6 よくある婚約破棄騒動 その5
こんこんと湧き上がる泉の水面に、少し歪んだ自分の顔が映っている。水の流れと水紋が、時に鮮明に時におぼろに、自分を模る。ウィアトルと呼ばれている者の顔。一年前から、この顔はウィアトルだ。
「ウィア!!」
腰に軽い衝撃を覚えて目を下げると、今さっき別れたばかりの当主と同じ冬の黄昏のような瞳の童子が満面の笑みで見上げていた。
「どうした、ルフェ。家庭教師の先生との勉強時間ではないか?」
「先生が執事に呼ばれて、授業は終わっちゃったんだ。ウィアのところに行ってもいい?と聞いたら、いいって!」
「----そうか、」
順風満帆に思えたフルーク侯爵家だが、今、時ならぬ時化に揺られる船になっている。
「水まき、手伝ってくれるか?」
幼心に何かを感じているだろうが、そこで託されたというなら、いつも通りを期待されているのだろう。
「うん!」
泉台の下には、大小の如雨露が置かれている。
「奥の畝に掛けてきてくれるか?」
「うん!」
「いい返事だ。」
元気な声に笑い返して、泉の中に如雨露を差し入れた。
ぼんやりと映っていたウィアトルの顔は、歪んで、乱れて、すっかり消えてしまった。
耳鳴りがしたことを、覚えている。
何だったか、とぼんやり思いつつ周囲を見渡したら、直ぐ先に「戦場」が在った。
それを、どうして戦場と形容したのかは分からない。とにかく、そうと断じて背負い籠を壁に立て掛けると、必要だと判じた粉末や液体を、腰のポーチから出して走っていた。
界人は取り逃がしたらしいが、界獣は制圧できたらしい----薬が効いた、と感謝されたのは病院の寝台の上だった。情けないことに、攻撃を避けきれず転倒、背中を強打して気をう失ったとのこと。お身内に報せましょうと言われて、記憶がなくなっていることに気づいた。
頭を打ったせいだとか、人助けをされたのになんと不運なと、大いに同情された、が。
----あの場に飛び込む以前から、そう、ではなかったか、という気もしている。
背負っていた籠(ちゃんと回収してくれていた)にも、身に付けたものにも、身元を明らかにするものは何もなかった。
使い込んでいるけれど、上質なものという判断で、いまは零落しているが、もとはそこそこ良い出ではないかと判断が為されたようだった。
身元は不明なまま、探し人の届もなく。薬草薬品調剤に詳しい、ということだけが明らかで。
病院の薬局で下働きでいいから使ってくれないかなと思っていたところ、手を差し伸べてくれたのがフルーク侯爵家だつた。
あの場に、王太子の婚約者であるフルーク侯爵令嬢と、跡取りの息子が居合わせていたらしい。界獣を蹴散らしたのは、彼らの護衛と駆け付けてきたフルーク侯爵家とその護衛だった、そうだ。
いち早く駆け付けた(ことになった)ウィアトルに恩を感じてくれたらしい。
「どこから来たのか分からない、か。」
フルーク侯爵邸で、初めて当主に会ったその時、名前は思い出せないので適当にと言ったら睨まれた。
「ウィアトルと呼ぼう。お前の宿りが終わって、もとの旅路に戻る日まで。」
で、与えられたのが広大な庭園の片隅にふるコテージだった。随分使ってなかった、と言いつつ、綺麗に清掃修繕されて提供された。浴室手洗い場は勿論完備だし、台所もあるが、食事も清掃と洗濯もみてくれるという、本当に至れり尽くせりだった。
記憶が戻るまでお好きに、という感じだったが、上げ膳据え膳に興味もなかった。まずは庭園内の巡回から始めた。使えそうな薬草を探したわけだが、----そこにルフェが興味を示し顔を出すようになり、春休みで帰省したエルーシアが加わり。
興味か偵察か不明だが。
当時、かなり足を引きずっていた侯爵の緩和ケアを、いつの間にか請け負うことになり。
そして。
庭の一部と温室が、すっかり立派な薬草園だ。
しかし、記憶は還らない。薬草園を取り仕切る手際から、間違いなく、それと関わり合って生きてはいただろうけれど。
「ウィア!! 花が咲いているよ!!」
侯子が大きな声で呼ぶ。
初めは、下を向いて単語を喋るだけの子どもだった。
「ああ、セリンデンが咲いたのか。」
ウィアトルは腰のポーチからスカーフを取り出して、広げた。
「花、摘んでこれに置いて。」
「え!? 咲いたばかりなのに!?」
「これは根を太らせて使うものだから、花が咲き続けると栄養を奪われるんだ。」
「・・・そうなの。でも、花が可哀そうかも。」
「うん。だから花もちゃんと使うよ。干して、お茶の香りづけや、砂糖漬けにもする。」
「分かった。」
神妙な顔で頷いて侯子とウィアトルが並んで花を摘み始めるのを、微笑ましく見ている目が、屋敷のあちこちにあることに、二人は気づいていない。
その代表的なひとりであるフルーク侯爵は、書斎の窓辺に立っていた。薬草園にしている区画は、何とか人影が捉えられるくらいの距離なのだが、つい眺めてしまう。
天候が変わる時や特に季節の変わり目には呼吸が止まるのではないかと思うような激しい咳の発作に苦しんできた息子だ。咳が出るから外出もできず食が細いのか、身体を動かさないから食が細く咳が改善しないのか、堂々巡りで、同年代の子より小さく、内気な質に育っていた。
月に一度、母親の墓に花を捧げに行く(ということで、外出させていた)途中で、界獣さわぎに巻き込まれたところを、ウィアトルの機転で救われた。その勇姿に、感嘆したルフェードが、居候することになったウィアトルの様子を(物陰から)見に行って、ウィアトルに気づかれて。
そこで、咳の発作が起きたらしい。もう、ドラマでしかない。ウィアトルがその場で調合した薬は、それまでのどの薬よりもよく効いた。
「常用するには、強いから。」
と、ルフェードの現状に合わせた薬をそれから提供してくれている。この薬は作り立てが一番とか明らかな口実で、自分が住むコテージに呼びつけた。庭園を横切って外気に触れる時間を作った。ささやかな運動だったが、確かに食事が増した。初めは義務的だったが、確かに咳が軽くなり、食事が美味しく感じられるようになり、ウィアトルの薬草園しごとに興味をもち、外で体を動かす時間が増え・・という、こちらはまさしく正の無限ループだ。
なつくなという方が無理だろう。
学園の寮から帰宅するたびに甥の健康が改善するのに、妹もウィアトルに興味を持ち、血の道の相談をして痛み止めをもらったり、美容液の調合を頼んだり、やがて友だちのように街へ連れ立つようになった。その頃には、アダルヘルムも脚の湿布や血行をよくする薬をもらうようになっていて、家族でウィアトルを受け入れていた。
穏やかで、充実して。知らない相手がどう見るかということに、迂闊だった。
「----旦那さま、」
執事と、内務補佐官であるリグリュンと、侍女頭が顔を揃えていた。
窓を締め、アダルヘルムは執務机の前に並んでいる彼らの前に進んだ。
「此度のエルーシアと王太子レーヴェン殿下の婚約を破棄する件だが、」
椅子に座り、腕を組む。
「お労しいことでございます。」
母代わりのようでもあったから、侍女頭は真っ赤な目をしている。「破棄」騒動の日から、事あるたびに涙ぐんでいるようだ。
「レーヴェン殿下に非があることは明らかだが、殿下はどうしてもエルーシアに非があるように進めたいらしい。」
「それで、先ほどのウィアトルさまの引き渡し要請ですか。」
「いずれ城には同行させねばならないだろう。スィニー、ウィアトルの衣装はあるか。」
「着用はしていただけませんでしたが、新年の宴に合わせた衣装がございますので、格式的にそれで申し分ないかと。」
「小物類はエルーシアと相談してくれ。」
侍女頭とまず一つ目の件を済ませる。
「城での職は退く。」
三人に驚いた様子はなかった。
家の面目を潰した王子の傍近くに仕えるなどあり得ないし、残ったとしても、レーヴェン殿下からの圧力は避けられないのなら、早く決断した方がいい。
「王都の侯邸は閉じる。都に残ることを希望する者たちには紹介状と、三月分の給料を渡すように。」
「希望を調査いたします。荷造りも始めてよろしいですか?」
執事の確認に、頷く。
「領地に下がられるのですか?」
リグリュンが懸念を示した。
「婚約破棄を恨んで、領地でよからぬことを企んでいると言い立てられるやも知れません。」
「あり得るな。だが、それくらいの抗議をしなければ侮られる。そんな腑抜けだから、王家に愛想をつかされたと。どちらにしても、我が家の威信は地に落とされるだけだ。」
「なんと、口惜しい。」
「件の男爵令嬢の背後にだれがいるかは分からぬが、・・結果として、エルーシアの婚約に胡坐をかいていたわたしの失態だ。すまぬ。」
「外戚が威を張る現状に憂慮し、レーヴェン殿下の御代はもっと風通しのよいものであるべきだという、旦那様の御気持ちを踏み躙るような鈍感な方では、」
不敬な物言いに続きそうになったのを、侯爵は遮った。
「残念ながら、殿下は、我が家を頼りなく思われていた、ということだ。不徳を恥じて、領地にて謹慎すると申し上げよう。」
それから、と侯爵は机の中から便箋を取り出した。
「姉上の嫁ぎ先と五侯国のサジン侯家へ遣いをだす。人選せよ。」




