16 よくある婚約破棄騒動 その12
欝な展開です・・・。
割れた指先がひりついて、血が溢れていくのは分かったが、だからといって手を引くことは許されるはずもない。
頬に力を入れて痛みを堪え、目は伏せたまま作業を続けた。
とても単純な、力のない子どもでもできる仕事だ。だから賃金は安く、だから自分のような身寄りのない子どもも使ってもらえる。
朝から夕方までの立ち仕事。昼に僅かな休憩がある。だから、列の少し先の子どもが一人、ぐらと体勢を揺らしたと思ったら、そのまま地面に崩れ落ちた。見張りの男が怒声を上げながら走ってきて、助け起こすのではなく蹴り上げて、ぐったり弛緩した体を引きずっていく----そんな場所だ。
夕方、その日の賃金を受け取ったら、身を小さく目立たぬように、素早くその場から別の人ごみに紛れる。うしろの方で今日の被害者が哀れな声を上げているが、振り返ることはない----総て身をもって学んだ処世だ。弱いやつ、容量の悪いやつ、優しいやつから潰れていく。代わりはいくらでも、いる。
人波の中を駆けて、家に帰りついた。勝手口から入る。まず積まれているゴミを捨てに行き、それから鍋を井戸端で洗う。ようやく血が止まった指先がまた鮮血を噴き出すが、力を入れないと煤や油は取れない。ちゃんと洗えているか目視の確認があり、機嫌がよければそのまま、悪ければもう一度井戸端に戻らねばならない。今日はすぐにしまうように言いつけられた。そこで漸く、今日の賃金すべてと引き換えに夕食を受けとれるのだ。固くなったパンと、今日は少しだけ肉が入った野菜くずのスープだ。その場でかきこむように食べて、与えられているねぐらに入る。そうじ道具置き場の空いたスペースに、掃除道具の奥に隠すように置いておいたボロボロの毛布を広げた。一枚しかないから、二つ折りで敷き布と掛布にする。
朝は朝食を作り始める前に、調理用の水を井戸から運ばなくてはならない。水を運んだら、朝食と昼用のパンか炒った豆がもらえる。
初めの頃は、横たわった後もなかなか寝付けなかった。いつまで続くのかと思い悩んだが、いまはただ眠るだけだ。
暖かい空気を少しでも体に纏わせたくて小さく手足を畳み、服の内側に外から分からぬように縫い付けたものに掌を重ねるようにして目を閉じた。
昼の休憩。
物陰に身を寄せて、炒った豆をゆっくり噛む。少しの塩味がして、腹持ちもいいから、固いパン一つよりも嬉しい。
「おい、ネズミ。」
ぬ、と影が差した。洗髪なんて随分できないから、埃と油に汚れて、灰色にしかみえないごわごわの髪の毛。いい喩えをしたとにやにや笑いながら、少し年上の少年が威圧的に言った。
「いいもん、喰っているじゃねぇか。」
黙って袋を差し出した。
「分かってるじゃないか・・なんだよ、これっぽっちか? ち、しけてんな!」
受け取った袋の軽さに不満そうに唇を尖らせ、一蹴り残した。その背が見えなくなるのを待って、袖の中に予め移しておいた豆を少しずつ取り出して口に運んだ。強者は搾取していいのなら、弱者は機転をきかすしかない。
この町には、リグリュンが連れてきた。当初は彼の知り合いだという、小さな貸本屋にお世話になっていた。寝台も食事もある、普通の生活だった。だが、その店の主人も御多分にもれず徴兵(というより、人さらいのようだった)の憂き目に合い、彼よりも少しだけ年上の娘を連れて奥さんは実家に身を寄せた。男手のいない家の物騒さは身に染みていたから、それが正しいと思ったし、実家も娘と孫とはいえ二人分の食い扶持の負担は重いから、彼を連れて行けないこともあたりの前だと思った。
せめて孤児院にと連れていってくれたが、このご時勢でそこもいっぱい。辛うじて紹介された(あるいは押し込まれた)のが、今の家と仕事だ。軍が募っている日雇いに参加して、その賃金を入れるのならねどこと三食を与えてやる、と。実際には、屋敷の雑用にも細々追い立てられながら、息を潜めて過ごしている。
生まれてから、つい数か月前まで、丁寧に大事に扱われることしか知らなかった彼にとって、大驚失色の暮らしの始まりであった。突然(自他問わず)ふるわれる暴力、罵声、搾取に怯えて----慣れた、または麻痺していった。
そこから逃れるために、暴力を振るう方になる気はなかった----から、その対象にならぬよう慎重に立ち振る舞う目を持つように、努めた。
そんな生活の中、ふと自分の体が思いのほか丈夫になっていたことに気づいた。咳が出て、食べるどころか息もできないほどの咳に苦しみ、喉を腫らし熱に苦しみ、部屋の外にはめったに出られず、体調が良いから少し風に当たれば、また咳が出て・・・を繰り返していた数年前の状態だったら、幾何もなく死んでいた。
彼女が----義母がくれた命だ。薬だけではなく、毎日、用意された食べ物が自分を作り直してくれた。改めて、思った。
泥の中で足掻く様な日々でも、だから沈み切らずに必死に藻掻きつづけて、いる。
気を付けていたはずだったが、その日、久しぶりに捕まった。
出せ、と突き飛ばされて、まずは軽く四方から蹴られた。賃金を渡すと、今日の夕飯はもらえない。家の仕事を増やせば朝食はもらえるだろうけれど、すきっ腹で過ごす夜は辛く、長い。
それでも出し渋って、働けない傷を負えば、命に関わる。唇を噛みながら、賃金を取り出して地面に置いた。
「素直だな。おい、次に行こうぜ。」
「----お前さ、」
立ち上がろうとした彼に覆いかぶさるようにして、一人が厭な笑い方をした。
「服の下に、なんか持っているよな?」
引っ張られて、布の鉤が外れた隙間から目ざとく見とがめたようだ。
「何だよ、それ。隠しているところからすると、いいものだろう? 出せよ?」
と、手を伸ばしてきたのを、思い切り払いのけていた。
「触るな。」
触れようとするな。目が燃えるように熱かった。
「お前たちには関係がないものだ。」
「偉そうな口をきくじゃないか。ひょろひょろのガキが?」
無気力に従っていた子どもの豹変に呆気にとられたのち、彼らは面白いおもちゃを見つけたとばかりに目を輝かせたのだ。
この少年たちの親は町の中では有力者で徴兵も免れている。裕福だから、いいものを食べていて、もとから小柄だったがさらに痩せて薄くなった彼とは違う、しっかりとした肉付きをしている。兵隊をまねて、ミニ愚連隊ごっこをしている。
「どうせ、ひいひい言って差し出すことになるんだぜ、ぼっちゃんさ。」
「ほーら、優しく骨の一本くらいで済ませてやるうちに出しときなよ?」
彼の腕を掴んで捻り上げ、そのまま折ろうと手を伸ばしてくる。
----隙、だらけだ。
手を避けて、地面に体を転がした。一回転して、間髪入れずに立ち上がり、目の隅であたりをつけていた、運搬車からこぼれたのだろう薪を手に、彼らに向き直る。
体が弱かったから始めたのは、普通より遅い。だが、領を離れてからは、父が一対一で遅れを取り戻してくれた。今までは受け身くらいしか使ってこなかったけれど。
「へ、騎士ごっこかよ!」
「その枝ごと、身体折ってやるよ!!」
暴力沙汰には慣れてはいても剣術を習ったことはない少年たちには、彼の構えの正確さは分からない。窮鼠猫を噛む程度のもの、と大勢を過信して突っ込んできた。
----全員を昏倒させ、自分が置いたままだった賃金をとりあえず回収した。運の悪い子どもが今日もなぶられているのか、と思っていたら、体格に勝る相手を各一太刀で制圧した。呆気にとられた周囲の視線に、薪から手を離して、それが倒れていく中で彼は途方に暮れていた。
目を覚ましたら間違いなく報復に来る。剣技を用いて応戦した子どもの噂も立つだろう。
・・ここにはいない方がいい。でも、どこへ?
何とか環境に目を凝らして過ごしてきたけれど、子どもの視界には限界がある。項垂れていきそうだったその時、パチパチと小さな拍手が聞こえてきた。振り返れば、灰褐色のマントを纏った剣士が手を叩いていた。彼が自分を視界に入れたのを看取って拍手を止めると、深く下ろしたフードの縁に軽く左手をあて、僅かに動かした。確証はなくただ、直感のようなものに彼は目と口を少し開けた。剣士はフードを下ろすことはなく、黙って踵を返した。興味を無くした他人のような動きだった。
びくん、と倒れた少年の一人の体が震えた。目を覚ました後の騒ぎに巻き込まれたくないとばかりに取り囲んでいた人々が動き出した。彼が弾かれたように走り出していくのも、逃げ出すのが当たり前だとばかりに、誰も気には留めなかった。
彼が剣士に追いついて、しかし剣士は振り返らなかった。人通りのない小路に、す、と曲がって、だれも入って来ないことを確かめてから、剣士はマントを後ろに払った。
別れて一年も経っていない、のに。灰色がかった金髪は、色が抜けてまだらな灰色に変わっていた。
けれど、冬の黄昏色の瞳は柔らかく彼を見た。
「父さま!!」
胸の中に飛び込んだ彼----ルフェードは、囲い込むようにきつく抱き締められた。




