4 よくある婚約破棄騒動 その3
「王太子レーヴェン殿下の王妃となられるオティリエ様を無頼に襲わせ、拉致しようとした罪で、エルーシア侯爵令嬢を拘束する!」
と、声を発したのは、第一騎士団長を父親に持つ若者だ。
王太子の側近(内定)であったから、友好的な付き合いをしていたはずなのに、いまエルーシアに向けられる目は、敵意と蔑みだ。
余興にしても質を疑う成り行きに唖然としていた周囲が一気に色と熱を持つ。すなわち、王太子に肩入れするか、エルーシアを擁護するか。
学園の卒業パーティ、という設定がよくなかった。正式な夜会であれば、然るべき大人がたくさんいたのに、この場の大人は教職員ばかりで、学園内の立場はあっても、身分がない。
子どもたちの暴走を止められる立場の大人が不在であったことも、悪夢への階段を上がる一つとなった。
エルーシアは動かなかった。王子が突き付けてきた罪とやらは、失笑しか出ないものであったから、拘束されたとしても一時のこと。むしろ「逃げ出した」と言われることこそ、彼らを喜ばせる気がした。
ここに至って、エルーシアは自分がかなり苛立って----つまり怒っていることに気づいた。下々の言葉を知っていたのなら「ふざけるな」と喚いていたに違いない。
「悪女は罪を認めておるぞ!」
顎を上げ毅然と立つ姿を、開き直ったふてぶてしさと解釈して、側近(内定)の法務大臣の子息が叫んだ。彼と騎士団長の息子、それから王子の乳兄弟である伯爵家の子息が取り囲もうとする。
「ルシア、しゃがめ!」
まず、声が投げ込まれた。よく知った声であったから、迷わずエルーシアは小さく身をかがめ、袖で鼻と口を覆い、目を閉じた。
「・・っう、わっっ!!」
「なんだよ、この、粉、ぐっほっっ、」
「目、染み、げっほっっ、」
咳き込んだりむせこんだり。混乱が頭上で繰り広げられる中、エルーシアはその輪の中から引っ張り出された。
果たして、ウィアトルであった。
兄の代わりにエスコートを引き受けてくれたその人だ。家では無造作に括っている髪を丁寧にくしけずってから結び、礼服に袖を通せば、立派な貴公子が出来上がった。実際は、フルーク邸の食客にすぎないから入場後は、目立たぬように回廊あたりをうろうろしていると言っていたが、駆け付けてくれたらしい。
以前、ウィアトルと街歩きをしていたときに、暴漢に絡まれた時にも撃退に活躍した特製の粉だ。
「撤収するぞ。」
軍人のような口調で言うウィアトルは、胸もとから引き抜いたスカーフで顔の下半分を覆っている。研究室にいる時の姿だから、なぜかほっとした。
「ですけれどっ、」
「阿呆が言うことが分かるのは阿呆だけだ。」
無駄だ、と言い捨て、エルーシアの手を取ってホールの外へと向かう。
「み、見たか!?」
涙を滂沱のごとく流し、鼻水を啜り上げながら、側近(内定)たちは糾弾の声を上げる。
「あのように男と手に手を取って!」
王太子と男爵令嬢も手に手を取っている。
「淫婦め!」
「間男め!」
ちら、と肩越しに振り返ったウィアトルがうんざりしたように呟いた。
「大丈夫か、この国。」
この夜、同じことを思った者はとても多かった----のに。
「前途有望な、賢い王子殿下、じゃなかったのか?」
馬車の中。漸く衝撃が追い付いて、ぐったり背もたれにもたれていた。
「ええ。」
窓の外、流れていく宵の街並み。
擦れ違う、慌ただしく逆の方へ向かっていく馬や馬車は恐らくこの変事に対応しようというものだろう。
「穏やかで、思慮深い方でしたわ。」
婚約が決まった----前王が生きていて、ただの王子であった頃は違ったかも知れないが、もう覚えているのは、大人しい、自分の立場をよく理解し振る舞える子ども。
年の離れた兄と姉に甘やかされて育ったエルーシアとは真逆な。
「昨年の、夏くらいからかしら。何だか雰囲気とか物のおっしゃりようが変わられたような、とは思っていたのだけれど、」
窓に映る顔。茫然と、している。
「でも。----いいこと、なのかしら。レーヴェン殿下が自分の気持ちをはばかることなく口にできるということは。」
「----は?」
ウィアトルの眉が跳ね上がった。
「僕がエルーシアならば、横っ面を張り倒しているよ。」
「ウィアトル・・、」
「あんな人前で、罪科をでっちあげて、婚約破棄を直接、当人に? 」
吐き捨てた。
「エルーシアこそ、気持ちを口にしていい。馬鹿とか阿呆とか、罵っていいんだぞ!?」
「・・そう、ね。」
ショック、だった。怒りもある。悲しくも。
「悪い、夢なら・・・いいのに。」
うつむいた頬を、ゆっくりゆっくり涙が伝った。
「お兄様、申し訳ありません。お疲れでございますね。」
話し合いに登城していたアデルヘルムには疲労の色が濃くでていた。
「お前は少しは落ち着いたか?」
いたわるように妹を抱き締めた。
「私はむしろのんびりさせていただいてます。予定もありませんし。」
妃教育と式の準備が全部とんだのだ。
「・・そうか、」
兄は妹の手を取って、ソファまでエスコートし、座るように促した。向かいに座り、暫く黙っていた。
「すまん、お前を戻すことは叶わなかった。」
「そういう意味で申したのではございませんわ。」
慌てたようにエルーシアは言った。
「ああも邪険に扱われて、その方と婚礼の祭壇に並ぶなど想像もつきませんもの。」
「----婚約は破棄する。」
された、ではなく、主導権がこちらにある言い方に、エルーシアは首を傾けた。
「ありもしない罪をでっちあげるような王家に大事な妹を渡せるわけがない。摂政王太后さまも分かって下さって、お前にはいずれきちんと謝罪したいとおっしゃってくださっている。」
「王太后さま・・、」
摂政として忙しい中、王妃教育にはよく顔を出して「短い体験だが」と言いながら自身の話をしてくれた。王子が戴冠し成婚したら、前王の刺繍絵でも刺したいと微笑んだ。
「どんなにご心痛でしょう。」
「ああ。その中で、御当人だけが、真実の愛に目覚たから、お前の性悪な正体に気づけて、悪女のフルーク侯家は王家の乗っ取りを企んでいて、それを自分に気づかせてくれたアデラ男爵令嬢は運命の人なのだと、堂々巡りの主張される----どうしたものやら、」
「アデラ男爵令嬢と婚約、いえ、結婚は・・」
「王太后陛下も宰相閣下以下の大臣方も、現在のところ反対されている。」
「いまのところ、」
含みを持たせた言い方だ。
「身分違いの令嬢に心移して婚約者に恥をかかせ、一方的に破談を宣告する身勝手を許容はできない。殿下が主張するように、お前が稀代の悪女である動かぬ証拠でもあれば別だが、」
「私に突き付けてきた一覧は証拠にはならないのですね?」
「お前がちゃんと持ち帰ってきてくれたアレは、名誉棄損の証拠として提出してある。」
とんとん、とんとんと気にかかる何かを整理しているのか、アデルヘルムの指はテーブルの端を叩いた。
「----あの執着が解けるとは思えぬ。何とか証拠を上げようとしてくる恐れがある。」
次のとんとん、はノックの音だった。
「ウィアトルか、」
「まあ、お兄様、」
ノックの音で、扉の向こうの相手を断じたのにエルーシアは目を丸くして、ふふと笑った。
「・・仲良しですわ。」
兄は妹の感想に不審な目をしつつ、
「入れ。」
と告げた。
「失礼するよ。」
侯爵とその妹相手には、軽やかすぎる挨拶をして、盆を片手にウィアトルは現れた。細身のズボン、腕まくりしたシャツ、丈の長めのジレ----上質だが着古したそれは侯爵が十代の頃のお下がりだ。身一つだったから緊急避難的に与えただけで、何度も新しいものを仕立てると言っても、お下がりで十分だからと、季節に合わせて数着を着まわしている。
「どうした?」
使用人のお仕着せも定期的に新品を供与しているのに、ウィアトルにはお下がりだけというのは(使用人ではないけれど)どうなのかとエルーシアは思うが、兄が何となくそれを喜んでいるようなふうを感じ取ってからは、生温かな気持ちで見守ることにしていた。
「大変そうに帰ってきたと聞いて。」
盆の上には、カップが二つ。
「こっちが侯爵で、こっちはルシア。」
「私とお兄様で、違うのですの?」
「うん。侯爵は苛立ちと緊張緩和の調合で、ルシアは安眠と整肌作用。」
「まあ。」
「寝れてないだろう? 当たり前だと思うけど。」
「----ありがとう、」
エルーシアはカップを持ち上げた。甘くて柔らかい香りが鼻孔をくすぐった。
「いただきます。」
「口に合わなかったらすぐ言って。合わないのを無理して飲むのは逆効果だから。侯爵も。」
「・・ああ、」
ウィアトルから薬草茶を供されるのはもう数え切れないほどで、彼らの舌の好みを把握して調合してくる。それでも(体調が違えば)絶対はないからと確認を怠らない。
「おいしいわ。」
「----うまいぞ。」
兄妹の感想に、ウィアトルはにっこりと笑った。笑い返した兄から、無意識に纏っていた刺々しさが流れて、落ち着いていくのをエルーシアは感じ取った。合わせ技だとは賢く口にせずに、二口目を口にした。
ささやかな幸せな時は、しかし、王太子の使者が来訪したことによって、儚く散らされてしまった。




