20 よくある婚約破棄騒動 その16
塔の上の人が退場すると、居合わせた人々の熱気は薄れていった。
通りの奥から別の一隊が到着し、その半分と先に追ってきた騎士が合流して城壁の外に向かっていく。墜落した界魔の確認任務だろう。
残った半分は何をするのかと思えば、天幕を設え始めた。
荷馬車がやってきて、そこから軽やかに降りた娘が良く通る、甘やかな声で呼びかけてきた。
「ケガをされた方はいますか?」
人目が自分に集まると分かっている動きで、天幕を指し示す。
「こちらで手当てをしますから、どうぞお並びになってくださいな。界魔を取り逃がしたため、皆さんにはとても迷惑をおかけしました。怖かったですわよね? 申し訳ありませんでした。」
「あの、界魔は何をしに・・、」
恐る恐る問いかけた町の女に、少女は少し声を抑えて応えた。
「よくは分かりません。見つかった後は、あっという間に逃げ出してしまいましたから。」
偵察。暗殺。襲撃。
界魔による。
----やはりウワサは真実なのだと母国の暴挙は胸を重くしたが、ならば我々の選択はやはり正しかったのだと、都市に敵軍を無抵抗で受け入れた後ろめたさが薄れていく。
ルフェードは移動しようと踵を返した。掌の端の皮は少し擦り剝けていたが、手当がいる類ではない。
「血が出ている、腫れているなどの症状がある者は、左の天幕の前に並ぶように。」
弾かれたように、振り向いていた。
よく知っている声に、よく似ていた。
左右の天幕。
右の天幕の前には、旅装ではあるがレースとフリルがたっぷりのドレス姿の、いかにも貴族令嬢然とした少女。ふんわりと愛らしい笑みを浮かべながら、けがの手当てではなく、巻き込んだお詫びを口にしながら、兵士が運んできたパンを配っている。対して左天幕は中で手当てをしているようだ(出てきた者はパンを兵士から渡されている)。
ルフェードは近くの壁に掌を強く擦りつけた。血が滲み出てきたのを見て取って、左の列に並んだ。
順番が来て、天幕に入る前に桶が出されて手を洗うよう指示された。血は洗い流されて、ぶつぶつという痕だけになった。
向こうと言われたら、手首も痛いことにしようと思いつつ中に入る。
「見せて。」
少年が、その声で言った。
「手首ひねった感じは?」
「・・・ない。」
短く切っているからなのか、記憶の髪の色より少し暗い色合いだ。
「転倒したときに硬いもので擦ったんだね。家の人は一緒だったの?」
「・・父さんは家にいる。」
「お使いの途中だったのかな。偉いね、お手伝い。」
体は健康そのものになったが、年齢よりも身体は小さく、三つ四つ幼くみられることが多い。
「薬付けておくね。」
傍らの台の上に置いた小壺から、軟膏をへらで掬って、傷口の近くに置いた。
「伸ばして? そうそう、上手。」
傷の手当てをしてもらったことは、そういえばなかったけれど、飲み薬を飲むときにその言い方で誉めてくれた。
「え・・染みる!?」
涙ぐんだルフェードに慌てて手を取って、指で丁寧に平をなぞった。
「石が入っていたり、はしないようだけど。」
「ごめんなさい。大丈夫です。染みてません。・・ちょっと、」
「ああ、そうだよね。いきなり界魔に出くわしたら吃驚するよね。ぼくたち、もう慣れちゃってるもんだから。そのへん無配慮だった。----怖かったね。」
さら、とあの感触で頭を撫でられた。
「・・界魔はまた出たり、しますか?」
会話を続けたたかった気持ちのせいで、うまい感じの不安さが声に乗った。
「ぼくたちが駐留る間は、また送られてくるかも。でも、うちの部隊は対応も慣れているし、綺の遣い手も多いから。」
「さっきの塔の上の人、ですか?」
「そう。派手だったよねぇ。隠す必要がなくなったのが嬉しいからかどうかは知らないけど。」
親し気にくすくす笑う、知らない顔。
「もし、腫れてきたらこれ使って。」
と、陶器の小さな薬入れを渡された。
「じゃあ、お大事に。つ・・、」
「あのっ、」
次の人と、自分から離れていった視線が戻ってきた。
「他に痛いところあるの?」
同じ髪の色同じ色の瞳同じに響く声----けれど年齢が違う。いって十代後半くらいだ、この人は。
いやそもそも、と思い乱れながら。
「あの・・・お姉さんとか年上の女性の従姉さんかとか、います?」
「は?」
ルフェードが幼げでなければ、問答無用で叩きだされていた台詞だったかも知れないが、切羽詰まった顔を見取ったからか、答えてくれた。
「えーと、兄貴がひとりいるだけで、いとこは男女ともいない。」
「そう、ですか。ありがとうございます、教えて下さって。」
落胆しながらも礼儀正しく頭を下げたルフェードに、育ちいいね、と感嘆しつつ、
「どういう意味か聞いても?」
「似ている、女性を知っていたので。・・・あなたより十くらい年上の。」
「ふぅん。」
面白そうに目を動かした。
知らないのだ、と判った。
入口の布が揺れて、兵士が顔を覗かせた。時間がかかっていることを不審に思ったようだ。
「去年、亡くなったので。お顔を見て、少し吃驚してしまいました。・・手当ありがとうこざいました。あなたは、どうぞお気をつけて。」
後方支援でも従軍しているのだから、心からの祈りの言葉を向けた。
「うん、ありがとう。」
「----あの、お名前聞いていいですか?」
「ルドゥシカだよ。」
「----男性の、名前ですよね?」
男装している、少年にも見える中性的な様子のひとだ。
「そりゃそうじゃない?」
気を悪くした様子もなく、彼は言った。
「『白舞』の薬師は男と決まっている。」
「----薬の匂いがするな。」
アジトに戻って、父のもとに顔を出すと、まずそう言われた。
「うん。都市に界魔が出たところに居合わせて、ちょっと転んだ。」
そうして掌をみせれば、軽く撫でられて、くすぐったそうにすると、ほっとしたように頷いた。
「界魔ははぐれか? このあたりでは界落はまれだ。」
「偵察か、暗殺のためじゃないか、と町の人たちは噂をしていたよ。」
「暗殺・・・あちらの国王はまだ前の都市に滞在しているのに?」
「軍師が先行しているそうだよ。」
「ああ、あの、」
現在、花陸で最も注目を浴びているといって過言ではない人物だ。
「父・・父上、」
改まった様子で呼びかけ、姿勢を正してルフェードは父親と向き合った。
「父上、我らはあちらに助力すべきだと思います。」
それがいままさに、組織で意見が分かれていることだ。頭領の息子とはいえ、年齢を弁えて考えを口にしなかったルフェードの突然の表明に、父親は目を瞠った。
「この薬を塗ってくれたのは、母さまによく似ている少年でした。僕よりちょっと年上で。母さまに該当するような親族はいないと言ってましたけれど----きっと、どこか遠いところではつながっているような、そんな人でした。」
「----そうか、」
彼女の顔を思い出している、そんな目を父はした。
「従軍している彼は、この先にも随行するのでしょう。僕はあの、母さまに似た人に死んでほしくない、生きていてほしい。母さまを殺した戦争を始めた陛下よりずっと、あの人に生きていてほしい。」
でも父上の判断に従います、と最後に言い置いた。
哀しいほどに、大人びた顔をしていた。
国の混乱はもう極まりを過ぎて、ある者は見立て、ある者は肌で感じていた。
その崩壊をいかに軽くできるか、その模索をする時期だというのに、その動きが確認できない。王都近辺に残存兵力を結集する動きがある。決戦で状況が打破できる、と思っての決断ではないはず・・・。背水の陣をちらつかせて、交渉の使者を立て、降伏の条件を模索するよりない、と分析するのだが。
逆転の目など、もはやどこにもない。
隣国占領時には人狩りをしていたという信じられない報告もあるが、連合軍の激怒した進軍は、恐らくそれが正しいという裏付けであるのだろう。
----国は、亡ぶのだろう。
それでも。
戦の中、疲弊した民の苦しみを少しでも和らげる活動をしてきた。けれど、ここから先に踏み込むことには、躊躇う。
「売国、」
春。ここから長引けば、今年の収穫は昨年より更に落ちる。冬を越せない民が、今冬より増す。
「救国、」
生きていてほしい人、を息子は挙げた。
自分が生きていてほしい、子が。
「---彼らの命乞いだけは、決してしない。」
答えはもう、決まっていた。




