9 よくある婚約破棄騒動 その7
奮闘する侍女たちに、「後を任せます」と言い置いて、エルーシアは兄の執務室へと廊下を辿った。
書斎も、家具こそ変わっていないが、本棚が幾分すっきりしていたり、壁や棚の飾り物が少なくなっていたり、もうすぐこの家を後にするのだという感じが強まってきていた。
着替えを済ませている兄は、見違えるほどすっきりとした執務机の中から、数通の書類を取り出した。
「わたしたちの馬車が出たら、お前は裏口に付けた馬車で都から離れるように。」
「突然、どういうことですの?」
自分も同行するつもりだったエルーシアは、戸惑いを隠せない。
「先に領地に行けということですか? 城から戻ればお兄様たちも発つのでしょう? なぜわたくしだけが先に、」
言いながら、兄が差し出してきた書類に目を通して、頬を強張らせた。
「クルーフェ・アルエーシ、十八歳。だれですの、こちら。」
その書類の下には、エルーシア・フルークの身元証明書がある。尋ねてはみたが、意味が分からぬほど鈍くはない。
「その名前で、国を出なさい。」
「何故です!?」
「姉上の嫁ぎ先も考えた。姉上はそなたを守ってくださるだろうが、かの国の妃殿下は殿下の叔母君だ。異国で苦労しながらお仕えしている主君との間で板挟みになるような迷惑はかけたくない。長旅とはなるが、わたしのアヴァロン時代の同窓生が五侯国にいる。長期の休暇では、幾度となくその家に招いてもらい、家族ぐるみで親しくし、今も季節の挨拶を交わしている。そこに向かえ。」
示されたのは路銀と紹介状だ。
「これは当座のものだ。クルーフェ・アルエーシの名義でまとまった金額を、東ラジェの商家----これもアヴァロンの友人だ----に預けてある。身の振り方が決まったら、資金にしなさい。」
「理由をおっしゃってくださいませ!」
「わたしは今日、おまえがレーヴェン殿下を裏切り不貞を働いていたという疑いを、ウィアトルとともに完全に晴らしてくる。お前に非は一切なく、殿下が身分違いの男爵令嬢に入れあげて目を曇らせた挙句の婚約破棄だと知らしめる。」
「はい。」
その準備は着々と進められている。
「殿下は我が家と・・・お前を深く恨むであろう。」
「・・・!」
「殿下が目を覚ますとお前は思うか? エルーシア?」
「・・・、」
「恥をかかされたという逆恨みなら、まだいい。殿下以外のだれもが、おまえとわが家の潔白を信じても、謀られたとご自分を信じ続けるかも知れない。」
フルーク侯爵は、からになった引き出しを閉め、鍵をかけようとしたが、苦笑いと共に鍵を机上に転がした。
「今は王太后陛下がいらっしゃる。すぐに何かということはないだろう。フルーク侯爵家は、明日より領地に下がり、ただの一地方領主となる。それでも、殿下の御代になったその時、何も起こらないと考えるほど楽観的にはなれない。」
今日で全てがわかってもらえる、と信じていたから、エルーシアは言葉もなく、ただ茫然と首を振るしかない。
領地に下がるのも、抗議の意味だと思っていた。まさかこちらが追い込まれている、などと----、
「・・・わたくしが失敗したからですのね。殿下の御心を掴むことができなかったことこそが、罪と、」
「違う。」
侯爵が遮った。
「わたしが、外戚としての立場を曖昧にしまっていたから、殿下が我らを軽んじて、」
兄妹は顔を見合わせた。ふふ、はは、と互いの間に笑いが散る。
互いに自分を責めても仕方ない。いちばん悪いのは、婚約を破棄したレーヴェン殿下である。
「ですが、何故今なのですか? 領地に下がって後に五侯国に発つのではどうしていけないのでしょうか。」
「今なら、あちら方は油断しているが、今日が終わった後は、こちらの弱みを何とか得ようとしてくるだろう。そして、お前が一番危い。我が家の、お前の名誉を汚すために、何が起きるか分からぬ。」
「・・随分と、殿下に手厳しいのですね?」
縁はなくなったといえど、十数年家族の次に交流があった相手だ。残念な終わりだったが、悪い方ではなかった、というのがエルーシアの振り返りだ。
フルーク侯爵の目に、鋭さが宿った。
「・・既に起こる筈もなかったことが起きた。これ以上、お前に傷を負わせるようなことは断じてあってはならぬ。----お前には何の落ち度もないのに、名を伏せ身を隠せとは酷なことを言っているとは思うが、」
「・・わかりましたわ。」
ゆっくりと息を吐き出して、エルーシアは当主たる兄に礼を向けた。
「我が家と、わたくしの為に戦ってくださるお兄様に従います。」
最期まで物わかりのいい妹である彼女を、フルーク侯爵は抱きしめた。
では戻ります、と扉を開けたところで、彼女は悪戯っぽく振り向いた。
「わたくし、見届けないととてもとても心残りで発てませんわ。・・お分かりですよね?」
フルーク侯爵は苦笑いで答えなかった。ただ、分かったというように振られた手に、その妹は圧がある笑みを置いて執務室を後にした。
アデルヘルムは別の引き出しに入れていた報告書を取り出した。
アデラ男爵についての調査書だ。
婚約破棄に至るまでは娘に何か助言指示をした形跡は見当たらない。娘は長期休暇も家に戻らなかったし、手紙の遣り取りも確認できなかった。学費は滞りなく寄附も潤沢、小遣いも十分に。しかし、顔が見えない。養女だから世間体を繕っているだけか?
いまに至っても、それは変わらない。
娘を諭して真っ青になるか、娘に賭けて野望で真っ赤になるか、普通は何らかの反応するものだろう? しかし、一切のリアクションがない。
当たり前の反応を示さない、その男爵がひどく不気味だった。
この日、王太子レーヴェンとフルーク侯爵家エルーシアの婚約は正式に破棄された。王太后が王家の都合により、と明言した。
しかし、次代の外戚として国を支えるはずであったフルーク侯爵は「王太子の御心を支えることができなかった不肖の身」と、いっさいの官職を辞し、領国へ下がった。
エルーシア嬢は、傷心を癒すために静養に出たと報告がされたが、やがてフルーク侯爵から行方不明の届け出が出され、行方は杳として知れない。
フルーク侯爵家の不運が囁かれる中、王太子レーヴェンの即位式は、予定通り行われ盛大な祝宴が開かれた。しかし結婚式は、行われなかった。
王太子、いや国王にオティリエという名の妃が在ることを、国の民が知るのは、もう少し先----一つの悲劇、あるいは惨劇の報せと重なる時期となるが、いまは水面の下のこと。
王太子即位の式典の数カ月後。
フルーク侯爵領でひっそりと侯爵の再婚の宴が催されたことを知るのは、領邸の者とそれを監視する者たちだけである。




