52 よくある転生少女の転落 その15
流血沙汰があります。ご注意ください。
「スリって本当にすごいのね。」
手の中に戻ってきた巾着に、つい感心したように呟けば、男は呆れたように吐息をついた。
「また、ひとりかい?」
「ええ。」
「いくら何でも感心できない。」
「だって兵隊さんが街中にいっぱいで、侍女は怖いというのですもの。でも、お腹は空くから買い出しには誰かがいかないと。」
角を曲がる手前でスリは兵士に拘束されていた。
「それは----悪かったな。」
「でも、思ったほどはいないのね、兵隊さん。もっと、びっしり立っているのかと思っていたわ。」
「何でも昼は溶けるから出てこないらしい。」
「溶ける?」
「陽射しに弱いそうだから、夕方から夜に人数を割いている。」
探索されているのは、誰だったろうと思わず首を傾げてしまった。
----いや、『凪原』王妃の話だろう。
「・・そうなんだ。」
吸血鬼かと内心突っ込んでいるが、ここにはドラキュラという概念はない。
単に氷からの連想になんだろうと心を落ち着けた。
彼女は今日も一人だが、男は一人ではない。男が最初にスリと押し問答をしたあたりに連れ----いや、配下だろう軍人が数名見え隠れしてこちらをうかがっている。
どこかで寝返ったのか、最初からだったのかは知らないが、いまは『遠海』方なのは間違いない。そして、成功した。ダユウであった時よりも格段に身なりが上等になっている。
「お仕事、戻らないと駄目じゃない?」
掌でそちらを示し、
「お財布ありがとう。」
と身を返そうとしたが、行く手を体で遮られた。
まだ空のままの籠を取り上げられた。
「御所望は、パン屋か?」
「と、ソーセージと豆と、少しは青物がほしいけど、・・・案内をしてくれるの?」
基本は保存できるものがいい。東ラジェの傭兵なら店に詳しいだろう。
と思ったのに。
「いや、オレは不案内だ。」
「は? 東ラジェの傭兵じゃなかったの? あなた。」
「おれの無二の友が東ラジェの傭兵だ。」
「そのお友達は?」
男の連れに視線を飛ばして確認してみた。
「昨日、オレと入れ替わりで西へ渡っていった。」
「そう、・・じゃあ、誰かに聞くから。」
籠を取り戻そうとしたが、高く掲げられた。
「荷物持ちくらいはするぞ?」
「荷物持ちするような立場じゃないでしょ、あなた。お連れさんがやきもきしているわ。わたしは個人的な買い出しだけど、あなたはお仕事の途中じゃないの?」
彼女の言葉が聞こえたのだろう。うんうん、と軍人たちが頷いている。
「急ぎじゃない。」
いやいや、と首が横に振られている。
男はそちらに視線を流して、
「もったいぶれ、と友が指示していったが、オレは腹芸は苦手だしどうしようかと思案していたが、のっぴきならぬ用事ができたから堂々と遅れることができそうだ。」
と、晴れ晴れと笑うから、部下たちは軽く天を仰いで承り、彼女もずっと暗く翳っていた気持ちに陽射しが差し込んだ明るさを覚えて、苦笑いして道行を受け入れることになった。
----崩壊へのカウントダウンが始まった、と判る由もなく。
市場をひと廻りして、昼食代わりに幾つかの屋台で買った品物を小さな公園のベンチに広げてシェアした。
甘辛いソースのかかった魚のフライ、蒸かした根菜にタルタルソースがかかったもの、蜂蜜がしみた平たいパン、飲み物は冷たい緑茶だ。
交わした会話はたわいのないものばかり。買い物中は、鮮度とか日持ちとかの必要な話で、いま食事をしながらは味と調理法の話。
つまり、互いについて踏み込むことはしないまま、陽はゆっくりと傾いて夕方が近づいてくる。
人気もまばらになった市場を再び抜けて、最初に会った地点に戻ってきた。
「坂の上まで運ぼうか?」
「割と力持ちよ?」
受け取った籠を、揺すってみせた。腕より心の方に、ずしりときたのを笑みで覆った。
「じゃ、お仕事頑張って?」
さらりと後ろ姿をみせたが、肩に手が乗って引き留められた。
「----その、・・あなたの御主人が投降するというのなら、」
そういえば、最初に『凪原』の所縁だと明かしていたし、次いでイマレ峡谷、海戦後の東ラジェとくれば、流石に中枢に近いと判断もするだろう。
「わたしにご主人なんていないわ。」
それは本当のこと。しかし、きっと男は彼女が庇っていると取るだろう。それで、いい。
「わたしは、わたしとわたしの側仕えのために買い出しに来たの。」
「・・そうか。」
「買い物、助かったわ。ありがとう。」
新緑の森みたいな瞳を見上げてから、一歩前へ踏み出した。力が入っていた訳ではない掌は外れて、熱が遠ざかる。
「・・もし、気が変わったら、オレの、」
名を聞いてしまったのなら、男も登場人物になってしまう。
名もなき人、名もなき時間、---物語の外側が裏返る。
「なんの!」
声を張って遮っていた。
「・・ことか分からないわ!」
籠の取っ手を強く握って、坂を上り始めた。
背に視線が注がれていると判ったが、振り返らなかった。半日で買い込んだ荷物の重さが掌に食い込むようだったが、しっかり握りしめ足を止めずに上りきった。
尾行はきっとない、と信じられた。
----が、どちらにせよ、崩壊は坂の上で待ち構えていた。
共同の泉がある、小さな広場に面した共同住宅の三階が隠れ家だった。昼間は近辺の子どもたちが遊びまわったり、女たちが泉の側で洗い物や料理の下ごしらえをしている賑やかな広場は、張りつめた空気に満たされていた。
五十に達するだろう兵士の目が、一斉に彼女に注がれた。
傾いた陽の、濃い橙色の中、彼女の侍女三人と護衛の騎士が縄うたれ、石畳に膝をつかされていた。交差されていた槍が、彼女を認めてその先を彼らに向けた。
「あの女か?」
『夏野』----そう、『夏野』の部隊だった。散々利を享受したのに、旗色が悪くなるとあっという間に裏切った同盟国!
部隊長の問いに、槍先が動く。
もう、随分と痛めつけられているらしい騎士は辛うじて膝で身体を支えているが石畳に陰ではない染みが広がっていた。
肉を刺す鈍い音がした。悲鳴を上げたのは、騎士ではなく侍女だ。
「やめて! もう、死んじゃう! 」
血の臭い。乾いた黒い染みを塗りつぶすように、新しい水たまりがじわじわと広がっていく。
槍の柄で、反応のない騎士を衝きながら問いを重ねる。
「あの女が、そうだな?」
侍女は怯えた目で彼女を見た。兵士の槍が上がる。柄で背中を強打され、くぐもった呻きとともに、どう、と騎士が倒れた。今度は胴体に刃先を落とそうとばかりに、兵士は槍を振り上げた。
茶番だ、と彼女は静かに思う。
数を恃んで、抵抗できない者を甚振っているにすぎぬ。そして、それが彼女に対する示威になると疑っていない。
「やめよ。」
彼女の声で、ピタリと槍先は止まった。
「下賤の身が、わたくしに直接声をかけることはかなわぬ、という礼儀を知っておることは褒めてやろう。」
当然嫌味だから、部隊長が顔を引きつらせた。
「直言を特別に許してやるぞ? 名を名乗れ、さもしき『夏野』の犬よ。」
右手の籠を下ろし、左手でスカーフを外した。
手櫛で、その特徴的な蒼まじりで硬質な銀色の髪を調える余裕溢れた姿を前に、軽んじられた部隊長は顔を真っ赤にしていた。
「う、動くなッ、一歩でもそこから動いたら、側近どもを串刺しにするぞ!!」
「悪役の台詞だ。」
困ったように微笑んで、彼女は柔らかく、胸の前で手を組んだ。
その瞬間、泉から大きく水が吹き上がり、頭上から彼らに降り注いだ。泉の近くにいた者ほど、多量の水を被り、そのまま氷像と化した。次いで、大気が冷たく凝り、吹雪になって吹き荒れた。
彼女は悠然とした足取りで、氷像の間を歩き、側近たちの側に辿りついた。
脚が凍り付いた部隊長が何か叫んでいるが、吹雪の音で届くことはない。化け物とか、ありきたりの語彙しかないに違いない。功を焦った小者だ。下で別れた『遠海』の男たちは何も聞かされておらず、たかだか一小隊で彼女に臨もうなど・・・。
縄に手をかざせば、白く凍り付き、ばらばらと崩れた。
「立てる?」
彼女付だが、異能の場に居合わせたことはなかった彼女たちの目は大きく見開かれ、腰が抜けたようだった。
彼女は横倒しになった騎士の様子を窺った。息はあるが、・・動けそうもない。
置いていくよりない、と侍女たちを再度促そうと振り向いた彼女は、ズシンと腹部に衝撃を感じた。
衝撃に次いで、鈍く、そして鋭く痛みが身体を貫いた。痛みの場所にあてた掌が、生温かくぬめった。
「・・え?」
茫然と真っ赤に染まった掌を見つめているうちに、今度は背中に、そして振り向こうとした、先とは逆の横側に衝撃と痛みが走った。
傷みと失血のショックで、がくりと膝を落とした彼女は何とか首を巡らし、それをもたらした者を捉えた。
『夏野』の兵士ではなく、彼女の侍女たちを、見た。
「・・あなた、たち?」
がたがたと震えながら、護身用の短剣の刀身と掌を彼女の血で真っ赤に染めていた。
「この・・化け、ものッ、」
蒼白な顔で、けれど唇を引き結んだあと、はっきりとそう言った。
「界魔のくせにッ、よくも人の顔をしてッ」
「陛下を誑かして、『凪原』に----わたしたちにひどいことをさせてッ、」
彼女を刺したのは二人、もう一人は騎士の傍らに寄り添って、涙に濡れた(半ば凍り付いていたが)目でこちらを睨んでいた。そういえば、騎士とこの侍女は恋仲であったか。
「エルーシア様やフルーク侯爵家の皆さまを陥れたのも、あんたたちなんでしょ!? あんたたちのために、たくさん死んで、『凪原』はぼろぼろになって!」
「『遠海』なんてだれもほしくなかった! 気味の悪い鈴をもって我が物顔でうろうろしてた、なにがお隣さん!? 界魔は界魔じゃないッ。」
恨み言は、彼女たちの口を衝き続けていたけれど、彼女はもう聞いていなかった。
吹雪は彼女に吸い込まれるように消えていき、夕焼けを過ぎて黄昏の紫闇が広場を圧し包んでいた。
シン、と静まった中、ぼとり、と氷像が次々に砕けた。全身を凍らせられたものはそのまま、氷の粒となり、手足の一部が凍った者はそこがもがれた。恐怖の阿鼻叫喚が響き渡る中、砕けた氷の粒は彼女の体に吸い込まれていく。
ボトボトと鎧や衣服、剣、長靴などが無数に転がって。
----そうして。
彼女の腹や背中に空いた穴が、みるみる塞がっていったのだ。
操り人形が立ち上がるような、奇妙に四肢がねじれたような動きで彼女が立ち上がる。虚のような、黒目と白目が失われた異形の目で、彼女は天を仰ぎ----。
吼えた。
侍女たちは肩を竦ませ、そして瞬時に氷の粒となって彼女の口の中に吸い込まれていった。
からん、と凍り付いた血のついた短刀が転がる。
咆哮は止まらない。放射円状に、次々に生き残っていた兵士たちが飲み込まれていく。逃げ出そうとする者もあったが、その足から凍り付き、そして。
誰も、いなくなった。
彼女は物足りなさそうに周囲を見渡し、そして手を見つめた。白い、鱗がびっしりと生えて、まるでそれが口のようにパクパクと動いていた。その手で触れた首も、頬も、同じように蠢いていて・・・。
彼女の口から今度は、人の悲鳴が高く上がった。
騒動を聞きつけたのだろう、新たな一団が広場に駆け込んできた。その中には、あの男がいた。
ぎょっとしたように、けれど取り乱した風はなく、男は眉を寄せた。
「その服は・・・お嬢さん?」
可哀そうに、とばかりの眼差しで、男が剣を抜く。その刀身が淡い真珠のような光を帯びたのに、彼女は本能的に後ずさった。
キ・・キ・・・。
「----そこまで。」
彼女はくるりとマントに包まれた。
「は!?」
男がぎょっとしたように声を上げるのを、布ごしに遠く聞く。
「この子は連れて行くよ?」
「あなた、はどうしてここに!? いや、どういうことです!? オレたちに敵対するとそういうことですか!?」
「まさか。大切な大切な娘を裏切るような真似をするわけない。」
「では!?」
「説明はしないよ?」
笑う声。
「この子を追うよりまず、わたしの娘をちゃんと取り返しほしいな? そして、きみはちゃんと冠を被るべきだね。」
それから、また会おう。
助言なのか捨て台詞なのか約束なのか。
聞いたことのある声だと記憶を探っていたが、薄闇は濃くなって、彼女は漆黒の中に塗りつぶされた。




