3 よくある婚約破棄騒動 その2
エルーシアの人生は、その日まで自分の手の中にはなかった。
フルーク侯爵家に生まれ、年回りと派閥の原理で王子の婚約者となったこと、彼が『アヴァロン』を嫌がってため、王立学園の進学となったこと、婚儀の支度も、何もかも、誰かの為だ。
その日。
婚約者のそばに、あの男爵令嬢を視認た時まで。
「・・・また、」
と、友人の一人が別の友人に眉を顰めてみせた。受けた一人も難しい顔をするから、「なに?」と問えば、「何でも」と慌てて取り繕われた。彼女たちが視線を流していた方を見遣れば、「何でも」あった。
「----なに、かしら。」
不思議な光景があった。
回廊の先、王太子と側近予定(自薦他薦)の子息たちの集団だ。エルーシアと友人たち(その内の数人は側近予定子息の婚約者)がそうであるように、学園の中で特別であるべき集団である。
いつもと変わらぬ、はずが----男子の制服の中に、一人だけ女子が混じっている。
エルーシアが王太子と話すときは、友人たちも傍に控えるから、あんな状況は考えられない----集団の真ん中に、ただ一人、取り囲まれて談笑するなんて。あり得るとしたら教師だが、どう見ても制服だ。スカーフは一学年。
「どちらの御令嬢かしら。」
同じ階層であれば、違う学年であっても何となく知る得るものだが。
「アデラ男爵令嬢、だそうですわ。」
「どちらかの従属称号ですの?」
首が振られた。つまり、新与の貴族ということだ。
「そのような方が、どうやって殿下と親しく?」
「コーエンが紹介したようです。」
苦々しく言ったのは、その人物とは親類にあたる令嬢だ。
「ああいった、気安い振舞いが物珍しいのでございましょう。」
学内の交流は『アヴァロン』に倣って自由だ。異なる階層の交流は推奨されている----が、それが逆に階層を意識させる結果となっている。
ここで友のように親しもうと、ごく希少な奇跡を除いて、垣根が人生からもなくなる訳ではないということに、早く気づいた方が、踏み誤らずに済む。
「殿下は、いまを生かして、さまざまな方と交流するようになさってきましたから。」
それは事実ではあった。
もう、三年め。卒業が見えている。新入生が気づいていないのなら、諭す立場をまさか手放すとは、だれか思うか。
気が付いた時には、恋の淵に頭まで浸かって、目も耳も塞がった溺死寸前。手の施しようもなかった。
外国人の商人の養女、という学園内ですら目新しい立場の娘を、まさか学園の外でも同じところに置きたいと考えている、など想像もしなかった。
たまにすれ違う時に、やたら涙ぐんだ目で見られたり、突然噴水に倒れこんだり、粉々の植木鉢を前に途方にくれている姿も見たことがある----が、それと自分が繋げられた顛末は、本当によく分からなかった。
「断罪する。」
と、大仰な様子で王子は言ったのである。
卒業パーティだった。婚約者ならば、ドレスか装飾品とともにエスコートの約束を取り付けるものだが、まったく音沙汰がなかった。
どうやら、かの男爵令嬢とともに出席するらしいと聞かされて、まさかと笑ったけれど、まさかだった。
多忙な兄に心配をかけるのが嫌で、けれどエスコートなしに次期王妃がホールに入るわけにはいかない。着なれないんだけれど、とぶつくさ言いつつも随行してくれたウィアトルとは入場後すぐ分かれて、友人たちの輪に入ったところだった。
エルーシアとその友人たちは、王子にお手本のそのものの礼を取った。
「ご卒業おめでとうごさいます、レーヴェン様。式での代表挨拶は大変ご立派で、王太后さまもさぞお喜びでございましでしょう。」
「、ああ、うん、」
にっこりと微笑まれ、丁寧な挨拶を返されて、王子の威勢は明らかに下がった。王子にエスコートされているアデラ男爵令嬢が、ぐっと王子の腕を引いて、怯えた様に体を縮こませた。は、とアデラ男爵令嬢を見下ろした王子は、その蒼褪めた顔をみて、再び憎々し気にエルーシアを見た。
「よくも、そう図々しくいられるものだ!」
「まあ、」
エルーシアはぱちぱち、と瞬いた。
図々しいというのは、婚約者ではない相手をエスコートして婚約者の目の前に現れる者と、婚約者が居ると分かっていてその婚約者の前に体を寄せ合って立つ者のことではないだろうか。
「悪女め!」
「----まあ、」
「図星を指されて言葉もないか。ぞろぞろと取り巻きを引き連れて、女王きどりか!」
「お友だちですわ。」
学園では。そして、将来の側近候補でもある。しかし。
「皆さま、あちらでお過ごしになっていてくださいまし。」
エルーシアは振り向いて、彼女たちを促した。
レーヴェンとの婚約は十数年を遡る。つまり、ほんの子どもの頃からの付き合いだ。子どもだから、婚約も結婚も分かっていなくて、子どもらしい言い争いをしたり癇癪をぶつけあったりしてきた。が、今の彼はまったく知らない顔をしている。
断罪する、と言った。
何のことか分からないが、王子が裁くと言っているのだ。まだ側近ではない、今夜はまた友だちだ。巻き込まない、と判断した。
「卒業の祝いの席でございますよ?」
「卒業したからといって、在学中の罪が消えると思うか!」
王子は背後に控えている側近(内定)の一人から、巻いた紙を一つ受け取り、もったいぶった仕草で開いた。
いつの間にか楽団は演奏をやめ、ホールは静まり返っている。先ほどまであちこちで笑いの花が咲いていたのに、皆壁に下がって、エルーシアとレーヴェン(男爵令嬢付・背後に四人の側近あり)を見つめている。
「フルーク侯爵令嬢エルーシア、身分をかさに着て、僕の大事なリーエをいじめ、命を奪おうとしたこと、断じて許せぬ!」
賢い、聡いと随分誉められてきたが、ただの世辞だったようだ。王子が言うことがなにも理解できない。
「身分をかさに着て?」
在学中、王族の姫君・公爵家令嬢の入学がなかったから、侯爵家のエルーシアが学園では一番身分の高い女生徒であり続けたことは不可抗力だったのだけれど。
「僕の大事な?」
という形容は、よく兄が自分にしてくれるけれど。
「リーエ?」
これは分かる。オティリエの愛称だ。
エルーシアの愛称はルシアであるが、王子が呼んだことはなかったと思う。
「いじめ?」
いつだったか、教科書を胸に抱き締めたアデラ男爵令嬢が「酷い」とか、悲しげに呟くのの横を通り過ぎたことがあって、話を聞こうと立ち止まったら、くるりと背を向けて挨拶もなく走り去られたことはあった。
「いちいち、区切って言い返すな!」
と、真っ赤な顔で王子が叫んだ。ちなみに「」以外も声になっている。
「命を奪う?」
これは穏やかではない。
噴水に頭から突っ込んでスプ濡れの様子を見かねて、「替えの衣服」を運ばせようとしていたら、姿がなくなっていた。その後、風邪で寝込んでいたというが、聞いていたより重い風邪だったのだろうか。ちゃんと対応していればという叱責ならば、
「噴水に落ちてずぶ濡れの姿は隠したいのにその場に止まるように言うなんて、気が利かず申し訳ありませんでした。」
「白々しい!」
と、王子は叫び、アデラ男爵令嬢はぴったりと王子に体を寄せて震えている。
「リーエの本やノートを汚損したり、足を引っ掻けて転ばしたり突きとばしたり、植木鉢を上階の窓から落としたり、」
王子は巻紙をエルーシアに突き付けた。
「お前がリーエに行った嫌がらせの一覧だ!」
フルーク侯爵令嬢はそれを受け取り、静かに紙面に目を落とした。
「わたし、辛くて怖くて。わたしは男爵の娘で、エルーシアさまは侯爵家の令嬢だから、エルーシアさまが白と言ったら、黒も白ですもの。逆らうなんてできなくて、」
「可哀そうに、リーエ。よく耐えた。勇敢であった。」
「殿下が、きっとわたしを守って下さるというお言葉で漸く勇気がでたのです。」
いじらしく王子に微笑んだ。それから覚悟を決めたとばかりに、エルーシアを見た。
軽く額を押さえて、エルーシアは紙から顔を上げた。
よくもまあ、と首を振る。ここは破り捨てるのがお約束かも知れないが、エルーシアは丁寧に紙を畳んだ。しかし、夜会のドレスにはポケットがないから、やや考えた末に(筒状になっている)袖にしまった。
「エルーシアさま、あなたがどんなに意地悪をされても、わたしはレーヴェンさまを心からお慕いしているんです! 」
「僕もだよ、リーエ。お前に会って人を恋うことを知った。嫉妬のあまり、お前を虐げ、剰え、亡きものとしようと謀るなど、侯爵令嬢とて許されぬ。」
音楽が欲しいところだ、と、疲労感を覚えながら思った。激しくドラムを鳴らすか、弦で歌い上げて欲しい。
「罪びとを王妃に迎え入れるなどあり得ぬ! よってお前との婚約破棄をここに宣言する!」
婚約破棄もの、楽しいですね。
皆さん書くのが分かります。




