「白き雌狼」亭 3
「やあ、くつろぎのところを突然申し訳ない。」
地位と身分を笠に着た輩が、無理を押してもいいだろう対象に向けて発する、あるある台詞の一つに分類さる・・・のだが、この男ににこりと笑みを湛えられると、まあいいか、と、胸に落ちてしまう。
「----…ほど、全開…。」
小さく小さく、青年の唇が呟きを落とす。それから、青年もまたにこりと笑った。
「構いませんよ。食事はだいたい終わりましたし。」
「この店の料理は美味いだろ。俺もときどき無性に食べたくなる。いろんな草が効いているからな、中毒性も高いんだろ。」
男が片目を瞑ってみせたのは、麦酒のジョッキを三つ抱えてきた店主らしき人物だ。
「やめてくださいよ、人聞きが悪い。」
まんざらでもないというか、嬉しそうに頷きながら、彼らの卓にジョッキを置く。
「ワインが有名だが、麦酒も美味いんだ。ワインは遠隔地に運べるが、こっちはそうもいかん。だから、わたしはまず麦酒を勧めることにしている。どうぞ、お近づきになるしるしに。」
男はさっそく一口飲み、満面の笑みを浮かべた。店主はまた嬉しそうに笑って、給仕が急いで運んできた皿を、いつものですよ、と言いながら置くと一礼して離れていった。
傭兵稼業がら、こういったやり取りは特別なことではない。用心棒ひとすじならともかく、愛想は標準装備だ。人にうまく交わり情報収集もできないようでは、はっきりいってちゃんと稼げないものだ。
「では遠慮なく」
暫く喉越しを楽しんで、押しだという男のつまみを一切れもらったりもして。
「東ラジェとは珍しい。」
ジョッキを空にしたところで、男が口火を切った。
「そう、ですかね?」
そもそもここはどこなんだ、と思いつつ、曖昧に流そうとしたが、青年は明確に答えを返した。
「折り紙付きの治安を誇るこのあたりに、わざわざ東ラジェの傭兵を呼びつけるような求人はないだろう。」
「お誉めいただいて。経費度外視の君たちはよほど得難い傭兵というわけだ?」
「こちらの方に私用があったから、食費と宿代をもってもらうかわりに護衛をする契約が経済的だっただけだ----俺の書いた書類に何か不備でも?」
「そうだなあ、…わたしは、個人的な理由からここに来たんだけどね。それは別に君たちが特別だから、ではない。わたしは、この街に初めてきた、遠来の人にはなるべく会うようにしているんだ。門衛にその旨を通達しているから、君たちは国外だろ? もう直ぐに知らせが来たから、夕食をちょっと遅らせてもらってとんできた。」
ニコニコと笑っているが、言っていることが普通じゃない。門衛に通達とか、報告とか-----本当に、なんだ?
青年をちらと見たが、青年は何も応えない。ただ、とても緊張しているのは分かった。そんな余裕のなさは、出会ったばかりを思い起こさせて、可愛かったな、と妙な懐旧の情につながる。
「…異国のお話がお好きか?」
そんな金持ちもいる。
「いや? ただ、わたしを知らないかを尋ねたくて。」
「----は?」
あんなに賑わっていた店内は、いまや静まり返っている。だれもが男を見ている。男もそれはよく分かっているのだろう。ぐるり、と店内を見渡して、大きく肩をすくめてみせた。
「ここに居る、というか街の者で知らぬ者はいないことだが、わたしには記憶がない。もう十数年前にもなったが、わたしは川辺に倒れているところを発見されたのだが、それ以前のことは何も思い出せず、近隣にはふれも出されたが、身内だと知己だと名乗る者は現れなかった。」
「それは----ご苦労成されましたな。」
頭に強い衝撃を受けて、一時的に記憶が混乱したり、前後を喪失した者を知らない訳ではないが、十数年戻らないまま、というのは重過ぎる話だ。
「ありがとう。皆親身にしてくれるから、不自由はなにもないのだけれど、やはり気にはなるからね。これだけはわがままを通させてもらっている。」
人気の舞台の看板役者の、その見せ場を見守るごとくに、だれもが男の次の言葉を待っている。
「君たちは、わたしを知らないかな?」
「----初めてお会いする。」
「----これが最初だ。」
ふたりの言葉に、周囲の空気は一気に溶けた。男も、もう慣れっこなのなのだろう。特に残念そうでもなく、
「また空振りだ。」
と、誰ともなく陽気に言って、周囲をどっと安堵の喧騒に揺らす。
「…お戻りを。」
護衛が、動き始めた店内を縫うようにして男の背後に立った。
「ああ、そうしよう。----ところで、あなた方は今夜はここにお泊りの予定かな?」
「ああ、先ほど店主に申し出てところ、空き室があるということなので、」
「そうか。では、ラグ! すまんがキャンセルだ。」
男は店主に向かって声を上げ、
「今夜は我が家に泊まられよ。」
と、ふたりに言い渡した。
「…突然なんです?」
「傭兵の二人連れ、と報告があったけれど、」
皮肉ぽささえ、色気が上がるのだから、
「あなたは確かに傭兵だ。だった、かも知れないが。」
存在感が凄まじい。
「あなたの息子さん----届け出はそうなっていた、…は、とても傭兵とは思えない。」
青年はやれやれ、というように肩を小さく揺らした。
「そこそこ長くやってきたつもりですが…では、なんだと言うんです?」
「士官、いや、将官クラスだな。使われる方ではない。」
男は断じた。
「そして、いのちをたくさん喰らっているな。ああ、勿論自分で切り殺しただけじゃなく、いのちの上に自分が在ることを知っている----矛盾するのは、そんないのちを喰らいつくすような戦役は、義父どのの現役時代ならいざ知らず、今この花陸では随分起きていないということなのだが・・・。」
つい数年前、大陸は血臭に満ちていた----が、ここは余程の辺境か?
いや、随分、という言葉の範囲には個人差が?
「なににせよ、義父どのと似ている。」
「それは畏れ多い。」
これは本当に絶句する面持ちで青年は返した。ということは、青年は男がだれなのか判っているということだ。卓の下で青年の膝を叩いて「教えろ」と睨んでみたが、小さく首を振られた。そんな余裕はないということらしい。
「あとは----妙に懐かしい気配がするんだよな…・君は本当にわたしを知らないのか?」
「十数年も経つのに、未だに王都で語り草となる伝説の優勝者だろう?」
「そっちか!? 昔の話だ。若気の至りだな。」
男は立ち上がり、再び移動を促した。
「宿泊先を我が家にしてもらうだけだ。古いが、でかさと頑丈さは折り紙つきだから、窮屈な思いはさせない。傭兵ふたりという職業届には疑問があるが、悪い感じはしない。何ごともなく明日になれば、予定通り旅立ってもらってまったく構わない。」
街の重要人物らしい男にこう言われては、今夜泊めてくれる宿はないと判断せざるを得ない。もう言に従うよりなく、二人は席を立った。今日は立て続けに事が起きすぎる。いったいどこにたどり着くというのか。
「落ち着きたいだろうが、もう少し耐えてくれ。」
杖を手にするガイツに申し訳なさそうに言う。
「数日前から、対岸が何やら騒がしい。渡れる筈はないし、そこでこれみよがしな演習をして、こちらの気を逆撫でたいだけだろうと判断してはいるが…。そこにあなたたちだからな、少し警戒させてくれ。」
ガイツが歩きやすいように、他の客に道を空けてくれるように頼みながら先導する男は、なかなかの気遣いの人だ。しかし、青年を観察する目は止まらない。
「----義父どのに。」
ガイツには、青年のなにが男に刺さっているのか分からない。
「この際、会わせたい。」
「お断りする。」
あまりにきっぱりとしているから、男は目をぱちくりとさせてしまう。
「会わせてくれ、という懇願はよくされるのだが。」
「一介の傭兵が欲しがる顔つなぎや便宜には、高等すぎますから。」
「…一介ねぇ、」
「泊まるだけでいいのでしょう?」
踏み込むな、と、ここに至っても突っぱねる胆力に、呆れたように感心したように、了解と応えが返った。
刻はすっかり夜に移り変わって、窓辺の光を反射して、白い破片がちらちらと空から舞い始めていた。
「いくら何でも早すぎだろ、今年。」
ぼやいた男は、思っていたよりもたくさん待ち構えていた随行の一団に向かっていく。自分たちを連れていく打合せに、男が離れた一瞬を捉えて青年が口早に囁いてきた。
「この先《《どんな》》言葉が出てきても、騒ぐな慌てるな。俺が説明するから、決してあのひとに聞くな。」
「わたしは先に戻るが、…何かリクエストはあるか?」
「着替えを買っていきたい。荷物は預けっぱなしで、この通りの身一つだ。まだ開いている古着屋があれば途中寄らせてくれ。」
「分かった。そのように。」
男が軽く頷き、立ち去りかけて、また振り返った。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな。わたしはデューン。サクレのデューンだ。」
「サクレ?」
店にいたはずが突然野外に移っていたのだから、異常事態に距離も今更かも知れないが、そこは花陸の南部中央に位置する東ラジェの高台から、晴れた日にかすかに見える蒼牙山脈の麓だ。葡萄酒の名産地として知られる。火矢川を挟んで『凪原』と接していた国境の街だったため、開戦時に奇襲を受けた激戦地の一つ。かなり街は破壊されたと聞くが、こんなに復興したのか。
領主は『遠海』の東宮だが、成人前だから朱玄公爵が代行しているはずだ。
「----サクレ?」
驚き《きづき》は波状攻撃のようである。
領地の名前を冠して名乗るということは、領主一族であるということだ。
「ご無礼仕った。たいへん高名なご領主殿のお身内とは存じ上げず。」
木の枝の杖をついているから、いまいち決まらないが、丁寧に礼を施した。
「こちらこそ、名乗りもせず。わたしはガイツ・イセロと申す。」
「あまり恐縮されては困る。わたしは、彼の血縁ではないし、ただの平民だ。」
男は今度こそ馬上の人になった。出立、と声がかかり、案内役の隊士二人を残し、一団は見事な統制で駆け去って行った。
「だれが、ただの平民…」
引き攣った呟き。互いを棚上げしてないかと思ったが、ひとつまた気づく。
「つまり、我が家というのは領主館のことか?」
「ここの場合、・・・城だ。」
「・・・ご領主さまは在館かな?」
うっとりと呟いたガイツに、青年は長く白い息を吐き出した。




