「翠炎城」4
「失敗った…ような気がする」
火鼠を置いた部屋の扉を閉めた青年は、ぼそりと呟いた。
「いまは、以前だから----これが、まさか原因とか…いや、だよなあ?」
やっちまった、と額を押さえて、そのままぐしゃりと髪の毛をかきあげた。
「、! 待てよ、ってことは、」
辺りの空気が動き出したのは、その時だった。慌ただしく、複数の足音が方々で入り乱れる気配に、二人は顔を見合わせた。
翌日までこちらで、と言われた部屋を断りなく出てきている。囚人ではないが、客人とも言い難い。
青年の決断は早かった。というか、腹はもう括っていたのだと思う。足音の一つに向かい、険しい表情でやってきた使用人と相対した。
「騒々しい様子だが、どうかしたのか?」
前置きのない尋ね方は、貴人のそれである。どう伝達されているかは分からないが、領主城の使用人は本能的なレベルで青年を「丁重」という枠に分類したようだった。青年に向かって丁寧な礼を向けた。火の不始末があった、という報告に頷いて、
「それは人手が要るだろう、呼び止めて悪かった。気を付けてゆけ。」
と、鷹揚に言い、それでは、と下がろうとしたところに、
「----今夜の客は私たちだけなのかな? 他の方も、同じように落ち着かずにいるかも知れない。こちらに告げに来てくれたそなたのような気の利いた者はいるのだろうか?」
使用人はただ通りかかっただけだ。が、持ち上げられれば嬉しくないはずはない。
他の客の有無など、よく躾けられた使用人は口にしたりしないものだが、青年の場違いな貴人オーラ、急いた状態、と重なって、
「大丈夫でございます」
と。それで事足りた。
深く深く深く、青年は息を吐き出した。
「----すまない、前言を撤回させてくれ。」
「前言?」
「あんたを優先すると言った。だが、…いまここにいる傭兵の二人連れが、俺とあんたというのなら…、俺は過去をつなげなくてはならない。」
思いつめた瞳が気になるだけで、ガイツには理解不能である。説明、と思うが、漸く口を開いたと思えば、あの闖入者であった。もういいか、という気が強くなっている。乗りかかった舟、いや毒を食らわば皿まで。
動いているうちに何とかならないか派だ。そして、わがままを言わない子がこうも我を通すというのは、《《親》》として新鮮で成長を感じられることだ。
いろいろ重なりすぎて、なんだかもう、感動的な気すらしてくる。
「好きにしろ。」
付き合おう、という響きをのせた言葉に、青年は表情を緩めた。
「必ず還す。」
ありがとう、という響きが乗って返ってきた。
「戦の間に特異なことと苦手なことが分かった。」
ぼやくように青年は語った。しかし、
「俺はやねがあるところだと、行き先を見失う。だから、戦後、自分の通常の立ち回り先は図面を丸暗記している。おれを探す捜索隊が出されるなど----時間と労力の無駄遣いだ。だったら、そいつらに割り当てて済ませたい仕事はごまんとある。」
続いた言葉は、何かがいろいろおかしい…気がする。どこに焦点を当て問いただすべきか。ただ、細心の注意を払うような横顔と、ガイツを気にしながらも早くなる足取りに、躊躇われた。
思考は内に向かう。
いまから、この街は攻め落とされるらしい。せっかく復興したのに、また戦で荒らされるのか、と不運な街だと思い、…どこが、どうやって攻め寄せるのか、と引っかかった。
国境の街サクレは、隣国『凪原』の奇襲を受けて、陥落した。これが『遠海』-『凪原』戦役の先端となる。いまは『凪原』という国は滅亡く、だから、サクレも国境の街ではない。どこが攻めてくるというのだ? 『凪原』の残党? そも、当時も国境沿いの街とはいえ、北の蒼牙山脈と東の火矢川が天然の防壁となり、地政学的に最前線とはなり得ず物見砦、または補給や指揮統括、そういった後衛を司る機能の城塞だった。それが陥落ちたのは----『凪原』の非常識、いや禁じ手、禁忌を犯したゆえと伝えられている。
東側の城壁に行くと言う。彼らが居たのは南翼の棟だった。普段なら夜警に切り替わろうかという刻限だが、二人がこの城に入った時より、城内を行きかう人の姿は増している。不安や焦り、恐れ(あるいは総て)に追われて、皆が足早である。だから二人も(外縁部を移動したにしろ)特に誰何されずに、城壁へと上がれる階段の一つにたどり着いた。城内から直接上がれるが、端すぎるのと狭いのと急だから、殆ど使われない、と訳知り顔に人気がない理由が語られた。
下で待っていても、と青年は言ったが、ガイツは首を横に振った。何が起きているのかこの目で確かめねばならないと感じていた。
「----ゆっくり行く。」
青年が急いているのは分かったからそう押してやると、軽く頷いて一気に駆け上がっていった。
「若いなー、」
定番の呟きが、暗い階段の壁に反響する。
いったい、ここ、は何なのか----
思った以上に、キツい。だが、壁に手を縋るように這わせ、重い足を上げるのをやめないのは、とんでもないことだ、という畏怖感か、己が目で見たものが一番大事だという骨に染みた傭兵の性か。
怒号と悲鳴のようなやりとりが空気を震わせ始めた。かがり火による明も壁にひたひたと伝ってくる。
終点だ、という喜びはなく、見なくてはならないという胸を押しつぶすような不吉な動悸がする。
ハッ、と吸い込みそうになり、慌てて吸い方を調節した。肺をやられないよう、細くゆっくりと真冬の峠のような空気を含む。
城壁を縁どるかがり火の炎と、昏い天から渦巻きながら降る雪と。
ガイツは、弓狭間近くに身を寄せ、火矢川を覗き見た。
火矢川は大陸を二つに分ける大河である。河口には二国に跨る東西ラジェが位置し、渡し船で行き来をしている。源流にほど近いこの付近は左右の岸とも切り立った崖で、鹿も降りぬ険しさだ。また不凍の早瀬は、いくつもの淵を抱えて、おいそれとは渡れぬ難所である。
「っ、正気かっ!?」
それは自分に対してだったのか、相手に対してだったのか。
サクレの領城は「翠炎城」といつの頃からか呼ばれている。
川面から上る早春の靄が風に上昇し、背後に背負う蒼牙山脈の新緑と入りまじり、まるで炎に包まれたさまに見えると謂う。
ガイツは息をゆっくりと吐いて、もう一度眼下を見据えた。歯が鳴りそうなのは寒さではない。
認めがたい。だが、頑としてそこにある。
見下ろした川面----岩の形状からおそらくは淵であり早瀬が渦巻くはずの----は黒く固まっていた。真夜中に近い、月も星もない暗闇で何故見えるのか。それは、その上を松明を手にした人影がわらわらと蠢いているからだ。
そこは、凍り付いた川面だ。
楽しみ、心躍らせた英雄譚の一節が、頭の片隅を過ぎていく。
「厳寒期でも決して凍らぬ川面が、その夜かたくかたく凍り付き、『凪原』の兵を『遠海』へと渡した。」
そうして、サクレは陥落ち、この地を足掛かりにして『凪原』は侵攻を開始する。巷間で謡われるサクレの落城だが、方法を具体的に聞きはせず、悲劇的に、そう悲劇として、蹂躙されたサクレの悲しみを聴いた。
どうやって、サクレは陥落たのか。『凪原」兵はどうやって、一夜にして城塞都市を占拠できたのか。
攻城する、とはどういうことか。
旅商団の護衛にすぎぬ傭兵では、ピンとは来ない。城壁を越えて、郭内に侵入するその難しさ。
数、だけではない----川面だった部分に在る、その大きなかげ。
身を潜めることを失念し、状況を見ることにすべてを持っていかれていたガイツは傍らに影がさして、はっと振り向いた。
青年は、予備動作もなく、大きな袋(だと思った)を城壁の下に投げ棄てたのだ。柔らかいものだったのか、へしゃげるような重い音が闇の中から微かに聞き取れた。
「----なんだ?」
「気にするな。」
「いや、気になるだろう!?」
「そうか、」
生返事というのか、川面のソレを見ていた。
「----間に合ったか、」
蝶の死骸に群がる蟻のようだった。凪原兵が、ソレに取りついて向きを変え始めた----こちらへと。
「アレは…なんだ?」
「攻城機だ。」
「アレがか!」
なるほど、ああいうモノで、城壁を壊すのか、と目を瞠る。
投石と破壊槌が一体となった型だ、と青年は説明した。
重量も大きさも半端ないから、籠城戦時に、材料を現場に持ち込んでその場で作る。複数台を並べて使用するものだが、いま、眼下に確認できるのは一台だ。それでも、まったくの想定外だから、東側には迎撃設備はなく、十分な脅威といえる。
「想定外、とは言っては駄目なんだが、----よもやもすぎるな。そもそも、アレは氷製だ。冬祭りの、雪像が稼働しているんだぞ、吃驚だろ?」
投げやりに、皮肉げに青年は明かす。
「氷!? 」
「天候を変え、川を凍らせている大技中だから、流石に一機だけだが、」
投石は、巨大な匙の上に岩石を乗せて射出する。攻城機の周辺にはそんな影は見えないが、これから運び込むのだろうか。青年の説明を聞きながら、窺っているうちに、匙の部分にみるみる球体が膨らんでいく。
「氷だな、原価ゼロだ。」
興味なさそうに言いながら、青年は自らの右の掌を見つめて----舌打ちした。
「なんだ?」
「いや、壊せないかなあ…と思ったんだか、」
みえた訳ではないが、何か重い空気がその時、青年の左腕に纏わりついた気がしたのだ。
「無力なようだ。…この時の本体は…だしな、しかし俺の内にある事実は変わらないから、幻影と放射は可なら…直接触れば…、流石に、」
何かを計算しているが、勝算には結びつけられなかったらしい。舌打ちして、再た攻城機を睨んだ。
発射角度の調整を始めている。
「…で、なんてこっちに照準向けてるんだ? 中央棟は向こう…だろ?」
ここは城壁の端にあたるうえ、カーヴしているから、特に堅い造りになっている。例え穴を空けても、深部への侵攻に時間がかかる----からか?
「目印がこの下にあるからだろう。」
しれっと青年は言った。
「…さっきのか、」
肩を竦める。肯定だ。先の「火鼠」とのやりとりで、東云々、と言及ていた。
「離れよう。」
上がってきた階段を指して、青年は言った。照準が向いたことで、守備兵も中央部分からこちらへの移動を始めたようだった。
「侵入への時間稼ぎは叶った。俺たちがこの街を無事に離れる算段に移ろう。」
淡々と次の手順を語る。
ガイツを先行させた後、もう一度城壁の向こうに視線を飛ばした青年は、再た左の掌を見つめた。
「----所詮なぞるしかないのなら、何故ッ…?」
風に乗ってガイツに届いた、悔し気な呟きこそが、青年の本音なのだろ




