30 我が身ひとつは
それは偶然であり、または必然だった。
夏の休暇を、父親の「暁」に戻るタイミングに合わせて申請はしたものの、まさか通るとは思わなかったから、息子はかなり着の身着のままで旅路に出ることになった。
『冥府の渡し守』亭で朝と昼の中間のような食事を堪能した後、背が伸びて家に残してあった服は着れず、父の服を借りてしのいでいる息子の服をあつらえようと、父子は最近とみに賑やかになった中央広場へ抜ける小路を歩いていた。
遷都が予定されているという、確かなウワサが流れ始めて、移転してくる店や人は日ごとに増えつつある。
この小路でも、間口を大きく開いた店舗向けの住宅があちらこちらで普請されている。
「王都とは逆です。」
息子は感慨深そうに言った。
「あちらでは少しずつ店が閉まって人がいなくなっている。まだまだ不便というわけではありませんが。」
「正式な布告が為されれば一気に進むだろう。」
「それはいつです?」
「わたしはただの陪臣だ。国の決断を直接知る立場ではない。----が、先日王都に久方ぶりに行き、間もなくだろうという感触は得た。個人的な判断だが。」
息子がじっと言葉を待っている。
「空だよ。」
いま彼らの頭上に在るのは、まだ昼間は暑いが、どこか秋を感じさせる、高く抜けるような空だ。
「兆候が見えた。数年前に初めて王都に赴いた時も、突発的な変調はあったが、いまは常態化している。」
融界の。
息子は空を見上げ、それから王都の空を思い浮かべようとしたのだろうが、やがて諦めて首を振った。
「分かりません。」
「見たことがあるから分かるようなものだ。この界でただ一度記録されたに過ぎない。シュレザーン団長がいま王都に駐在しているのは、経験者だからだ。」
『凪原』王都よりは浅かったが、『遠海』王都も浸食は免れなかった、という。
自然崩壊に任せた方が侵食範囲が抑えられるという、公爵の分析はまったく理解できないが、彼がそういうのならばそうなのだろう。
「あの王都も無くなる、のですか。」
罪深さを噛みしめるように、父子は視線を交わした。
あの、あと。
ヴァルティスは一度だけ、廃都に足を運んだのだ。正確には自分が発見された位置まで。
そこにはなにもなかった。
空なる断絶と言えばいいのか。空に向かって穴が開いている----この界から切り離されたものが、あった。
二人の前方で激しい音が起きた。粗忽な大工が材木でも倒したのかと思ったが、
「この盗人ども!!」
と、剣呑な語を含んだ怒声が響き渡った。
「こんな真っ昼間に?」
息子が呟くのと重なるように、その先の家から数人がまろびでるように外へ飛び出し、こちらに二人がいるのを見取ると逆の方に駆け出して行った。
「待ちやがれ!! だれか都護府に連絡してくれ!!」
家の主人が地団駄を踏み、拳を振り上げながら叫ぶが、小路は静まり返っていて、誰かが出てくる気配はなかった。
「ぼくが、」
息子が軽やかに走っていき、角を曲がって見えなくなった。
男は石畳に杖を鳴らしながら、紅潮した頬の主人へと歩み寄った。
「どうした?」
「これは・・・だんなさま。」
男が誰であるかは知らなくても、整えられた身なりから上層の人間だと判断したのだろう。主人は腰低く応じた。
「盗人と言っていたな?」
「へい。見てくださいよ。」
と、身体をずらし、室内を見せた。
「ここには、住んでいるのか?」
「いいえ、店を準備してほしいと頼まれていまして。でも、内装の職人が足りなくて順番待ちの状態なんですよ。漸く、明後日くらいから入れそうだという連絡を受けて、暫くぶりに裏口開けて入ったところ、奴らと出くわしたんでさ。浮浪者どもが入り込んでいやがって!! 御覧の通り、ひでぇ有様で!」
被害を指さして、訴える。
「まだ煙突がちゃんと通っていない竃で何か煮炊きしたんでしょう、煤だらけ! 火事にならなかったが不思議なくらいで! ごみは散らかし放題! トイまだ水洗の工事をしていないのに使ったんでしょう。臭気がひどいし、おそらく詰まっちまってる!!」
「なるほど。」
盗人というよりは不法侵入と占拠か。
「街がどんどん賑やかになっていくのは大歓迎なんですが、喰い詰めた汚い連中が、うじのように集まってくるのは早く駆除してもらわないと!」
どぎつい表現に、男は少し眉を顰めた。
「・・・相談施設に誘導するように、見廻りを増やそう。」
「へぇ。ありがたい。もしかして、かなり偉い御方でしたか? こりゃ、願ってもない。」
揉み手をせんばかりだ。
「『凪原』連中、喰い詰めたのは、まるで『遠海』が悪いような逆恨みをしやがるんでさ。住まわせてもらっているだけありがたいと思ってもらいたいですよ。」
「いまは同じ『遠海』の国の民、等しく「暁」の民として扱う。国王陛下と朱玄公爵閣下の布告を読み返せ。」
「おっと、失言でした。」
へこり、と頭を下げるのと首を竦めるのを同時にやってのけた。
「連中も気の毒っちゃ気の毒。甲斐性のない王様のせい、それを諫められなかった貴族のせい、」
上目遣いに男を窺って、にやりと笑ったのだ。
「あんたにも責任があるんじゃないですかね? フルークのとのさま?」
基本は気のいい、けれど視野の狭い、どこにでもいるような初老の顔が、のっぺりと表情を失った。
「いやあ、まさか、こんなところでお会いできるとは! なんという偶然、なんという僥倖!」
くつくつと顔は平板なのに、喉は笑いを発する。
「お子様も随分大きくなりましたな。あの時はただ震えている子どもだったのに。」
「・・貴様?」
前動作もなく伸ばされた腕を避けて、咄嗟に後ずさった。何とか杖を付いて、平衡を取り直す。
「おや、また逃げられた。」
頭の中で警鐘が鳴り響いている。
「貴様は、」
「お久しゅうございますなあ。」
操り人形のように、ぎくしゃくと。
その動きを、見たことが、あった。
「あなたの奥様に剝ぎ取られて、もはやこれまでと思いましたが、何とか息を吹き返すことがかないましたよ。でも、戻ってきたというのに、白氷妃様もみんなもすっかりいなくなってしまって。困ったことです。」
「あの・・界魔か。」
石のような塊になったモノを、ここに残してはおけないと妻が持ち出して----どうなった?
「この老人はこのあたりの顔役で、まあまあ過ごしやすい入れ物でしたが、」
ずるり、と舌なめずりをした。
「あなたは本当にいい。どうせこのまま居なくてはならないのなら、贅沢ができる体がいい。」
主人の背が縮んでいく。足先から溶けているのだ。
「相も変わらず気色が悪いものだ。」
「お目を汚しを。入り込むと器を溶かして出るしかないのですよ。----でも、あなたは大事に大事に使いますよ? 男ざかりで、男前で、おそらくまた高い地位にいるのでしょう? 誰もが一目を置くような貫禄がある。とても楽しい人生を送れそうだ!!」
「高く買ってくれているようだが、不快だ。」
「ご謙遜なさらず!! 以前もあなたが有益だからワタシが遣わされたのですよ?あなたが味方に在ったら、『凪原』は滅びなかったでしょうに? この、裏切り者め。敵国の高官に成り上がって、のうのうと暮らしている売国奴め。」
今更、男が動じることはない。
「そのわたしは、お前だろう? 私の外見にそれほどの価値を見出してくるとは、・・・馬鹿にしてくれるものだ。」
ひんやりとした温度で呟く。
「いま、成り代われたところで、貴様がわたしとして振る舞えるとは到底思えぬぞ。」
「試してみなければ分かりませんよ! 」
「わたしを軽んずるにもほどがある。そして、我があるじどのをも。」
足元に水が広がってくる。前回は妻が綺で退けたが、男にその異能はない。走って逃げるのも、おそらくコレは脚の悪い自分よりも速いし、そも背を向けるのは悪手だ。
胸辺りまで溶け、まるで湯につかっているような様子で、
「意識はすこーし残してあげますよ。ワタシの中できちきちする感覚が大好きなので。」
楽しそうに悪趣味なことを言う。
男を取り囲むように水たまりができていく。観念したと思ったのか、界魔の溶ける速度は増していった。斜めに傾いだ顔が恨めしく目を剥きながら、ごぶりと水面の下に沈んだ。一瞬の凪。そしてフライパンに卵を薄く伸ばした後のように、ポコポコとあちこちが盛り上がった。
その一つが音もなく大きく膨らんで、男の足首に巻き付こうとし-----!
杖が水の中で濁った音を立て、続いて沸騰石の比ではない、建物を揺らすような衝撃音が空間を満たした。
音が散って、乾いた床の上に小さな石が一つ。
腰を曲げて拾い上げた男は、持って歩いていた小さな袋の中にそれを落とし入れて、口を堅く縛った。
息子と共に、都護府のお仕着せ姿が、血相を変えて走ってきた。
「どうしました!?」
「クラージか。」
「これはヴァルティスさま!」
顔見知り(上司の幼馴染らしい)の都廻り役だった。
「界魔だ。」
「は・・は!? ここにですか?」
「人の皮を被れる界魔だった。この家を所有する老人が犠牲者だ。家族を探して説明してやってくれ。見舞金の手続きも。」
「父上、よくご無事で、」
息子が青ざめた顔で傍にやってきた。
「公爵閣下の周到さに感謝だ。」
杖の持ち手に填めたあった水晶のような玉がなくなっていた。有難そうにその洞を撫でた男は、遠く風を伝って届く不穏な気配に視線を巡らした。
この日の騒動はまだ終わってはいなかった。
今年最後の投稿でした。
皆様良いお年をお迎えください。




