「真白き林檎の花の都」3
其の時、空は砕け、地に降り注いだ。
風は狂気を帯び、海は牙をむき出して襲いかかり、大地を呑み込んだ。
『創世神話』より
凍えた指先に息を吹きかけて、灰色の空を仰いだ。梢に枠どられた空から渦を巻くように落ちてくる雪に、不機嫌そうに眉をひそめる。
蒼牙大山脈から吹き降ろされ、音無の森の上空を駆けて行く風の音に鳥肌が立つ。
もう随分と見慣れた耳慣れた厳冬の姿であるはずなのに、心がざわざわと落ち着かない。
滝までの予定で出てきたのだが----まだ心もとない薬草籠を抱えなおし、背負った弓と腰の短剣に、確かめるように指を触れさせて、雪上につま先のむきの逆の足跡をつけ始める。
虫の予感、なんて格好の良いものではない、と思うのだけど。
妙に緊張してしまった肩をほぐすように、息を吐き出した瞬間。
上空から風の塊が落ちてきた。
若木は根こそぎ吹き飛ばされ、へし折られた枝が大地を叩く。逆に厚く降り積もった雪は巻き上げられ、視界を白く煙らせた。
交差する枝と氷から身を庇って身を丸く屈め、ぎゅっと目を閉じた。
いつ、何が起きるか分からない。
一晩で、何もかもが変わってしまった秋の夜から、もう何度も身に染みてきたはずなのに。また、何かが起きようとしている。また、何かを喪う《《しるし》》か。
祖父、父、侍女たちやたくさんの城の人、街の人。
母、騎士たち。
----たぶん、これから、フォガサ夫人。
どれくらいの時間だったのか。風が落ちつき、また静けさが返ってきた。ただ、目を開けるのは怖かった。荒くなっている、自分の息の音を聞いていた。
「どういう、仕組みだって!?」
「おれに聞いて答えが出てくると思ってんのか!?」
「動かしてみたのは、お前だろ!」
「動かす以外の選択肢があったか!?」
賑やか、というより姦しい。ぎょっとして、慌てて目を開けた。真っ白になった服や髪から、雪を払い落しながら、言い合っている青年二人。重そうなマント、がっしりとした長靴、革の軽鎧《胸当て》、そして剣を佩いている。兵士? 傭兵?
追っ手だろうか。と、がくがく、と身体が震えだす。同時に、白い、冷たい母の掌と、自分を見据えた、眼底から光るような毅い双眸が脳裏に浮かぶ。
生き抜かなければ、ならない。
なんの為に、かは、まだ幼い彼女には分からない。だが、それを願う人たちがいた、ことを知っている。そのために、いなくなった生命が忘れられない。
蹲ったまま、じりじり後ずさる。
「なんだったんだ!? あの妙な生き物は!? 知り合いか!?」
「はあ!? 俺は、まっとうな傭兵なんで! どっちかつーと、あんたが呼び寄せたんじゃないか? 王子様!」
「お前の顔を、まじまじと見てたじゃないか。兄がいるか、とか聞いてたよな?」
「俺に兄がいたとしても、あんな生き物と知り合いにはならん!」
どうか、そのまま罵り合っていてほしい。雪の冷たさはもう感じていなかった。もう少し下がれば、大きな灌木の中に入れる。
しかし、頭上に影が差した。見つかった。のろのろと顔を上げる。
「やあ、ちびちゃん。このへんの子かな?」
ぽかん、とした。屈みこんで、見下ろしてくる若い男。ごく穏やかに話しかけてきたが、人とは思えぬ、
「----へんな髪、」
ぼそっと、つい口をついた。人の容姿をとやかく言うものではない、と言いつけられて育ったけれど、異常事態の中、心中がそのまま言葉になってしまった。
恐ろしく率直な評価に彼はバツの悪そうな顔をし、後ろのもう一人は噴き出した。
----これが、出会い。
「----どうした?」
「甘藍みたいな色だったな、と思い出してた。」
芽甘藍のクリーム煮を前にした会話である。
「いつだよ?」
現在の髪色はというと、ごく普通の鳶色だ。----地色ではないが。
「最初、」
「最初?」
「ライ様とエヴィが、私の前に落ちて来た時、」
「あれな、」
湯気の向こうでふんわり微笑む。
あの頃には思いも描けなかった穏やかな時間がここにある。まだ、総てが収まった訳ではないと分かっているけれど。
偶然でも必然でも、とにかく彼らと巡り合えた。彼らが、衰弱していくフォガサ夫人のための薬を探しに行ってくれて、マシェリカと出会えたから、夫人はいまも元気で隠居生活を送っている。
パンは食べていたが、食べ盛りである。甘辛く似た鳥肉とマヨネーズで和えたたまごのサンドイッチも美味しく食べた。デザートには、果物で飾ったプリンと紅茶が運ばれてくる。
少しの昔話と、彼女はたわいもない学校生活話をして、青年に義妹が生まれた話と義父の新店準備がもうすぐ調うことを聞いた。
たわいのない、話ばかりだった。いつ本題がくるのだろう、と身構えていたのだが、
「元気そうで良かった。」
と、青年は話を括ろうとしたから、
「え?」
思わず、音をたててカップを置いてしまった。
「何か、大変なことがあっていらしたのではないの?」
「元気で、恙ないのだろう? なら、いい。」
にこ、と爽やかに微笑むから、さらに狼狽してしまった。
----こんな、突拍子もなく現れたのに、本当に、ただ様子を見にきた、だけ?
信じきれないとばかりの目に、青年は苦笑いを浮かべた。
「変わりなく元気かを、自分の目で確かめたかっただけだ----後見人だぞ、俺は。表立っては来れないから、小細工はしたが。」
テーブルの上で組んでいる彼の左の薬指には、指輪がある。少女が鎖に通して、首にかけている指輪と同じもの。確かな拠り所の証であり、義務と責任のしるしである。
「いいな、と思う相手を決めたら、すぐに連絡をくれ。親が決めた婚約者がいるくらいなら、何としても捕まえてやるから。」
だから、真顔でそんなことを言うのだ。青年はただただ真摯である。
「…そんな、悪役令嬢みたいなことを、」
「なんだって?」
つい口をついた専門用語に、彼は首を傾げた。彼も彼の周囲も少女小説なんで読まないだろうし、そも、知らないジャンルかも知れない。
「えーと、…若者言葉の一種…?」
わかもの、とわざとらしく胸を押さえてみせる彼を軽く睨むようにして言う。
「とにかく、そういうのは要らないってこと!」
「…おじさんは、いくらでもお節介してやりたいんだから、遠慮はするな? さすがに、『夏野』と言われたら、かなりの政治力がいるから、早めにな?」
「だから、要らないの!」
「反抗期かな、」
と大真面目に呟くのに、正直、青筋が立った。
まさか、面と向かって、そう言うか!?
思い出した。優しいし、気遣ってくれて、いつでも護ってくれた。だけど! 前提が、子どもだから。いや、確かに子どもだったし、年はけっこう下で、追いつけるものではないけれど!?
暫く離れて、美化していた。無神経さが健在だ。
と、いうことで何となく憮然としたまま、お別れとなった。青年は王都に行く途中だったのだという(どんな行程だ。)
「ライに伝えることは?」
「頑張っております、と。」
大人らしく言ったのに、微笑ましそうに頷くのに、かちかち、きてしまう。
「では、御機嫌よう!」
数歩、行きかけて、ぐっと掌を握った。踵を返して、どうした?という顔の青年の手に、手巾入りの手紙を押し付ける。後は、公園入口まで殆ど駆け足の速度だった。
直接話ができたのだから、渡さなくても良かった----でも、せっかく準備したのだから。どんな顔で受け取ってくれるか、想像していたから。
来し方を振り返る。勿論、もう店は遥か彼方だし、追いかけてくる理由もない。昼時が近づいて、知らない人たちだけが道を行き交う。
次に会うのはいつだろうか。ほぼ3年ぶり、だった。再た3年後だろうか? それなら。シャツの上から、指輪を握りこんだ。これを棄てる時ということか。
「----なんて、無神経、」
形ばかりの、白い結婚とはいえ、仮にも現在進行形の妻に、別れる日を指折り数えて待っている、と言っているのに等しい台詞を吐くなんて…。
----なんて、優しい。
自分との関係は、ない、もの。気に留めるな、という青年の立場は、変わらない。変わらない、と告げていった。
あと、3年。
それは長いのだろうか、短いのだろうか。じゃあ、力を貸してよ、と笑って言える、彼を、捨てられる大人になるためには。
この話で、「港街編」は終了です。
次章から「綿津見編」です。よろしくお願いします。




