、腰を抜かさんばかりだが、少女はすとん、と腑に落ちていた。
「今代の朱公でいらっしゃいましたのね。」
「不肖ながら。」
悪戯っぽく、青年は笑った。
青年は全部を語った訳ではなかったけれど、誰より先に明かしてくれたことは、初めて共犯者になれたようで、ずっとカノンシェルの心を温め続けている。
「まだ誰にも内緒だぞ? 査問会で壮大にばらしてやることにするから。」
そうして、長かった夜を青年は終わらせてくれたのだ。
いま、一つの夜が終わり、想像もつかない一日が始まるという。
ひとり、カノンシェルは夜の向こうに目を凝らしている。
風はなかった。凪いだ黒い海面から、規則的な波音があがってくる。
少しずつ、少しずつ水平線に色がついて、海と空を区分けていく。太陽が微睡む位置から陽炎のような揺らめきが立って----。
そして。
今日最初の一光が、空と海へと伸びた。
風が吹く。
海から吹き寄せる激しい風。目を開けていられないほどだ。港の方からは高波を浴びたのか、悲鳴が千切れながら運ばれてくる。
そういうものだと知らされていたから、手で庇を作りながら何とか耐えていた。必死な一同の中でレオニーナだけが、さすが船乗りというべきなのか、マストから海を見下ろすように、背筋を伸ばして起立していた。
挑むような眼差しと、薄く笑みを刻む口元と----。
風は吹きすぎ、明るさが広がっていく海上に、忽然とひとつの島が浮かび上がっていた。
九九九九日ぶりの、「綿津見島」に、大きな歓呼の声が曙光の中で轟いた。




