31 もとの身にして
リセリオンの奥方はエディラと名乗った。とっつきにくそうな、硬質な雰囲気の夫とは真逆な、笑顔が明るい、いい意味で素朴な雰囲気の女性だ。
夫妻の間には娘が一人。乳母と侍女に預けて来たというから恐縮すると、
「夫のたっての頼みですから。」
と、つんと言ってみたものの、たちまち笑み崩れた。
「もう、今日が楽しみで楽しみで。」
「・・はぁ、」
「娘が生まれてからは、家の近くを散歩するくらいの外出だけで、娘は可愛いのですけれど、家の中で決まった家人とばかり話している、とやっぱり気は詰まってきますから、とてもありがたいお話でしたの。」
理詰めな夫とはやはり反対の、柔らかな話しぶりで懐に入ってくるタイプだ。
「それに、同じ年くらいの方と聞いて、どんなお話をしようかと考えるのも楽しくて。リオン・・夫は、公爵様の御客様だ、ばかりで、何だか曖昧なことしか言わないのですもの。」
「それは、」
彼にしても説明しがたかった、のだろうと申し訳なく思ったのだが、朗らかにエディラは笑った。
「だから、こうしてお会いできるまでがとても楽しみでしたの! わくわくしていましたわ! ・・内緒ですけれど、夫と初めて二人きりで出掛けた時くらいに。」
悪戯っぽく言い足すから、つい笑ってしまって、打ち解けた雰囲気で「お出かけ」は始まった。
花屋で種苗を探し、乳棒や乳鉢、薬用の秤、各種の瓶や軟膏を入れられる蓋つきの陶器などを買いまわった。
エディラは不思議そうにマシェリカの購入品を見ていたが、賢い男の妻らしく踏み込んでくることはなかった。陶器の店で、エディラは大皿を一枚買ったが、彼女が行きたいところはないか、と聞くと、中央広場のカフェがリクエストされた。
昼にはやや早い時間だったが、広場を見渡せるテラス席はほぼ埋まっていた。
「滑り込みセーフです。」
一番端の最期の二人用の席にマシェリカとエディラは通され、それぞれの随従は室内席となった。
給仕が持ってきたメニューを開こうとした時、ざわ、と周囲の空気が不穏に揺れた。広場に駆け込んできた数人を、その後ろから追いかけて来た都廻り役が一人、また一人と捕縛していく。その最後の一人が、行く手を失って、カフェの方に突進してきた。それを目にしたテラス席の人々は恐慌に駆られて、我先に席を立ち、周囲はひどい混乱状態となった。マシェリカは動かなかった。転倒事故に巻き込まれる危険性を考えたからだ。
ふーふーと肩で息をしている不審者と、悠然と席に腰かけている身重の女がテラス席に残った。さながら舞台のようでもあった。
不審者はあたりを見渡した。何か縋るもの求める、不安定な視線だ。怖がっている気配はなく、じっと観察する目とぶつかって、びくりとした。が、肩越しに都護府の役人を確認し、弾かれるように動き出す。ゆっくり立ち上がったところのマシェリカに、机を挟んで小刀を突き付けた。小さな机だから、切っ先は十分に彼女の喉元を捉えている。
「何をした?」
ちら、と刃先を見た後、全く揺らがぬ声で、不審者を真っすぐに見据えて問うた。
「盗みか?傷害か?」
刃物を突き付けながら、むしろ怯えた様に彼女を見ていた不審者は、ふと眉根を寄せ、穴が開かんばかりに凝視してきた。
「----おまえ、・・・あの時の女だな!?」
凄まれた。へなへなと座り込むところだろうが、彼女は冷静に首を傾げた。
「すまない。ここ数カ月の記憶が曖昧なんだ。」
正直に言ってみたが、
「はあ!? もっと前だよ!」
不審者は癇癪を起したように地団太を踏んだ。
「あんたがお頭や姐さん、アニキたちを全部燃やしちまったから、おれらはこんな暮らしをしているんだぞ!? なのにあんたはまたそんな腹をして!! いい気なもんだ!!」
錯乱している。また、と言われても、初めてなのにと目を細めた。
「孕んだ女とガキだけの家なんて楽勝とお頭は言っていたのに、館内を漁っているうちに何故だか次々におかしな様子になって。そんな時じゃないってのに、お頭と姐さんはしけこんじまうし、アニキたちは喧嘩を始めたり、突然昏倒したり・・!」
髪も髭も伸び放題で、服もひどく汚れているが----とても若いのではないか、と推測する。
「女の影を----見たんだ。中庭の木立の中に。腹が大きくて、この家の女だと思ったから、何とか窓をたたき割って追いかけたんだ。」
強盗犯だと自白していることに気づいているのか。
「----あんた、だ。」
うわごとのようだ。薬か。
「湖の上に立っていた。あんたの目に見られて、おれは意識を失って土手を転げ落ちた。・・気がついたら、ひどく焦げ臭い匂いがして、家は囂々と燃えていて・・・あんたは空を飛んで逃げたんだろう! 魔女め!!」
魔女という呼称は当たっているが、一般的な意味でのそれだろう。小刀がぶるぶる震えながら上がっていく。シカさま、とリセリオンの奥方が悲鳴を上げた。
「魔女め。あんたはおれを呪ったんだ。魔女の呪いだ。こんな何もかもうまくいかないのも、苦しくてひもじくてたまらないのも!!」
ぶるぶるぶる、小刀を持つ手だけでなく、全身、瘧のように震えている。黒目は目の中でうろうろ回っている。更に呪われるのではないかと視線を外せないのかも知れない。
彼の向こう、都護府の役人が距離を詰めつつある。
「・・うーん、人違い・・魔女がぼくに化けた、んじゃないかな?」
「あんたは魔女だ!!」
「・・黒猫は飼っていないし、箒で飛んだこともないけど----きみは、ここでそれ使っちゃうと、もっといろいろうまくいかなくなる、んじゃないかな?」
「!! 呪いだ! いま、おれを呪っただろう!?」
「いや、まさかまさか。忠告っていうか、」
背後を取るまでのカウントをしながら、言葉をやり取りする。あと、五、四、・・。
「魔女め・・、」
三、
「消えてしまえ!!」
振り被った。ち、と舌打ちしながら、マシェリカはテーブルを可能な限りの力で蹴り飛ばした。不審者は、一瞬バランスを崩したものの、逆に前のめりになってテーブルを、彼女の方に押しながら距離を詰めた。
鈍っている、と身重の身に相応しくない感慨を抱きつつ、指の一本二本は仕方ないか、と振り下ろされる小刀を掴もうと手を伸ばした。----伸ばした手を、後ろから体ごと抱えられるように引かれて、その人は杖を不審者の腹にめり込ませた。
マシェリカが座っていた椅子が、からりと倒れ、どっ、ともんどりうって倒れたその者を、カウント0でたどり着いた都廻り役が制圧にかかる。
「なんて無茶を!! あなたは母になる人なのだろう!?」
腕は礼儀正しく離れ、助け手の男性は叱責を振らせてきた。真っ当である。お礼を言おうと振り仰いで----黄昏の、空の、色の、瞳と、目が合った。
「いざという時のために仕込んでおいて良かったな。」
と、彼女は最後の戸を釘打ちしながら呟いた。
家のあちこちに焚いたのは幻覚の香(量を揃えたので、睡眠系、催淫系、など種類はさまざま)が上手く作用してくれているようで、単に家捜ししているだけではない騒動が伝わってくる。
よし、と木槌を放り投げ、湖に向かって歩き出した。
「怖い思いをさせたなあ、」
一足先に行かせた義息子を思う。
賭けのようなものだから安全圏にいてもらいたかったのだが、ちゃんと慰めないと内傷ものだ。
もう一艘の舟の舫を解いていると、
「待ちやがれ!」
と、若い男が一人追ってきた。----が、土手沿いに適当に編んでおいた草の輪にひっかかって、土手を上から下まで転げ落ちた。
背中をぴくぴくと震わせていたが、よろよろと起き上がった。ふらふらと近づいてきて、掴みかかってくるのを避けようとしたが、朦朧とした状態の動きを読み切れず、腕が肩辺りにあたった。制御されない力は思いのほかに強く、足場の柔らかい水辺とあって、ぐらりと上半身が泳いだ。転倒してはだめだ、ととっさにお腹を庇って、すがるものもなく、身体が宙に浮く感覚。背面は水か桟橋の端か。有難くない選択肢だと思いつつ、衝撃をできるだけ逃そうとしたところで----意識は途切れた。
あけましておめでとうございます。
本年も、よろしくお願いします!




