10 よくある婚約破棄騒動 その8
最初の台詞だけ、が甘いですが、全体として殺伐路線です。
「私と結婚してほしい。」
と、突然(と思ったのは、自分だけだったらしい)跪いて手を取られた。
目を瞠った、視界の端で、求婚者の妹と息子が目をキラキラさせている。
「わたしは君からするとかなり年上で、子どももいるし、相応しい相手ではないとは思うけれど。」
「いや、侯爵、ぼくこそ、」
記憶は戻らないし、たぶんそこそこ年増だし、薬草を煮詰めたり刻んだりはできるけれど刺繍とか編み物は(きっと)できないし、言葉遣いも記憶関係なくこれが常態だと思うし・・・断りの理由が身体の中でぐるぐると回っていた。
でも、それは申し込んだ人こそよく分かっているだろう。
だから、理由にはできない。
「侯爵は侯爵で、ぼくはなにものでもないけど、」
「承知している。」
貴賤結婚でも、というのが彼の意思で。
「・・ぼくは、」
記憶のない部分が奇妙に疼く、気がして瞼を落とした。
《そうねぇ》
ふんわりとした幻の声。
《結婚はしたいわねぇ。》
《・・意外。》
《あら、これでも、いつでも来てくれと言ってくる人はいるのよ?》
《そうじゃないよ。あんたは見た目は砂糖菓子だけど、中味は激辛・・、》
《失礼なことを言うのはこの口かしら!》
《頬を抓るな! 見た目通りじゃないってのが、あんたの武器だろ! ?》
《わたくしはね、父さまたちのような関係がほしいの。互いが互いを支える----どちらが舳先に立っても、遜色なく海路を渡れる相方。》
《・・ふぅん?》
《※▽★はどうなの?》
《----考えたことない》
《あら、わたくしにだけ答えさせるのはずるいわ。》
《ぼくは◆□〇の☆◎だから・・、》
記憶は甦った先から崩れて、留まらない。
つまり。思い出せない何か。は、だから、いいんじゃないかと振り切る方へ滑る。
ウィアトルは、瞼を上げた。
「うん、侯爵、・・・えーと、はい?」
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参城したフルーク侯爵と婚約者は、エルーシア侯爵令嬢にかけられた疑いを晴らし、王太后の名の下に、王太子の有責で婚約は正式に破棄された。示された賠償は即支払いが可能な半分を受け取った。全額であれば、王太子領の大方を手放すことになっただろう王太子はあからさまに安堵し、王太后も感謝するように小さく頷いた。
フルーク侯爵は領地にて暮らす許可と、仮身分だったウィアトルを侯爵家の正妻として貴族簿に正式に登録させるよう求め、受理された。
即日、フルーク侯爵一家は、国の東南部に位置する領地へと旅立っていった。傷心ため、とても登城できる状態ではないと沈痛な表情で説明されたとエルーシア嬢も同行したと都では思われたが、領館に暮らすのは侯爵と若妻、世継ぎの侯子だけであった。
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王都の侯邸から、領館へ移って、変わったことと変わらないことがある。
一番大きな変化は、侯爵と一緒に目覚めること。三人で朝ごはんを食べることは変わらない。その後は都にいた時のように、銘々の活動だ。侯爵は執務室に入るか、領地の巡回に行く。侯子は勉強時間。ウィアトルは薬草畑と研究室を往復する。昼食は殆ど別だ。お茶の時間に、ウィアトルと侯子がたまに合流して、一服ののち庭に出ると、やがて侯爵もやって来る。夕餉の後、侯子がおやすみなさいを言った後は、また二人で過ごす。
時間が、穏やかに、優しく、この家族を包んだ時間は一年と少し。
秋の終わり。静かな夜を、都からの急使を乗せた馬の蹄の音が蹴散らした。
「----王太后陛下が、弑された?」
都の侯爵邸は閉じたが、諜報のために家臣を残してあった。
「はい! お忍びで観劇の帰り、馬車が襲われたと。」
「なんと酷い・・夜盗の仕業か!?」
「・・いいえ、」
使者は、疲労なのか恐れなのか、震える手をぎゅっと握った。
「フルークの紋章を付けた者たちが、馬車を襲った・・・そうでございます。」
アデルヘルムは大きく目を瞠った。
馬鹿な、と同席していた執事やリグリュンが声を上げた。
「婚約を破棄された恥辱を晴らす、天誅だと叫んで襲い掛かった・・と噂になっております。」
婚約は、王太后の名の下に破棄されたことは確かだが。
これ見よがしに紋章を付けての襲撃など、普通に考えればなりすましを疑う事案のはず。
「----王家はそれを・・受け入れたのか?」
使者は顔を伏せた。是だ。
「紋章だけではございません。襲撃現場に、エルーシア様が----エルーシア様によく似た女性がいたという目撃証言が幾つも挙げられています。」
「エルーシアが王都に居るはずがない。」
「はい。ですが、どこに居るかも知られておりませぬゆえ。侯爵様、ここはエルーシア様に報せて、まずその疑いを晴らされては?」
使者が苦しげに言う。疲れが一気にきているのか、使者の体からはどっと汗が滴って、床に水たまりを作るほどだった。
「このままでは、謀反の疑いでフルーク侯爵家は潰されてしまいます!」
血を吐く様な声だ。どれほどの焦燥を抱えて早駆けしてきたのかと、アダルヘルムは心打たれて膝をつき、手を差し出そうとした----のを、後ろからぐい、と手荒に引っ張られた。
「全員下がって!」
ウィアトルだ。
「どう、」
「早く!」
侯爵を押しのけるようにして前に出る。
侯爵のつま先まで迫っていた汗の流れが、彼が数歩下がったのをまるで追うようにピシャン、と跳ねた。それは認めたものの、アダルヘルムはさすがに動けなかったが、ウィアトルは違った。使者の到着を聞いて、異変に備えて帯刀してきた剣を抜き放ち、打ち返したのである。
「・・へぇえ?」
くぐもった声がした。人が流した汗とは思えない水たまりの中に、使者は突っ伏すように倒れていた。彼が喋っているのではない。声は、水たまり全体から聞こえている。
「薬草に詳しいとは聞いていたけど、剣も使うんだ? すごいねぇ、お嫁さんじゃなくて実は護衛なのかなあ?」
「ぼくも使えたことにびっくりしているよ。」
ブンと剣を回す。ナタや斧、ノコギリ、ナイフは商売道具だか、これも実に手に馴染む。
「ぼくは、なんだったんだろうね?」
人を癒す手に、人を殺す武器を嗜む。少し首を傾げたが、
「まあ、どうせ思い出せないし?」
と、あっさりと片付けた。
「ハハん、聞いていた以上の変わりダネだなぁ。侯爵サマともなると、こういうノを摘まんでみたくなるのかネ?」
嘲るような言い方に、前に出ようとした夫をウィアトルは制した。肩越しにその顔を見上げて、にこりと笑う。
使者は少しずつその液体に溶けて、もう半分もない。
「美味しいわけ? 界魔」
「味はないナあ。そのへんの樹も牛も人ゲんも同じ。でも、樹の中に入って生気啜っテもつまんなイケど、人ゲんはおもしロいよナ。ユっくり、溶かしテいくとズっと、びくビクアガらってサ。脳をすすっテやるときの、ダっくんダっくんした感じトかサあ、」
吐き気を耐える者、怒りを露わにするもの、嫌悪を込めて剣の柄に手をかける者。
「でも、まッさか、こんなすぐ二ばれる予定じゃナかったんだけどォ?」
液体はぶるぶると不満を表しているのか、さざ波立てている。
「侯爵に、乗り移るつもりだったか。」
「ほんト、なんなノお嫁さん。堕ちテから、結構ナがいんだけど、見つかったこと無イんだけどさア? こんなノ自尊心傷つくナあ。どうしテ、判ったノかナあ。後学のタめに教エてよぉ?」
「ただの勘だ。」
ウィアトルは嘯いた。
「そして。後学なぞない!」
剣を握っているのと逆の手に、会話の中移していたのは衝撃を与えると一瞬だけ高熱を発する、所謂沸騰石(そこそこ高価だが火を使えない野営で活躍する)を、水たまりに叩きつけた。
白い蒸気が上がって、その場所の液体が瞬時に蒸発する。
「ざァん念、痛くモ痒くモないッ」
その、液体がなくなった場所に、ウィアトルは跳躍した、水が広がるその前に、水たまりのより中心に近い位置へ。そこでまた、沸騰石を叩きつける。再び跳躍。
「そんナ、の、」
「分かっているさ。」
三つ目の沸騰石。そこへ跳躍しつつ、懐から取り出したものを周辺に散布する。それはツユクサの一種から取り出した染料で、布に模様を描くときの下書き用に用いられる。水で洗うとその色は消えてしまうからだ。
果たして、水たまりに投げ込まれた青は一瞬揺れて、サァーっと溶けていった。
「そこか!」
ただ一箇所を残して。
沸騰石、四つ目五つ目。川面の石を跳ぶような軽やかさは、熟練の猟師が獲物を追う姿のようであった。青が薄く残ったそこへ、ウィアトルは剣を突き刺した。わずかな水深があるとはいえ、肉も骨もなく、ただの水----床に剣先をあてているようにしか見えなかった。
----見えなかったのだが。
水たまりが、悲鳴をあげた。水面がのたうつ。
「お、おまエっっ、」
沸騰石はもう消失しているのに、シュウシュウと音を立てながら、水たまりは蒸発して縮んでいく。
「き、キかっっ!?」
「そうみたいだね。」
他人事のようにウィアトルは言う。剣はまだ青に突き当てたままだ。
「なんとなく、できるような気がしたんだよ。」
「なんで、きィがァこノォくぅ、二にィぃ・・、」
酔っ払いの呂律か、壊れた楽器の最期の音か、声は次第に遠ざかる。水は退き、床は乾いて、剣の横には茶色の、小鳥のたまごくらいの鉱石が落ちていた。
「----厳封だな、とりあえず。」
◇▽※へ送ってやりたいが、とまたぼんやり思いながら鞘に剣を戻す。
「なんて無茶を!」
背中から抱き締められた。回された腕に手を重ねて、
「心拍数が上がっているな。」
「当たり前だ!」
「無事で何よりだ。」
多分、こちらの台詞とか言おうとしたのだろうが、その前に背後にある胸に、力を抜いて体を預けた。そこから見上げれば、怒ったような顔がある。
「あんたが、ぼくから奪われていかなくて本当に良かった。」
安堵が滲んだ笑みで言えば、抱き締めた腕が震えが走って、
「----年寄りをあんまりいじめんでくれ、いろいろと心臓に悪い。」
さらに強く閉じ込められていた。
※
※
暁闇の頃。フルーク侯爵家の領館は主屋から出火し、折からの風に煽られて、東西の両館も含めて全焼した。
暫く雨らしい雨が降っていなかったこともあり、乾燥した空気によって、炎はあっという間に館をなめつくした。別棟の下働きの者は全員逃げ出せたが、眠りが深い時間もあって、本館に部屋をもっていた者は、半数以上が炎と煙の中に閉じ込められてしまった。
侯爵一家三人も、それぞれの寝室付近で、大人二人こそ装飾品でようやくその人と判るほどに残ったが、幼い子供はほぼあとかたもないような惨状であったという。
早すぎる火の回りと凄まじい火勢に、失火ではなく火付けではないかという声も上がった。しかし、都から検分の一団がやってくると、侯爵には王太后暗殺の嫌疑がかかっていたという話が、いずこともなく流れた。謀反が露見し追い詰められた末の自死ではないかと、収束していった。
館にいなかったエルーシア嬢は、王太后暗殺の実行犯として手配され、それらしい女性の死体が見つかった、という。
「よい、ご領主さまだったのだけどねぇ、」
少し声を潜めて、領民はうわさをする。
「魔が差したのかねぇ、」
「若い奥様をもらって、もう一旗とでも欲が出たのかねぇ、」
「坊ちゃんも、お小さいのに気の毒だねぇ。」
「残念だねぇ、古い血筋の、代々立派なおうちが、こんな終わりとはねぇ、」
フルーク侯爵領は代々穏やかに治められてきた土地だったから領民ものんびりしていて、領主が替わるということに危機感がなかったのだ。
王都から次の領主とたくさんの兵隊がやってきた。謀反人の土地だと舌なめずりをして領内を好き勝手に荒らしまわるような暴政に晒されて、自分たちこそが残念で気の毒なことになったのだと初めて思い至った。
「どうして、領主さまは自分達を見捨てて謀反など起こしたのか」
と、恨み言が一通り蔓延して後、
「こんな連中ばかりだから、あの真面目な領主さまは耐えきれずにお逆らいになったのではないか。」
と、悲しく懐かしく思うようになるが、壊れた日々は元には戻らない。
これが、フルーク侯爵家の断絶である。
城でのやりとりは、別の位置で書く予定です。
説明的な段になってしまいました。




