48 よくある転生少女の転落 その11
秘湯、という言葉がぴったりの、手作り感溢れる空間だった。
『凪原』軍がこちらに移動してきているらしい、という風聞と、平日の昼前ということもあって
彼らの他に人影はなかった。
男湯と女湯は隣り合ってはいたが、煉瓦の壁と葉が二階よりも背の高い長楕円形の常緑樹の木立で仕切られていた。
侍女でも連れていれば、入浴もやぶさかではないが、よく知らない男と二人の状態で衣服を脱ぐ選択肢はない。
更衣室の手前に共有スペースに、足湯はあった。手作りのベンチに腰かけて、靴と靴下を脱いだ。そっと裾を上げて、ゆっくりと湯の中に足を下ろした。ほ、と表情を溶かした彼女に、男は「ごゆっくり」と笑って、仕切りの向こうに消えて行った。
ほどなくして、次いで「・・っつちち、」と慌てた声と水を跳ね散らかしている音が聞こえてきて、彼女はうっとりと落としていた瞼を上げた。
----こんなに素敵なところを紹介してくれたもの・・、
常緑の葉を凍り付かせながら流れて行った氷気が、湯気に紛れて温泉の中に流れ込む。
適温になったのはきっと慣れたからだとでも思っただろう。塀の向こうの物音は落ち着いて、彼女はまた目を閉じた。
白く凍った葉はすぐに溶けて、ぽたぽたと雫を滴らせていた。風に揺られて、きらりと陽を反射する。
「----いい、天気・・、」
目を閉じたまま、瞼の裏で陽光を感じている。
「そうだなあ。」
呟きに、のんびりとした応えが返ってきた。戦士たる男の聴力はかなり良いのだろう。
「いいお湯?」
「おお。」
鳥の声、小さな羽ばたき、葉擦れの音、流水の音。硫黄の臭いも、鼻が慣れれば悪くはない。
「----いい天気・・・、」
冷たく、凝った何かの端がほろりと崩れた感覚。
「おお?」
「でも。」
目を開ける。俯くとさらりと髪が肩から流れ落ちて、視界を昏くした。
「・・夕刻には崩れるわ。」
「そうか?」
男はきっと、雲一つない青空を見上げている。
「ええ。・・でも、また明日は晴れるでしょう。」
「そうか。なら・・明日、また来るか?」
「来ないわ。」
ぬくもりから足を上げた。手巾で拭いて。靴を履いた。
「・・・きっと、足元が悪くなるわ。お湯も濁ってしまう。」
「なるほど。」
本当に感心したように言う、気のいい男だ。
「だから。あなたも明日は来ない方がいいわ。どんなに晴れても。」
この男は砦の騎士ではない。シュミレーションパートの成否に関係しない、通りすがり。
「じゃあね。」
一月半ほど前にダユウで別れた時と同じセリフに、
「気を付けて戻れよ?」
同じセリフが返ってきた。
振り返らなかった。
「出かけていたのか?」
父の訃報を聞いて国元から駆け付けて来た兄だ。父そっくりな兄は、父の代わりに国王の側近として仕え、今回は妹直属の将として従軍している。
「ええ。ちょっと景色を見に。」
供もつけずに妃が出歩くことを咎めるべきのところを、兄は何も言わなかった。
危険な目に合うことはないと、むしろ当たり前の顔で、そうかと頷いた。
「ならば、祈りを捧げる場所は決まったのだろう? 聖なる御方、いずれにてその御力を揮われる? 天鏡砦と対の名を持つ地鏡砦だ。同じにされるか?」
じっとその灰色に翠が煌めく瞳を光らせて詞を待つ。
「あれは氷の城と呼ばれていると聞きました。」
国境を閉ざし、援軍を封じるのは定石だ。兄と彼女の間に、半透明な画面が浮かび上がっている。兄には見えないから、彼女が視線を彷徨わせて考えているように見えるに違いない。
マップ。戦略シュミレーションには欠かせない、勢力図、進軍ルート、占領地が色分けされた情報板。これは兄がいる時にしか出せないから、つまり彼はお助けキャラなのだろう。
地熱が高い、火山地帯が沈み込んだカルデラ地帯を、雪と氷でどう制するか。
「----泥のお城を作りましょうか。」
進軍のボタン、だ。
ゲーム画面の中なら高らかな音楽が鳴り響いて、グラフィックがチェンジするところだが、いまは深く一礼した兄が声を上げるだけだ。
「お言葉のままに。----さあ、だれぞある! 妃殿下が祈りを始められる! 御仕度を!」
夏も間近な時季。
時ならぬ大雪が一晩降りしきった。
真冬でさえ、降り積もることがほとんどない一帯に建物の二階を越える積雪が記録された。
翌日。
何事もなかったように陽は昇り、気温は上がり。
更に悪いことには軽い界落の衝撃が地面を揺すった。
雪は一気に溶けて、大量の土砂を巻き込んだ土石流となって峡谷を----地鏡砦を埋め尽くした。
砦に在った第三隊は生き埋めとなり、哨戒中だった第四隊も半数以上が飲まれたが、何とか過半数が生き延びた。
彼らの救助を行い、この機に攻め寄せてきた『凪原』軍の追撃から逃したことが、天旋と名乗ることになる英雄たちの、公には最初の一戦である。
「いま、天は『遠海』の上にないが、必ず我らの起こす風が天を旋回らす!」
のち、『遠海』に即位するライヴァート王子が言ったのだという。
非道は正され、正道に還る、と。




