3 死の六角形から その3
一見は翡翠のように見える。表面は硬く、爪で弾くと硬質な音を立てるが、液体を閉じ込めたような内側は脈拍に合わせてうねり、揺れる。
「≪審判の腕輪»だな。」
特に珍しくもないものを語る口調で男は断じた。
刑を言い渡され、処置を施されて初めて知ったそれは罪びとのしるしだと宣告されていたから、とっさに右の掌を重ねて隠したが、その口ぶりで、彼らには----いや、この土地ではごく見慣れたものなのだと判って、ゆっくりと手を外した。
「普通は、移送されたのなら町役場に引き渡されるだけだ。それが、危険を冒しても砂原の奥まで連れてくるなんて、どう考えたって殺意だろ。」
髭で覆われた顎を、人差し指でとんとんと叩きながら頭領は首を傾げた。あまりに直截な物言いに、女性が腰を浮かせたが、その制止より前に言葉は継がれていた。
「しかし、おまえの身内も壮大にしくじったのものだ。年端もいかない子どもを、そんな手間暇かけて殺したいくらいに恨むやつがでるくらいに。」
悪気はなかったのだろう。思ったことをただ口にした。他人事だから。分かる。けれど。
----溢れた。
「そうだよ!」
いのちを拾ってくれた恩人だ、ということはもう吹き飛んで。
「だから、父も母も姉も処刑された! わたしを生かして街から出したのは、温情じゃない・・わたしの命は取らないと最後に少しだけのぞみを繋いだ彼らを徹底的に踏み躙りたい悪意だよ!」
近くにあった椀を投げ付けていた。
さすがの反射神経で、男ははっしと受け止めて、それから滂沱の涙を流すさまに動きを止めた。しくじった?という表情で、女性の方へと視線を回し、深々と溜息をつかれて、肩をすぼめた。
呼吸が浅く早くなる体を、女性はぎゅっと抱き締めながら、そのあたりにあった布を丸めて口元に寄せた。
「この中で、ゆっくり息をなさい。大丈夫、大丈夫。」
ややして、青ざめて力の抜けた体を敷き布の上に横たえる。意識は虚ろだが、呼吸は通常のものに戻っ
。ていくのを確認して、
「----だから、無理だと言ったでしょう!? あと、なに? その無神経な話運びは!?」
「いや、しかしな。」
「しかしも案山子もない!」
「いや、案山子なら担いでいけばいいが、」
「!? なんの話なわけ!?」
「いや、身の振り方を、」
「拾うと決めたのは逢水でしょう!? 責を負わないなんて、あなたらしくない。」
「いや、だって、⋯どう考えても面倒事だぞ?」
頭領の名は、おうみというのか、と闇の中で揺れている思考の中で思って、その名前に縋るように繰り返して、そして、いつの間にか意識は完全に途切れた。だから、その後の会話を知る由もない。
「成人にもほど遠い子どもが、自ら地蟲の餌にしたいほどの怨みを買うはずもない。 双親へか家系にかは分からんが、こんな子どもが無残に死ぬさまを思い描くだけで溜飲が下がるほどの怨みを有つだれかがいる。」
男は気の毒に、とばかりに首を振った。
「生き延びたことを知れば、その悪意は再た牙を剝くだろう。もっと深い執念をもって。」
東南街の商家に生まれた。議会に参加できる参与の位を代々保ってきた家柄だ。
家族は父母と、兄、姉が三人。年の離れた兄はすでに独立し、他花陸との交易船で実務を積み、一番上の姉は他街へ嫁いだから、もう数年手紙だけのやりとりだ。
刺激的なことは何もなく、ただ漫然と、日々は柔らかく流れていた。あの、祝日の昼餐の時までは。
薙ぎ払われて倒れたテーブル、料理のソースの染みが広がっていくクロス、ボトルがくるくる回りながら転がってワインが水たまりを作る。父の怒号と母の悲鳴。
押し入ってきた屈強な男たちが、家族を次々に拘束して、窓に鉄格子の設えられた馬車に押し込んだ。
父母を乗せた馬車、次いで上の姉を乗せた馬車は出ていき、暫く間が置かれた。年端もいかない子ども一人、何ができるわけではないと監視は緩くなっていた。がたがたと震えて身を縮めていたが、時間が経って状況が変わらなければ落ち着きも出てくる。手こそ拘束されていたが、窓に寄って、鉄格子の隙間から外の様子を窺うこともできた。
だから、見ることができた。
見覚えのある馬車が横付けされていた。異変を聞きつけて駆け付けてきたのだろうかと期待をもった。
中の姉の婚約者で、東南街の議長家の跡取り息子である彼が、やがて家の中から出てきた。下の姉の肩を抱きながら。
二人は鉄格子の馬車には目もくれなかった。
----それから。
利敵行為収賄、殺人教唆と未遂、脅迫・・・数多の罪状を書き連ねられて、両親と中の姉は処刑された。兄は船団から行方を絶ったという。
加担していないが連座となり、処払いと賠償金支払いの強制労働が言い渡されて砂原行の馬車に乗せられたのだ。
蜜柑色が紫闇に飲まれていく黄昏時。狩団の面々はキャンプ地の撤収に追われていた。天幕は布が外され骨組みも畳まれて袋にきっちり詰め込まれ、地牛が引く荷駄に積まれていく。「ごめんね」と揺すり起され、厚手のマントを肩に掛けられて、その荷駄の端に座らされた。
日も暮れかけているのに何が起きているのかと、パチパチと瞬いていると、これから移動になるのだと教えられた。
「夜なのに?」
「でも涼しいでしょう? 昼に長距離は歩けない。」
炎天下に歩いて倒れた身としては、目から鱗だった。
そこへやってきた頭領は、時間は無駄にできないとばかりに荷の積み込み差配しつつ、拾い上げた子どもからようやく経緯を聞き取った。
「----で、どうしたい?」
「どう・・って、」
ピンとこない顔だった。
「年季奉公の先だ。その腕輪に設定された額を満たさない限り、おまえは自由になれない。」
つなぎ目のない、翠の腕輪。
「条件を満たすほどに少しずつ細くなって、終われば切れる・・んだそうだ。」
その腕輪は珍しくないのに、半信半疑な言い方をしたのは、
「ま、だいたい細くなる前に死んじまう。」
「!」
「砂原で生きるのは、街育ちじゃ兵士でも過酷だ。」
あっという間に、野営地はただの砂原に戻っていた。藍色から紺色に移ろった夜空で銀光が瞬き始めた。
「いまは町まで連れて行ってやれんから、とりあえず同行しろ。食い扶持は下働きで払ってもらうぞ。」
「・・町に連れていかれるの?」
「本一冊くらいしか持ち上げたことのない細腕で、狩ができると? 街育ちの子どもに狩を教えたところで、自分で狩ができて稼げるようになる前にきっと死ぬだろう。一人前と言われる者でも、巡り合わせが悪ければ、一瞬で腕や足を引き千切られたり顔の半分を齧り取られて、のたうち回って死ぬ稼業だ。」
男の太い腕にも、引き攣れたような傷跡が幾筋もある。
「毎日、客を取り続ける方が完済する可能性は高い。太客を捕まえれば、身請けもあり得るだろう。」
町に行く、ということは妓楼(娼館)で働くことだと理解して固まる顔に、男は淡々と言葉を重ねた。
「もはや、おまえは普通には生きられない。町か砂原か、生きるために削るものを選べ。」
マントを握りしめている指が白い。
この年頃の、上流階級の子どもは選択したことなどないのが普通だ。親が決めた通りに育てられる。結婚相手も、右か左か、くらいを聞いてくれるのならマシなほうか。----親の立場になって、かつての自分と同じに子どもについて選択できる。
そんな、窮屈な連鎖だ。
「----この場に残るか?」
どういうことか、と瞠った目が、理解してき、と睨み返してくる。生きることを諦めていない、勝気なところは悪くないと男はうっそりと笑った。
「何にせよ、砂原には死に至るまでの生しかない。早いか遅いかの差はあれど。」




