「真白き林檎の花の都」1
知識を得、人生を実らせよという理念を掲げた|『真白き林檎の花の都』《アヴァロン》。
花陸中から学生が集い、研究者が暮らす学都だ。各国の高位貴族、富裕層の子女は(年数に差はあれど)一度はこの地で学ぶことが、ステータスになっていた。そしてその彼らの殆どは、『宿り木』学院の男子部、女子部に入学する。この学生時代の友誼が国同士の外交に大きな影響をもたらした史実も多い。
『真白き林檎の花の都』は花陸のいずれの国家にも属さぬ自治都市でもあった。建前上は大国の皇太子も商人の息子も、島内では同じ学生として扱われた。学院の規則に従って生活することを誓約して入学する。誂えられた箱庭だからと分かっていても、卒業生の多くは自由な島内の暮らしを一生の宝物のように振り返っており、子らを同じように送り出してきた。
----過去形である。
建島以来の中立、花陸の権威に靡かない----例えば、お家騒動で逃げ込んできた若者の入学を拒んだり、島での学究に身を置く限り、引き渡したりしない----ことが、『真白き林檎の花の都』の権威を高め、独立を侵し難くし、卒業生が占める各国の上層部から重んじられる所以であったのに、あの『遠海ー凪原』戦役、いや≪白氷妃の擾乱≫時の指導部は、長い時間かけて紡いできた綾布を一時の恐怖に負けて、引き裂かれたぼろ布同然にした。
『凪原』の言い分を信じて、『遠海』の学生を引き渡し、一人残らず、という《《条件を全う》》させるため、狩鈴を携帯した狩人の入島を黙認したのだ。
虐殺に加担したに等しい。戦後、『遠海』の怒りは『凪原』に向かったのと同等であり、花陸全体の世論も『遠海』に同調した。
信なき場所に、どうして、大事な子女を預けられようか。
各国は自国の学生を引き上げさせ、有力な卒業生からの寄付も途絶えた。
自業自得ではある。失われなくても良かった命のことを思えば、当然の報いだ。
活気は失われ、自主的な謹慎状態に置かれて----数年。
島民、人生を学究に捧げた者、自国に戻れない者だけ----から、『遠海』の顔色を窺いつつ、ぐっと下がった入学条件に、利に敏い商人や機に聡い各国の下級貴族の子女が『宿り木』学院の席を埋めだした----『遠海』は聞かないが。
その『遠海』はいずれ自国に、安全で高度な新しい学び舎を建てる準備をしている、と|まことしやかに語られて《噂されて》いる。
慣例だから、と『宿り木』学院へ各国は子女を送っていたが、古の建島当初ならいざ知らず、学び舎を維持運営する人材もマニュアルも、いずれの国も既に備えているのだ。
上層部のやる気、が後は大いに関わるが、いまの『遠海』にそれを問うのは無意味すぎるだろう。
そして『遠海』に対抗意識の高い、もう一つの大国『夏野』も座視はすまい。
何にせよ、花陸唯一の学びの都、と自らを誇っていた時代は還らない。
終戦後、『遠海』が外交官を送ってきたのはただの一度。自国生の《《行方不明生徒》》の情報、遺品と見舞い金の受け取り----噂に聞く限り、淡々と進められたらしい。当時の上層部については、引き渡しを申し出たが、そっけなく「正しく、そちらで」と返されて、経緯と処分の報告書を申しつけられたという。
どの報告も、物言いはつくことなく、『遠海』はただ受け取るだけだ。返答は一切ないという。『凪原』に等しい怒りがあることが分かっているのに、沈黙は不気味だった。
許すとも許さぬとも告げぬ断罪者に、現上層部は慄いて、『白舞』や『夏野』をはじめとした諸国へつなぎを取って『遠海』の意向を何とか探れないか苦心しているというが、上向かぬ島の空気は芳しくないということであろう。
欠けたる日々は続いていくが----今日という日はやはり特別だ。
≪黄金の実の祭≫。一般的な言い方をすれば、収穫祭だ。島には一般的な畑はほぼないが、島名たる林檎の木は庭や街路によく植えられており、学問所もこぞって果樹園を設けている。
三日連続の休日になっていて、その中日が今日だ。学都の祭りらしく、若者が主役の一日。朝、天院に詣でて祝福を受け、その後は街に繰り出す。屋台や野外劇、大道芸に曲芸、ダンスの会場などなど。学生の年齢は様々だから、若年者はグループでわいわいと動くし、ちょっと年齢が上がれば、恋人同士で睦まじく見て回る姿も多々ある。
非日常の喧騒に満ちた島内で、日常に近い静けさを保つのは、全花陸でも並ぶものはない、と自負する図書館である。『真白き林檎の花の都』《アヴァロン》の始まりであり、心髄だ。
島の中央にあり、無秩序なほどに増築と改築を重ねて、蔵書を抱え込んでいるさまを、知の迷宮と揶揄されることもあるが、それはむしろ誇りである。
学生証(卒業証も可)で出入りは自由だし、パン屋の主人も宿屋の下働きでも登録証があれば閲覧は咎められることはなく、学生か教授の紹介があれば、遠来の客でも利用できる。だれにも等しく知を分け合う場所だ。
いつでも静かな活気に満ちているが、毎年、この期間だけは特別だ。
足音が数えられるほどに、在館者は限られる。だから職員も最小限で、いつも表では見かけないような年配者が、カウンターに居たりする。
シェ・エンは、今年の今日も、ひとり来館して、例年通り、風通しの良いテラス近くのテーブルに座っている少女を見やった。本気で書物を読む者は、奥の閲覧室を使う。広い中庭に向いた大きな窓と、テラスに続くガラス扉。明るく、開放的なこの区画は、軽い読み物や画集などが中心で、飲み物(蓋つき)の持ち込みや小声での会話も許されているから、日常的に、年若い学生たちで特に賑わっている。いわば、敷居を低くして、来館者を増やそうという区画である。
今年の今日も、シェ・エンと、彼女しかいない。シェ・エンは平時は、奥の閲覧室を使っているのだが、この日は、前もって借り出した本を持って、こちらに座を移している。
彼女----十代半ば。臙脂色を基調とした『宿り木』の制服。リボンの色は蒼。五年周期で色は固定だから、三年生。あまり読書は好まないらしい。流行の少女小説がテーブルには載っていたが、彼女が始めたのは、小さなバスケットから取り出した手巾への刺繡だ。
去年も、一昨年も、一日をそうして過ごしていった。
他の日に、彼女が図書館で過ごすことはない、ほぼ毎日、夕刻は図書館にいるシェ・エンが行きあったことがない。いつだったか、島の目抜き通りで『宿り木』学院の制服を纏った同年代の子女たちと、そぞろ歩いているのは見た。
つまり、出かける友達がいないわけでなく、ただ一日、この日だけ、一人で、図書館で過ごすのが、彼女の意志だということだ。
考えに気を取られて、見つめすぎていたらしい。手巾から顔を上げた少女と目が合ってしまった。別に後ろ暗いところがあるわけではないのに、何となくあたふたとした思いで、何とか目礼をすると、微笑みと会釈が返ってきた。
----また、来年まで思い煩うのも、なんだ。シェ・エンは、意を決した。手元に目を落として、机に手をついて勢いよく立ち上がる。
目を離したのは恐らく数秒。
「----え、」
少女の姿は消えていた。
姿だけではなく、彼女がテーブルに広げていた刺繍の道具も、バスケットも、本も、なにも、ない。
風に乗って聞こえてきていた、祭りの喧騒も、…聞こえない。
祭り? …祭りなど、開かれる筈がないだろう?
…が、…で、…になってしまった。もはや、…を…しか、…ない。
日が陰ったのか----先まで、晴天の明るい陽射しと柔らかな風があたりを満たしていたのに…いや、陽なんて、もうずっと見えていない。
手。自分の腕。すっかり骨ばって、かさついて。煤けた服。もう、これしかないから。ガランとした本棚。いや、本棚がない。机も、なにも。もう、ぜんぶ燃やされてしまった。みんな、持っていかれてしまった。暖を取るために。煮炊きのために。生きるために。生き延びるために。どうやったって、もう誰にも終わりしかないというのに、日々を薄汚く、這いずり回って。
ずっと、聞こえてくる遠雷のような音。少しずつ少しずつ、近く、大きくなっているそれ。
終焉の顎が…!!
「----大丈夫ですか?」
目の前で、光が弾けた---気がした。くらり、として慌てて、テーブルに手をつく。テーブル。
頬にさわやかに触れる風。遠くから、祭りの喧騒。晴天の陽射し。
心配そうに、自分を覗き込んでいる少女。
刺繍道具。バスケット。本。本棚。
「真っ青です。職員の方をお呼びしましょうか? 」
シェ・エンは、糸が切れたように椅子に座った。
手。見慣れた手。洗濯したてのシャツ。
心がふうっと揺れて、そして、どうしたんだろう、とシェ・エンは、小首を傾げた。何かに《《慄いた》》気がした、けれど…、かけらすらも、もう、すっかり溶けて。
「立ち眩みが、したようです…、」
陽射しがあまりに眩しかった、のだろう。普段、薄暗い研究室や書庫に居すぎるから。
「吃驚させて…申し訳ありません。」
「いいえ。」
少女は、何か思いついたようにさっと身を翻して自分の席に戻り、バスケットから取り出した何かを手に戻ってきた。
「よろしかったら、どうぞ召し上がってください。さっぱりしますわ。」
艶やかな蜜柑である。シェ・エンに一つ渡し、そしてもう一つを手に、少女はシェ・エンの真向いの椅子に腰を下ろし、柔らかく微笑んだ。想像していたよりずっと大人びた話し方をすることを知った。
「ちょっと早いですけれど、午前中のおやつにいたしません?」




