29 暁ばかり
夜明けが怖い、と思うのはいつ以来だろう。
湾を遮るものなく見下ろせるバルコニー。レオニーナは、この景色が見たくて、この館を買ったのだと言った。大勢の人が息を飲んで夜明けの一光を待っている。ちょっと前までは、湾岸の方から賑やかな声や音楽が風に乗って昇ってきていたのだが、いまはすっかり静まり返っていた。申し合わせなのか、守備塔の燈火を残して、家の明かりは勿論、あまた燃やされていた灯がすっかり消されて、街は深い深い闇の底にある。
闇が一番深くなるのは夜明け前だと誰かが言っていた----その闇の底で、一番身を縮こませて、一日が始まってしまうことを恐れていたのは、あの日々だろうか。
『夏野』の王都には、ひと月近く滞在した。
『凪原』の魔人に攫われたところを、時機は『遠海』にあると見取った『夏野』が打算と利益をもとに奪取して、両国は袂を分かった。縁戚関係が強く、開戦当初からほぼ『凪原』方だった『夏野』が、辛うじて戦勝国の顔ができるのは、この一事をもってである。
助けてもらったこと自体は感謝するが----攫われてしまった己の不甲斐なさも、その後の成り行きも、カノンシェルにとっては不本意極まりない。
王女(当時は正式には公女)を保護して『遠海』に恩を売る----に留まらず、王都に連行した。名目上は、安全な場所への移動だが、戦後の『遠海』へ干渉したいという老獪、または厚顔無恥な所業である。掌を返してすり寄ったかと思えば、傀儡政権を画策する。----それが為政者の真骨頂というモノかもしれないが。
とにかく、若い王(王子)と成り上がりの側近(特にヴォルゼ・ハーク)を軽んじていた。
『遠海』も、王都を解放したばかり。『凪原』への進軍準備もしながら、国内の把握統制もしなくてはらない。その中で、幾度となく使者が『夏野』を訪れて、王女の帰還を求めたが、「御国がもう少し落ち着いてから」とか「幼い方にはまだ刺激が強すぎるのでは」とか、のらりくらりと交わされたらしい。らしい、というのは伝えられていなかったからだ。
途中を巧妙に書き換えられた手紙が届いていた。もう少し待ってほしい、もうしばらくお世話になっていなさい、というもので、落胆しながら、待っていた。
----が。
「迎えに来た。」
あんまりな登場だった、と後々まで、フォガサ夫人は恨み言を言っていた。
「いくら四階でも施錠しないのは不用心だ。」
と、苦言を呈する青年がだれだか、ようやく認めて、ふたりは飛び出しかけた心臓を服の上から押さえて、目を見かわした。
悲鳴を上げられぬほどの衝撃は、幸いしたけれど。
「…登って、きたの?」
そう、ここは四階で、バルコニーもない。垂直の壁である。
「三階の窓から、まあ、懸垂の要領だ。」
わりと常識的な方法…たぶん?
「----そう、ここは四階で、窓は入り口ではありませんよ。しかも、こんな時分に、お嬢様の部屋を突然訪ねるなど! 弁えなさい。」
「お元気そうで何よりだ、フォガサ夫人。『夏野』からのたよりでは、枕も上がらぬほどの重態で、どうにも動かせない。カノンシェル姫は夫人を置いて帰国するのを拒んでいる、とあったので。」
「----まあ、」
夫人は目を瞠り、
「お嬢様、申し訳ございません。わたしの浅慮が、まさかそのように使われていたとは、」
一緒に攫われて、一緒に救助された。そして、 王都に----王城内の離宮の一つに強制的に招かれたときに、この芝居を始めることにした。
「いいのよ、ばあや。だって、そうじゃなかったら、もうすっかり引き離されていたわ。」
ばあやが具合が悪いのに、そんなところに行けません。ばあやのことを思うと、悲しすぎて。今日は本当にもうダメかも知れないから、お断りします。等々。
体を悪くしたフォガサ夫人が心配で付き添っていたい、と引っ込み思案で、お誘いを、断って躱していたのだ。なまじ外見が幼いから、悲し気に俯いて見せれば、甘えたがりな、継承権がにわかに高くなっただけの、所詮は田舎育ちの幼い娘だと、と侮ってくれて助かった。
怖かったのは、なら、と夫人が排除されてしまうことだったが、夫人がその時は喪に服す、というのです、と押し切った。『遠海』が手をこまねいていることはないから、綱渡りでもなんとか凌げば、と信頼感が支えだった。
「なるほど。」
短いやりとりで、青年は状況を把握したらしかった。えらい、とぽん、と少女の頭を撫ぜる。
「賢くやったな。しかし子ども相手に、ほんとえげつない。」
「それで、どういうことです?」
寝台から降りた夫人が、背筋を伸ばして傭兵を睨みつけた。
「こんな非常識な訪問の理由は、なに?」
「お静かに、夫人。言われる通り、忍び込んでいるので。」
音がするからだろう。腰に剣はなく、灰色のシャツと黒いズボン、という軽装。
「使者はかなり送ったんだが、全く合わせてもらえず、」
「…手紙だけ届いてました。もう少し、『夏野』で待ってほしい、という内容ばかりの。」
「そんな手紙は一通も送っていない。」
「やっぱり…、」
予想通りであったことに、溜息をついた。
「埒があかないので、今日は強行突破したわけだ。」
「どこから?」
「ん?」
「ヴォルゼ・ハークが来たら隠すと思うけれど、さすがにざわめきを抑えきれないと思う。でも、とても静かだわ。」
「いい着眼点だ。」
また頭を撫ぜる。
「はじめから、だ。こっそり来てるから、こっそり出るぞ?」
「え?」
カノンシェルは窓を見た。
こっそり、あそこから来たが、帰りもそうなのだろうか。
「スカートは抱えにくいから、乗馬服はあるか?」
「おまえ、お嬢様を窓から出すつもりなの!?」
「だから、お静かに、夫人。あそこだけです、ちょっとたいへんなのは。あとは、四半時くらい普通に歩いてもらうだけ。この離宮なのは、不幸中の幸いだった。」
「城門の外に馬を用意しているの? 」
これは、ごく普通の質問だった。
カノンシェルは乗馬は習得しているが、まだ身長が十分ではないから、ポニーでないと難しい。そして、ポニーではいざという時の速度が足りない。だが、そんなことは青年は百も承知のはずだ。無理を言う人ではないし、傭兵の彼が得意とする少人数の微行の策があるのだろう、と単純に思っていた----まだ
青年は移動方法は語らず、準備についてさらに言及した。
「置き手紙をしようか。文面は、お世話になりました。迎えがきたので帰ることになりました、で十分か。」
手紙を書くくらいはなんてことはないが、改めて、こっそりいなくなっていいものだろうか。そも、抜け出せるのか?と不安を抱える。
「『夏野』はカノンを決して帰国させたくない。見つけたら、何としても引き留めて、なかったことにするだろう。」
ぞっとする話だが、不当に引き留められていたのは事実だから、捕まったら、深く籠められてしまうに違いなかった。
「逃げ切っても----表向きには、『夏野』は『遠海』の王族を敵から奪還し、保護し、王城に迎えて丁重にもてなしている。なのに、一言の礼もなく、黙っていなくなったら、どういう反応になると思う? 好意を無にされた、面子を潰された、と出てくる。開戦案件だ。」
「じゃあ、どうするの? ここを出るんじゃないの?」
絶望的な気持ちになってくるのに、青年はにやりと笑った。
「だから手紙。」
やけに自信たっぷりだが。
「えーと、」
そんなもので納得する、もの、だろうか?
ぱちぱちと瞬いている主人に代わって、腹に力を入れた夫人が問うた。
「お前は、いずれの方法で『夏野』にまかり越したか、はっきり申し述べなさい! それはお前だけではなく、ちゃんとお嬢様を恙なく連れていけるものなのでしょうね!?」
「勝算なく、乗り込んだりはしませんよ。」
愛想よく笑ったけれど、継がれた言葉に頷く気にはなれなかった。
「《シンラの門》を開けて、つないであります。」
過去話が続きます。




