「冥府の渡し守亭」6
東ラジェのかたちは、ざっくり五角形で、港の部分が抉れている。
港湾に沿うように運河が掘られ、その丁度中央から東門に向けて延びて、市街を二分する。
南側が庶民が中心の下町で、北側が大手商店や高級住宅地である。その中心に総督府があり、各国の公邸も立ち並ぶ。
『冥府の渡し守』亭は、市場の裏手に位置する小路の一つに在る。北側に道を辿れば、運河にぶつかる。北地区に渡るには、運河沿いにやや東門方面に向かい、橋を渡れば良い。
人波を縫いながら、その橋のたもとにたどり着いたレイドリックは、渡り始めようとして、急いていた足を留めた。
綺と名乗れるほどではないが、貴族の端に生まれ、騎士として生きてきた。そして、『凪原』戦役に従軍し、いまは『暁』に総督の最側近のひとりとして所属する。
人によってとらえ方は違うが、レイドリックは首筋に、雪の早朝に抜いた短剣を当てられた感じだ。つまり、殺気と冷気だ。
人波からゆっくり身を引きながら、レイドリックは、東側を見やる。天院の尖塔が、星明りに見えた。
どの程度かの判断材料はないが、まさか東ラジェの天院がそうお粗末とは思いたくない。
ちらほらと、だが確実に足を止める者が増えていく。
商人と船乗りと、傭兵の街だ。現役もさることながら、ガイツのように引退した後、他の生業に付いている年配者も相当数いる。
肌に染みた気配だろう。
誰ともなく、互いに目を合わせ、|なにが始まったのかと不審そうな人々《一般人》を橋周辺から追い立てて、通行を制限する。権限は何もないが、大手が社会協力の一環として、持ち回りで団員を派遣して自警団運営を行っていることで、ある程度信頼して指示を受けてくれる。
「罅、だといいが、」
隣り合わせた、いかにもベテランという感じの男が話しかけてきた。居合わせた傭兵達の反応で、一目置かれる存在である、と判断した。リドラッドや青年ではないので、生憎、レイドリックにはそれ以上は分からない。 それは、相手も同様だったようで、
「えっと、騎士さん、だよな?」
「レイドリックという。」
「おう、おれはセオン。所属は≪漆黒の奏手≫の副長をしている。」
「私は『暁』だ。」
ヒュー、と驚きの口笛が複数上がった。こういう場合、互いがどれくらい戦力になるか明らかにしておかねばならない。
「そりゃ、心強い。」
「『暁』は巷間の噂より、ずっと安定しているんだが、」
玄人《慣れている》!みたいな目は困る。
「しかし、『凪原』…旧凪原は、あちこちでヤバい目に遭った話ばかりでな。っと、こんな世間話をしてる場合ではないな。どう思われる?」
この街の夜は明るく、導べ星の幾つかが存在を発揮しているくらいだが、それは見上げて見えるものではない。もやっとした不愉快さを、場数を踏んで、分かっていくのが普通だ。
「落、までいかねばいいが。」
天院の、壱の鐘が、けたたましくなり始めた。東ラジェの天院ともなれば、さすがに視る者が常駐している、という証だ。
「綺水か綺石を所持しているか?」
「仕事帰りだからな。」
商団護衛装備のままというなら問題はない。セオンの仲間以外に、声をかける。
「ここに残るつもりで、手持ちがなければ申し出ろ。多少は所持っている。」
慌てて駆け寄ってきた数人に、腰のポーチから出した小袋ごと渡して分配を依頼する。
「あんたの分は?」
「不要だ。」
「へぇ、でも携帯しているとは抜かりがない。」
「----性分だ。」
半分くらいになって戻ってきた小袋をポーチにしまう。天院が、明明と篝火を灯し始めた。このあたりは、小中規模の傭兵団本部も多い。初動を抑えられれば、応援が期待できる。
「昔は街内で、など考えられなかったが。護衛に出れば、凪原方面は頻発しているし。」
剣の柄に綺石をはめながら、セオンはぼやいた。
「昔っても、たかが五、六年前か。戦こそ終わったが、世の中まだまだ、ヤな感じじゃないか?」
この世界において、界罅、界落という言葉はごく普通の事象である。
界罅とは文字通り、空に罅が入ること。小さな罅は自然治癒することも多いが、進行するとそこから裂けて、界落が引き起こされる。
界落は、別の界が降って来る現象だ。
人々は神話と目の前の事実から、こう理解している。
空に雲が流れるように、世界の外側には別の世界が無数に流れている。そこにはこの界とまったく違う生き物がそれぞれいる。そして、こちらの空とあちらの大地が擦れてしまった時、衝撃に耐え切れない場合に界罅や界落が引き起こされるのだと。
界罅の多くは気づかれぬまま自己修復するのだが、罅が進んで界落となった時は、惨劇が引き起こされる。
落ちてこられた方もだが、落ちてきた方も、悲劇だ。落界「物」は珍品と見なされ「収集」される一方、「異物」として「処理」される。落ちてきたモノは、界樹、界獣、界人、・・・この花陸世界のものの分類によって、近いものに寄せて名づけられるソレらは、突然、見も知らぬ世界にただ独り放り出され、狩られる立場になるのだ。
小型の犬だと思ったが、ふぅふぅと幾つか呼吸をしたと思ったら、瞬く間に子牛のように体が膨らんで、垂れた耳が角のようにねじり上がり、不揃いの牙をむき出した。
ぽつ、ぽつ、と、罅が異物を溢す。
「変容が早いな。」
落ちてきた距離が長いほど、世界の空気と馴染めない、…そうだ(例外はある)。
どことも知らぬところから、落ちてきているが、実際の見え方としては物理的に高所から降ってくる(こともあるが)訳ではなく、突然、目の前に現れる。罅の場合、擦り傷に血が滲む感じで、裂だと切り傷、落だと切り落とした出血の感じ(レイドリックの理解では)か。
このまま塞がってくれればいいが、この変容速度からすると期待薄だ。遠いということは、下に向けて放つ矢のように深く抉り落ちる、ということ。その穴を、ぼろぼろと土砂が崩れるように巻き込まれたモノが伝い落ち、溜まり、負荷に耐え切れなくなって、界が《《落ちる》》。
天院方面が賑やかになった。増援が到着したか、とそちらを見やって、視線が合った相手に、さすがに目を瞠った。あちらも目を疑う顔をした。
「お目にかかれて、恐縮でございます。」
(成りかけの)修羅場のさ中だが、きっちりと礼を取った。
「小シュレザーンが、このような場所で何をしている? 今宵は総督が晩餐に招いたと聞いておるぞ。」
やはり、足止めだったかと得心した。時間を奪う目的。着いた途端に、無作法なほどの早さで招待が届くわけだ。振り切って向かった青年はやはり慧眼だ。----現況は、さておき。
「今夜は公使が随行する予定ですので、わたしはそぞろ歩きを楽しんでおりました。アルクレスタ王弟殿下のお着きは明日と伺っておりました。」
同輩は置いてきて正解だった。道端で、他国の王族相手に腹芸りあう羽目になるとは。
「親睦を深める時間はいくらあってもいい。わたしも晩餐に参加できればと急いできたのだが----まさか、このような危急の事態に居合わせることになろうとは。」
『夏野』の王弟は、引き連れてきた一隊に手で指示を下した。護衛として三名が残り、後は対処に駆け込んでいく。近衛騎士と天官騎士の混成部隊だ。一気に戦力が上がる。
「そちらの到着も早かったではないか。」
「迅速は我らの行動理念の一つですので。」
厭なことを思い出させると眉が寄るのに、内心「ふん」と思うくらいに、遺恨はある。『遠海』としても、…個人的にも。なぜか、自ら駆けつけてきたが、ちょうど城門をくぐったところの報で、いい顔をするしかなかったに違いない、と思っている。
「----ところで、殿下。」
彼の肩越しに見えるセオンが、顔を顰めて、手を広げてこちらに合図を送っていた。
処理が滞っていないのは、対応人数が増えたためだ。なのに手が空かない。異物の出現速度と、数、何より範囲が拡がっているということだ。
「進言させていただいても?」
『夏野』は大国で、軍事力は侮れないが、界落現象に関しては、ラジェの傭兵と『暁』(『遠海』)の経験値に及ぶものでない。
「殿下の権限で、封鎖範囲を至急拡大していただきたい。」
いまは、見える範囲の人払いした程度だ。付近の建物内には、当然、人が留まっている。
「…なに?」
「界落の跡地はご覧になったことがあるかと思いますが、小規模なものでも、四方の木々をなぎ倒す、池の蒸発、崖崩れの誘発などの二次被害が起きます。このまま、もし落ちれば、家屋が飛ばされて多数の死傷者が出るおそれがあります。」
ここは花陸でもっとも賑わう街、東ラジェだ。
「一般人を避難させた上、綺力保持者、人数が足りなければ、綺石の扱いに慣れている者で、一帯を隙間がないようにぐるりと取り囲んで、落ちた瞬間を逃さず壁を作って抑える方法をお勧めします。周囲に被害が及びにくくなります。勿論、わたしもお手伝いいたします。」
息が合わないとか実力不足とか不均衡とかで、綻ぶことも多々あるが、この人海戦術は、総合評価が高い。同輩的表現だと安パイだそうだ。
「中心をそこだとして、川向うまでを円周とした方がよいでしょう。」
「大き、すぎるのではないか?」
王弟は界落に立ち合ったことなどないだろう。慄いた目で、罅(と思われる)を見遣る。
「少ない人数で囲むことも有りですが、狭い範囲に大きな力が入った場合、一人にかかる負担が増大します。吹き飛ばされるくらいなら、まあいいんですが。」
折れたり切れたり千切れたり。さらっと独り言ちる。「何」と言わぬが花だ。
「----御判断はお任せします。」
東ラジェは自治都市だが、『夏野』に属する。
青ざめて棒立ちになっている王弟には考える時間がいるだろう。あくまで肌感覚だが、切羽詰るまでには、まだ時がある。側近と検討すればいい。内政干渉はもってのほかだと、東ラジェに特に思い入れもないレイドリックは、押しはせず、場を辞した。
界落には力持つものの義務がある。立ち去ることなく、セオンらと合流する。行き掛けの駄賃よろしく、剣のように尖った長い耳を持つ、一抱えほどの生物を一刀で散らした。
「やっぱり手馴れておいでだな。」
「単純作業で済めば良かったんだが。」
「野っ原なら、落ちてちょっと荒れても問題ないからなあ。」
自分の身だけ守って、落ちきったモノを始末すればいい。傭兵の流儀《対応》も、『暁』も、基本は同じだ。ただ、例外は----、
ガン。音がした訳ではないが、そう表現したい圧倒的な綺が走って、罅から落ちたカゲは一瞬で霧散した。
「お帰還になりましたか。」
ほっと口の中で呟いた。無論戻ってくると信じていたが、やはり目の当たりにすると嬉しい。そして、この最中に青年が現れたことは、まさに天の配剤、ただただ頼もしく思えた。




