47 よくある転生少女の転落 その10
天旋という集団の噂が聞こえ始めたのは、イマレ峡谷の攻防後であったか。
王都を陥落させた後、『凪原』は東進と南進へと軍を分けた。
東----蒼公家の所領地に続く街道は、イマレ峡谷とその周辺のカデノ湖沼が要害となり、地鏡騎士団が警備している。
当時の団長は、当時の蒼公家の三男で、長男と熾烈な家督争いをしており、その活動のために王都に赴いていることが多かった。そして王都への侵攻戦に巻き込まれたらしい。還ってこなかったことから、そう推察されている。
腰ぎんちゃくであった副団長も行をともにしており、この時、地鏡砦の責任者は第三隊の隊長である。一隊は、団長警護のため、二隊は副団長警護のため動員されて・・以下略。
つまり、有事を前に半分の兵員と幹部の半数以上を欠いて迎えることになったのである。
「相談はどうでしたか」
異国の血筋を連想させる彫り深い面立ちの副隊長は、知っているぞ、という悪戯めいた顔で執務室に戻ってきた上司を迎えた。
「・・お前が思っている通りだ。」
「いやいや、ちゃんと報告いただかないと?」
「だったらもう少し神妙な顔で迎えろ・・そこで、いきなり神妙な顔をするな。腹が立つ。」
第4隊の隊長、マリアール・ルドールはじろりと部下を睨んだ。
「いや、隊長の心労を思いまして、あえて軽やかに?」
「お前はいつも軽やかだろうが。」
在室していたもう一人、マリアールの副官がミルク多めの香茶をテーブルにセットした。自分の分も勿論入れて、扉脇で一足お先にと飲み始めた。
南の花陸の飲み方だというミルクとスパイスを入れた香茶は、副隊長が赴任してきた時、砦(4隊)に持ち込んだものである。
隊長の表情に張り付いた「お疲れ」と「悩み多き」という文字が、黙って香茶を飲むうちに、消えはしないが薄れていって、彼は大きく溜息をついてから、かちりとカップをソーサーに戻した。
「----籠城だ。」
「負けたんですね?」
こちらはまだカップを持ち上げたままの、副隊長だ。
「第三隊長が上席だからな。」
年齢も倍ほどだ。
「釈迦に説法ですが、援軍の見通しについては?」
援軍が来ない籠城は、ただの時間をかけた自死行為だ。
「まさか王都がそう簡単に占領されるとは考えられないから、こちらに転進してきているのではないかという意見が出た。」
「根拠は?」
返事はない。副隊長は、がちり、とソーサーを鳴らしながらカップを置いた。
「わたしからの情報については?」
「・・流言には付き合えないと。」
「どっちが!?」
獰猛に唸った。副官がテーブルの上のカップ類を回収していく。
「----投げたりはしないぞ?」
少し血が下がったらしい。ただし、前科があるから、副官は乾いた目である。
「北から来た傭兵たちの話ですよ!?」
「『凪原』はいま大量の傭兵を使っている。工作を疑っている。」
「ヤツラは、火矢を越えてサクレを落とし、クロムダート大公閣下を弑した。畏れ多くも首は城壁に晒されたという。」
「火矢が凍ったという話がまず眉唾だ。」
それは、とても常識的な思考だ。しかし。
「げんにヤツラは『遠海』にいるじゃないか!」
テュレが陥落し、ダユウも占領され、北の国境砦を任されている天鏡騎士団はほぼ全滅したという。
「『夏野』と『凪原』は近しいが、蒼の渡し場も西ラジェも、『凪原』の軍勢を渡していないことは確認されている。そちらから渡ったのなら、まず攻められたのはサクレではなく、蒼公都か朱公都、そして地鏡砦だ。奇襲の為に、我らの目を誤魔化して北上し再集合したとでも!?」
「その場合、我らの警備が笊であったということだな。」
「冗談ではない!」
「---そう、冗談ではない。」
第四隊長は、底光りするような目で部下を見返した。
「我らの誇りに賭けて、そんなことは絶対にない。」
「・・隊長、」
「我らがすることは敵がいかにして北から現れたかを特定することではない。やってくる敵から、いかにここを護り、通さぬことだ。」
ニヤリと太い笑みを浮かべた。
「籠城の準備は三隊にお任せして、四隊は哨戒任務に入る。」
「御意!」
満面の笑みで敬礼し、退室していった副隊長を見送り、隊長と目を合わせた副官が、
「じらされた挙句に散歩に連れて行ってもらえることになった大型犬・・、」
真顔で呟き、隊長は暫く呼吸困難になったらしいが、誰が知ることもない幕間だ。
結果的な話をすると。
地鏡砦は壊滅し、『凪原』軍はブレトへと進軍することになる----。
「地獄谷、ね。」
カルデラ地帯といえばいいのか。
赤茶色と灰色のまだらな地表から濛々と蒸気が噴き上がる。ぐつぐつと、泡を立てて湧いている無数の池。鼻をつく硫黄のきつい臭い。
泥状になったある場所は、地下からぼこぼこと泡が立ち、やがて丸く水面が盛り上がったと思うと、一気に十数メートルの高さまで熱水が吹き上がる。
規模は様々だが、そんな間欠泉もいたるところにあり、気を抜けない危険な場所だ。
ただ、奇観を楽しむ者のために遊歩道が一部設置されていて、
「----また観光か? お嬢さん。」
そんな場所で、ばったりと再会した。
あのあと、傍近くに迎え入れられないかと探させたのだが、結局、見つからなかったというのに。
「しかし、ここを選ぶとは好みが通すぎるんじゃないか?」
「あ、あなたこそ。」
「オレは観光というよりは湯治だな。」
「・・温泉?」
彼女は左右の湯だまりを見渡した。卵を入れたら一瞬でゆで上がりそうな熱気を感じる。
「とても我慢強いのね・・、」
「いやいや。」
男は苦笑した。
「あっちに一応入れる程度のヤツがあるんだ。この辺りの農民とか砦の騎士連中が使う野趣あふれる代物だがね。 疲労回復の他、傷に良く効く・・らしいぞ?」
「体を悪くされたの?」
「打ち身だ。罅も入っているかも・・このあたりに。」
肋骨のあたりを軽く押さえて、言った。
「放っておいてもじき治るだろうが、せっかく近くにいるんだから入ってこい! と。・・湯に数日浸かったくらいで、直りに影響したりするとは思えんのだが。」
「そんなこと、ないわ。温泉はj間違いなく体にいいの。」
温泉大国の国民として、彼女はきっぱりと言った。
「外傷や出来物、内的疾患にも。すぐに効くものではないけれど、入らないよりは、数回でも間違いなく緩和されると思う!」
予想外の熱で語られて、男は目を瞠っている。
「ここは硫黄が強いから、皮膚疾患とか血行促進とか、疲労回復とかにいいかも。骨折も血行がよくなれば自然治癒力が高くなって、いいんじゃないかな! 飲水も効果ありだけど、ここのは喉ごしちょっときつそうだから、やっぱり浸かるのが一番かも。」
「----なるほど。こんなところに来るはずだ。温泉通だったのだな?」
「え・・いえ、そんなことはなく?」
我に返ったが、後の祭りで男は、すっかり彼女をその枠に入れてしまった。
「オレノのような整った施設では全くないが、一応女性向けの湯も調えられておるぞ? うちの女性陣の評価は、ちょっと開放的すぎるつくりだが、普通の湯とは温まり方がまったく違うし、肌の調子はすこぶる良いと。あなたも試しにきたのだろう?」
「いえ、・・そんなことはなく?」
言われれば、入りたい衝動は湧くが、如何せん準備はしていない。おそらく入浴セットだろう包みを抱えて、錆びやすい剣の代わりに木刀を携帯している男は、ほぼ手ぶらな彼女を見遣って、
「そういえば、足湯とかいうものもあったな?」
と、水を向けた。
「・・足湯、」
----ハンカチは持っている。
つい、検討するくらいに、惹かれた。
風呂は普通にあるが、沸かした湯を湯船に入れるタイプで、熱い湯や冷めない湯には飢えている。どんなに心地いいか知っているぶん・・だから、いつかのように差し出された腕に、手を重ねて、いた。
若い時期なので、血気盛ん、かな・・・。




