12 婚姻の鐘は鳴っている
それはまさしく白い階段、だった。世にいう≪白い階段》はガレシ領の奥まったところにある景勝地を指すが。
もとはただの階段型の噴水(ここでは温水)設備だが、温泉に含有される石灰質が堆積して、一見鍾乳石のような風情が出ている。もっとも完全に自然な状態ではなく、噴出元は詰まり防止で定期的に清掃されていて、鍾乳石もどきも程よく形を整えられていると分かる。
以前に目にした《白い階段》の風景画は、広大で荒々しかったが、この小さな階段の、人工と自然が入り混じった象に奇妙に心は攫われた。
最初は、茶房から出てきた全員で見上げていたのだが、三々五々と興味のある方に散らばっていった。今はシェールだけである。一人だが、人目が切れたわけではない。各々散策している騎士たちの目が、自分から決して離されないことを分かっている。『真白き林檎の花の都』にいる間は忘れていた感覚で、少し戸惑う気持ちはあるが、この階段の上から下に水が次々と流れて、下の泉の部分に流れ込むように、こんなものだ、という感覚も自分の中に入ってくる。『真白き林檎の花の都』が特別なだけで、生まれてからずっと----死ぬまでずっと、それが自分の当たり前だ。
泉の部分に手を差し入れてみる。落ちてくる間にかなり温まるのだろうが、季節のせいもあってまだ十分に温かかった。
乳白色の温水をゆっくりかき回す。投げ入れられているハ―ヴが揺られて、香りが強くなった。
レージ家も温泉をひいていた。夫人の好みらしい、モザイクタイルが美しい浴室だった。源湯のままだと内装か傷むということで、かなり薄めて沸かし直しているのは惜しかった。
露店風呂、というか、自然風呂にも結構入ったな、と思い出す。疲れた体に、ものすごいご褒美だった。ただの川の水でも、さっぱりという観点からはありがたかったが。
「よろしいこと? その茂みから一歩でもこちらにお入りになったら、」
「お、鱶のエサか?」
男性陣を信頼しても、釘は刺すのが礼儀だそうだ。
「そんな手間ばかりで何の利益にもならないことを、どうしてしなくてはなりませんの。わたくしの船の船底で、一生陽の目も見せずに働いてもらうだけですわ。」
鈴を振るような、可憐な笑い声が耳奥に甦った。
懐かしい旅の一幕だ。
「レオニーナさま、お元気かな…?」
「----なんで温泉に手を突っ込んで、懐かしがるのが彼女なんだ?」
白い水面にぼんやりと影が映る。慌てて振り仰ぐと、全く不可解だという顔をした、自分の夫が立っていた。
カティヌは手提げから小さな帳面を取り出して、気になる建物の装飾などを片端から描写していた。絵心がないのが、こういう時には悔しすぎるが仕方ない。
茶房を出たところで、すかさず近づいてきたカルローグ卿が服飾店に誘ってくれたのだが、目の前を優先した。
「あなたはとても真面目なかたなのだな。」
「もう趣味ではなく、仕事ですから。」
からくり時計が出てくるあたりの装飾----どんな気持ちで見上げるだろう。だれが、だれと、に合う?
現景を通して、自分の中の虚景を汲み上げていく。
忠実に傍に付き添っているカルローグの、おもしろくてたまらないといった顔に気づかない。
どういう成り行きなのか、一緒に退店することになった。ルトゥナを追いかけられるより、留まってもらった方がいい…のだろうか。
----人目がいたい。
「----では御機嫌よう、」
と、別れの挨拶もしたのだが、何故か動かない。身分の下の方から去るわけにはいかないから、にっこりを貼り付けながら、ある、と評判の目力で訴えてみた。----目力の評判は相手が上だから、期待は薄い。
「リエンヌ嬢の馬車はどこに?」
「迎えの時間は決めてあるので、」
指を鳴らす、いや視線一つで呼びつけられる人には想像しがたいだろうが。
「広場の方の服飾店に行こうと思っています。」
「そうか、」
よし、では行ってくれと巾着の取っ手を握りしめた。
「では送ろう。」
「は? …いいえ、とんでもない!」
「うら若い女性を一人歩きさせるわけにはいかないだろう。」
紳士然と言うが、そも、連れを追い払ったのは誰だ。
「陛下の御威光が行きわたり、真昼間の目抜き通りには何の危険もございませんわ。閣下のお時間をこれ以上いただくわけには、」
「あなたに取られたとは思っていない。これはただの偶然、なのだろう?」
仕組んだ覚えがあるリエンヌは背に汗をかくが、表面上はつつましく目を伏せた。
「…お言葉に甘えます。」
他に台詞はない。
広場に続く道の、ずっと向こうから、からくり時計の賑やかな音楽が風に乗って届く。少なくともあそこまで一緒だ。わりと長い。
「----何、心配することはない。独身の若い男ならばともかく、こちらは立派な既婚者だ。妻の友人のエスコート役として相応だろう?」
その結婚の事実こそ、この物語の果てに、自分と彼を破滅させるものだ。
既に鳴って「いる」の意でした。
次回、舞台は「仙桜」に戻ります。




