34 妻恋すらし
ヴァルティスversionです。
広場は混乱していた。
あちらこちらで暴漢が都廻り役によって拘束されているが、小さなカフェのテーブルを挟んで、暴漢と対峙している女性の後ろ姿を確認したクラージは、ヴァルティスの側を離れ、暴漢の背後に回り込むべく移動していった。
「・・・魔女め!!」
罵る声が聞こえた。よく見れば女性は身重のようだ。それで他の客のように逃げられなかったのだろう。
「魔女め。あんたはおれを呪ったんだ。魔女の呪いだ。こんな何もかもうまくいかないのも、苦しくてひもじくてたまらないのも!!」
暴漢は、ぶるぶると小刀を持つ手だけでなく、全身、瘧のように震えている。正気ではない、のか? 「・・うーん、人違い・・魔女がぼくに化けた、んじゃないかな?」
刃物を突き付けられている女性にはしては、とても落ち着いた声だ。
「あんたは魔女だ!!」
「黒猫は飼っていないし、箒で飛んだこともないけど----きみは、ここでそれ使っちゃうと、もっといろいろうまくいかなくなる、んじゃないかな?」
「!! 呪いだ! いま、おれを呪っただろう!?」
泡を吹きそうな恐慌状態で、目の前の女性しか見ていないようだが、注意をひかぬよう位置を調整しながらヴァルティスもまた現場への距離を詰める。
「いや、まさかまさか。忠告っていうか、」
都廻り役の接近を気取られぬよう、会話を引き延ばして時間を稼ぐ、恐ろしく肝の据わった女性のようだ。
「魔女め・・、消えてしまえ!!」
都廻り役が不審者の肩に触れる、わずか一呼吸前、刀が振り被られた。女性が咄嗟にテーブルを蹴り飛ばしす対応を取ったのに目を瞠ったが、しかし、一瞬バランスを崩した不審者は逆に前のめりになってテーブルを、彼女の方に押しながら距離を詰めた。
女性が手を伸ばして、刀を防ごうとするのが見えた。横合いから体を抱えるように引き、逆の手の杖を不審者の腹にめり込ませた。
椅子が、からりと倒れ、どっ、ともんどりうって倒れた不審者をクラージが制圧するのを確かめて、礼儀を守って、すぐに女性から腕を引いた。
奇妙に馴染んで、放しがたかったのは・・なぜだろう。
「なんて無茶を!! あなたは母になる人なのだろう!?」
彼女はヴァルティスを振り仰いだ----朝靄の森に最初の曙光が差したような、榛色の、瞳と、目が合った。
「・・アダルヘルム・・?」
懐かしい、忘れたことのない声で、もう誰も呼ばない名を呼ばれた。
記憶のままの姿を、呆然と見返した。
「----まぼろし、か?」
何も考えられぬまま、本当にそこにいるのかと伸ばした手を、がし、と掴まれた。肩がはねる。
「幻でも他人の空似でもない。」
強い、瞳だ。
出会った最初から、自分を捉えたのはこの眼差しだ。
「ウィアトル・・?」
杖が手から滑り落ち、からからと石畳に転がった。手を頬に添えれば、柔らかな感触と確かなぬくもりがあって、彼女は心地よさそうに目を細めて頬を摺り寄せてくる。
顰めた眉に、瞼に、目じりに、頬を辿って唇に、瞬きを忘れた視線を注ぎながら、指で辿っていく。
「どうして、今まで、どこに、なにが、どういうことなんだ」
問いただすというより、混乱が言葉を吐き出させている。
火事で死んだ筈の妻が、その時のままの姿で、いま現れたことが理解できない。
彼女は五か月前から、九年前に遡って、自分と出会い、六年前から、一月前に戻ってきたと説明した。
「ぼくはきっと、この子をちゃんと産んで幸せにしてあげられる分岐を探して、いまに戻ってきたのだと思う。」
と、六歳の子の手を引いているならともかく、六年前の子がまだ産まれていない理由を、そう述べる。大きなお腹で。
彼女の目は真摯であるが、そんなことがあるはずもない。
首こそ振らなかったが、心は明らかだったのだと思う。
「信じられないのが普通だと思うし、それでいいよ。」
諦めたようなそれは訣別の言葉に聞こえた。
「侯爵がちゃんと生きていてくれて、こうして会えて・・嬉しい。」
自分も嬉しい、のにそれは声に出来ず、壊れたオルゴールのように彼女の名を呼ぶだけだ。
「ルフェードは? あの子も勿論無事だよね!?」
いっそなりすましならとすら思うが、彼女が、確かに彼女であるという証拠を積み重ねる。
「ああ、王都駐留の騎士団に見習いとして入っている。」
「それって、レイドリックのところってこと!? 」
他の男の名を親し気に呼ぶのに、胸の中がささくれ立った。
「いつから? 知ってたら、もっと前に会いに----いやだめか、戻ってきたぼくじゃないと、分からない訳だから・・ああ、もうややこしい!」
あえて陽気に振舞って見せている----ような、物の言い方だ。
彼女とて困惑しているに違いない。
六年。しかも、ただの六年ではない。戦の中の、数多命がやり取りされた期間だ。彼女も行方を絶ったが、自分たちもまた行方を消した。
探したが、見つからなかった。そう言ってもらう方が、傷は浅い。自分も彼女を諦めたのだから、おあいこだ。
「ウィア、」
あの子は産まれなかったのか。
その子はだれの子なのか。
別れた日のままの、彼女の姿。自分の子を孕んで、生まれる日を指折り数えていたままの。
しかし、それは六年も前のことで。
火事から助かった彼女は錯乱してしまっていて、その時産めなかった子をこれから産むと思い込んでいると判断した方が理性的だ。
病ならば、同調してやるべきだ、とその理性が囁く。
だが。
・・・だが!!
なぜ、いまになって?
六年、も、あって。
誰かの子を身に宿す前に、どうして再会できなかった!?
身なりも調っていて、荒んだ暮らしの気配もない。
----自分ではない、誰かのもとで。
喚き散らしたかった。血が滲むほどに爪を立てて、掌を握りこんだ。
それとも、すべて狂言か。
運悪く、出くわしてしまったから、狂った振りでやり過ごそうと?
「暫く、暁で世話になる予定だから、生まれたら報せてもいいかな。あなたに顔を見てほしい。だめ・・かな?」
浮かされたように喋っていた声が途切れた。小さな吐息があって、彼女は握っていた手を放した。一歩離れて、互いの間に空気が入って、ぞくりと体に震えが走った。
不審の気持ちが伝わったのだろう、彼女は辛そうに目を反らした。
それを慰めてやりたいと思うのに、言葉が出てこない。
愛しさは、ただ体の内で渦を巻いているのに。
信じるといえばいいのか? 騙されてやるのが、大人か?
困惑を浮かべた女性が近づいてきて、男に向かって膝を曲げて礼を取ったのはそんな時だ。
「御無沙汰しております。ヴァルティスさま。夫がいつもお世話になっております。」
気持ちの整理もつかない中、第三者に声をかけられて、冷ややかになりそうなところをぐっと抑えた。よく見れば、知っている顔だ。
「リセリオンの御内室、このような災難に巻き込まれて不運だった。お怪我は?」
「ございません。」
もう一度頭を下げてから、女性は彼女に向き直った。
「・・シカさま、大丈夫ですか? 肝が冷えましたわ。体調は?」
親しく声をかけている。知り合いなのか、とぼんやり思い、次に大剣の鞘で頭を殴られたに等しい衝撃を覚えて、男は目を見開いた。
「エディラ夫人、今日、確か、」
聞いている、彼女の役割を。
「はい。夫の頼みで、こちらの方のお買い物にお付き合いしておりましたの。公爵様さまの大事な方だから粗相がないようにと申し付かっておりましたのに、こんな騒動に遇わせてしまって、」
「閣下の客・・つまり、」
愛妾として迎えられる、という・・。
喘ぐように言ったことに、察したらしい彼女がリセリオンの奥方を再び遠ざけた。
----だれだ?
叫び散らしたいような衝動を抑え、目で問うた。
「ぼくの名前はマシェリカ。」
果たして、彼女はその名を告げた。
「『白舞』のシハク伯の長女。」
「・・四英雄の、白き御手、」
シャイデで、最も有名な、四つの名の一つ。
夢のような、『凪原』玉座の戦い。少年のような短い髪の、よく似た・・・。
「ライヴァートの誕生の宴に招かれて王都に向かう途中、立ち寄ったテュレで薬草採取中に行方を絶った。」
「聞き知っている。」
「おおよそ四か月後に、この体でテュレで倒れているところを発見された。行方を絶っていた間のことは何も思い出せずに、」
「・・ああ、」
「『白舞』に戻ることはできないのなら、「暁」で過ごすと良いとエヴィが言ってくれて、」
「・・いずれ愛妾に迎える女性のために、屋敷を準備してくれと閣下からは申し付かっていた。」
大事な、女性だから、と。
面倒ごとを、とあの時は自分は思ったが、いま、自分以外が、彼女をそう形容することが、苛立たしい。
マシェリカ姫だと聞いて、腑には落ちていた----が。
「うん。恙なく離婚を進めるために、どうせ偽名だし貸してもいいかとは思って。借りは返したいし。しかも、目くらましにもなるし? ほら、マシェリカはいまライヴァートの婚約者候補をやっているそうだから?」
「知っている。」
他人の、妻を、なんだと・・・。
「すごいな、侯爵。かなりの機密事項だろうに。リセリオンより上の地位っぽいし、あ、『凪原』の出で重用されている人がいると風の噂で聞いていたけど。」
「閣下に拾っていただいた。」
比喩ではなく、まさしく。
「うん、エヴィの見る目は確かだよ。」
主君の才はとてもよく承知し、敬愛を捧げているが、彼女の口から出たその名はチクリ、いやグサリと胸内を突き刺した。
「今は、全部思いだしたのか?」
これほどに波立っていて、平坦な声が出ることに、遠い部分が呆れている。
「すっきり、だよ。いやあ、あっちに行って忘れ、こっちに来て忘れ、我がことながら、老いたあとが心配だ。」
彼女は腹に手をあてて、目を閉じた。長く立たせてしまっていたことに、慌てて手を差し出した。
「…座りなさい。」
そして。
目障りならどこかへ、自分ではなく、他の男の手を借りて去ると言う彼女に、猛烈に腹が立ち----それは、彼女の話を信じなかった自分への怒りだった。
お腹に負担がかからないように、けれどしっかりと抱き寄せた。
びくん、と腕の中の体が震えた。
「おまえは、わたしの妻なのだからわたしの側に居なくてはならない。」
「----だって、」
見上げる、見開かれた森の双眸。
美しい。万人が最上という貌ではないだろう。だが、はじめに視線を交わした時から、いつでも好ましく思っている。
強気で、自分のある----脆くて、迷う。
背反する、貌を持っている。
「閣下には、出会いの軌跡を与えて下さった感謝と六年もおまえを隠したことの恨み言を申し上げよう。」
「いや、ぼくは別にエヴィに隠されたんじゃなくて、ぼくたちが-----ぼくが、選んだ結果の結果だと、」
唇を指で押して、言葉を止めた。
すくい上げた両手に許しを乞うように唇を寄せる。
「いまは閣下を語らないでくれ。どうか、わたしだけを語ってほしい。おまえを信じなかったわたしを存分に叱ってくれ。」




