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11 よくある婚約破棄騒動 その9

「やあ、奥さん。」

 いつものように顔を覗かせたその人に、いつものように呼び掛けた。正しい呼びかけなのだが、視覚的に、どうしても違和感がざらつく。

「こんにちは、ご主人。」

 いつものように、礼儀正しいアルトより低めの声。

 線の細い、若い男----ではなく、れっきとした人妻だと知っている。

 国境に続く道沿いの、小さな宿場町----急ぎであれば素通りされてしまうが、大きな街より宿代が安いから、そこそこいつも賑わっている----に、その一家がやってきたのは春の浅い頃だった。旅の装いだったが、旅館ではなく役場を訪ね、老婦人(住人)が子どものところで暮らすといって町を離れてから暫く空き家だった町外れの家を借りた旨を証明する書類を提出した。

 アヴァロンに籍がある学者で、この周辺の植生調査をしに来たのだそうだ。少なくとも一年は滞在する予定で、旅館より家を借りる方が経済的ですから、と三十半ばにみえる一家の主は穏やかに言った。

 何の特徴もない地域に、学者先生が目をつけるような珍しい植物()()()あるのか、と首を傾げれば、そういう地域だから調査がされていないので、とのこと。

 長期になるから同行してきた家族は、学者と同じ色の瞳をした幼子はともかく、妻、と書類にも記載された人物については物議を醸していた。つまり、男性の恋人を言い慣わしていると思われたのだが、ややして共同浴場でその妻と会った奥様連中が、まあ、露わに確認して、話は落ち着いた。旅役者の男役よりずっと凛々しい、というのが現在の評価だ。

 さて、学者の妻は何をしに来店したかというと、旦那の調査で見つけた《薬草》を買い取ってもらいに来たのだ。彼女自身は何の学位もないが、旦那の調査で記録を請け負って(助手をして)いるから、自然と詳しくなったという。生活費の足しにしたいが、引き取ってもらえないかと相談されて、今ではすっかりお得意様だ。

 初めは薬草そのものを(軽く干して)束ねて持ち込んでいたが、いろいろ話し合いの結果、加工しての納品になっている。ドライも粉末化も、素人とは思えない適切な処理だから、卸先の評判も上々だ。

「じゃあ、今日の勘定だよ。」

 主人がカウンターに積んだ硬貨はいつもより多い。収めた薬草は前回と同量だったはずだ、と首を傾げるのに、

「最近注文が多くなっていて、少し値上げしても飛ぶように売れるんだ。血止めとか、気付け、痛み止め、化膿止めの材料はとくに売れ行きがいい。また頼むよ。」

「うーん、助かるけど。もう秋も半ばだし、夏のようにはいかないよ。」

 困った顔をしたものの、春浅い頃にやってきた彼女は楽しそうに身を乗り出した。

「この辺りの冬はどんなものが一般的に採れるんだい?  雪は降るけれど、すごく積もるのはひと冬に三回かそこらだと聞いたよ。」

 そう前置いて、冬の草花や球根など幾つもの名をあげてきた。助手()でこれなら、専門家()はどんなレベルなのだろうか。ちなみに主人は雑貨屋の()()()であるから、輸入されてくる品も心得ている。

「火矢の向こうのヤツにも詳しいとは、さすがアヴァロンの学者ご一家だ。」

()・・・()()、か。」

 何故か気まずげな顔をして、彼女は肩を竦めた。若い娘達が「格好いい!」と絶賛するのはこういう仕草だろうと思った。

 パン屋に寄るよ、と笑って去っていた彼女が残した品をしまいながら、取引先が本当に薬師の仕事ではないのか、と聞いてきたことを思い出す。

 薬といえば、『白舞』だが。

()()()、だしなあ。」

 『白舞』の薬師は、()()()()()

「旦那の仕事を手伝って目利きに為れるんだから、才能はあるんだろうけど。」

 残念だ、と呟いた。


 「火矢河、か。」

 焼きしめたパンと日持ちのする根菜類、それから小さな焼き菓子を入れた籠を手に家路を辿る。

 侯爵家の食客から侯爵夫人、そしてアヴァロンの学者の妻、と肩書が変遷しつつ三年。記憶は戻らない。初期(はじめ)に診察してくれた侯爵家の主治医は、明日にも戻るかもしれないし一生戻らないかも知れない、と言った。記憶を刺激するようなものがあれば戻る確率は高くなる、とも言ったが、身元が不明なのだから、刺激されようもない。

 ただ、何となく分かったのは、生まれは火矢の向こう側だろうということだ。薬草の知識が、そちらの植生に傾いていることで気づいた。こちら側にあるものも知ってはいるが、馴染みの濃さが違う。

 あちらへ渡れば、何か思い出すのだろうか。一人になるとぼんやりそんなことを考えもするが、だからといって、いま己を囲むものを置いてまで、記憶を取り返したいという思いには駆られない。

 ・・・いつか。

 そう、いつかでいい。そして行くのなら、一緒だ。

 家で待っている夫と義息子を思い浮かべて、柔らかい笑みを浮かべた。

 ひと冬を匿ってくれた侯爵の友人の伝手の、ひまごくらいの伝手で借りることができた家だ。そこそこ裕福な商人の別宅だろうか。木立の中にあり、しかも裏手は湖に面している。舟遊び用だろう小さな桟橋付だ。湖は火矢河の支流とつながっているから、いざという時の脱出路としても優秀だ。

 南側に門を開き、小さな前庭を経て主屋の玄関に達する。主屋と、渡り廊下で結ばれた東西の棟が中庭を囲んで建てられている。造園に悩んだのか興味なしだったのか、中庭は低木とわずかな花壇だけだったのに、実は目を輝かせた

 早速、怪しまれないくらいに持ち出せた薬草を植えられて、一夏越えたいまは薬草園といっていい感じになってきた。湖からの水気を含んだ空気が良い具合に働いてくれた。植物には良かったが、建物はその分傷みやすいようで、湖に近い東西の棟の半分はかなりの手入れが必要な状態だった。もっとも基本、家族三人暮らしだから主屋の部屋だけで事足りている。

 ここに定着する(留まる)のならば、修繕を考えねばならないが、最初に町で披露した筋書きにおそらく書き変えはない。

 次の緩いカーブを曲がれば、屋根の一部が見えてくる。もう少しだと思ったが、疲労感に勝てず、手近な木陰に入り込んだ。籠を地面に置いて、幹に背を預けて息を調える。

「・・体力、落ちているなあ。」

と、ひとりごちた。最近すぐに息が上がるし、何となくだるいし、熱っぽく感じる日もあるし、手足が妙にむくむし。不調を数えながら、水筒を口に運ぶ。

「・・にが、・・」

 まさか悪くなっているのかと、クンと嗅いだが異変は感じられなかった。

「そういえば、今朝のごはんもやたらに匂いがきつかったけど、二人は何も言わなかったし?」

 味覚障害と付け足して。

 季節の変わり目だから。

「・・・ん?」

 この症状で相談があったら、と客観的に振って不調を調えるハ―ヴの調合を考えているうちに、じわじわ目を見開いていく。

 夫のいる、(若い)女。月のものは、いつ。

 ----まず疑うのは、風邪では、ない。

「・・・たいへんだ。」

 動悸が上がってきた。落ち着きなく瞬いて、再び籠を持ち上げた。

 

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