「冥府の渡し守」亭 3
「悪かった、店で大声を上げたりして。アジェリさんも、驚かせてすまない。」
「客相手に怒鳴りだした方も責められるべきだね。」
揚げた鶏肉と野菜に、とろみのある汁をかけた一品を置きながら料理人は肩を竦めた。
「いや、オレの言い方が悪かったんだ。彼はオレを心配してくれてね。」
穏やかに微笑み、次いで店内に視線を一巡りさせると申し訳ないというように目礼を送った。それから、ふと思いついたというようにカウンターの中に言う。
「これ、在庫はあるのかな?」
示したのは自分が飲んでいた葡萄酒だ。そっぽをむいたままの主人をいい加減におし、とばかりに肘でつついてから、アジェリは頷いた。
「あるよ。この界隈で飲む連中の懐にしては割高な銘柄だけど、ちよっと贅沢したい気分の時ならやっぱりサクレと、人気は根強いからね。」
「それはありがたいね。戦前の六分ほどしかまだ供給できていないのだけど、楽しみにしてもらえているのは、励みになる。」
「おや、エヴィさんはサクレに縁がおありかい?」
「そうだね・・・家族の家があるから、たまに行って家の片付けや整理を手伝っている。」
もとの席には戻らず、自分から一つ置いたカウンター席に付いた砂色の髪の男のにやにやは目に入らないことにして、
「オレの大事な親父どのの店に来てくれたのに、しょうもない親子喧嘩をお見せして楽しい時間に水を差したお詫びと、サクレ産の宣伝も少し兼ねて、各卓に一本ずつオレから進呈させてはもらえないかな?」
張っている訳ではないのに、よく響く声だ。歓迎の声が上がるのに笑みで応える。
「各卓ということは、おれらのとこも当然受け取れるってことで? さすが大将、心遣いというのが分かってらっしゃる!」
「そうだな、各卓ということだから、カウンターは関係なしで。」
「っとお、そうきますかい!?」
慌てて戻っていったのに、いま一人が冷ややかに何ごとか言っている。やれやれと肩を竦めた青年にとって、それは見慣れたの光景なのだろう。
――知らない表情、ばかりだ。
ひょろりと伸びた丈を持て余したような少年だった。母を亡くしたばかりで、ひとり生計を立てる術を探してラジェまで来たのだと話した。読み書きと計算を身につけ、長剣を得意とし槍も扱い、騎乗もこなすことは、出身を語るに等しいことを彼は分かっていたろうか。まして父親について触れないとくれば、彼がわずか十二で独り立ちを選んだ理由は明白すぎた。
妾腹のせい、というのは偏見がすぎるかも知れないが、目立つことを好まなかった。[隊]が終わった時、彼は単純な戦闘力なら中の上、しかし体力と何より機転を加えて上クラスの評価を受けていた。実際、己の古馴染みから「(お前が引退して)手放すのなら声をかけてもいいか」という断り《はなし》もあり、それ以外にも幾つも開いた門戸はあったはずだ。結局、当人が「ひとりが気楽だ」と無所属を続けたのは、どうしようもない[隊]としての意地と、・・・過去を避けたい気持ちだろう。高名な傭兵団ほど、各国の上層に絡む機会がある。
己の感情、いや能力すら抑えて当たり前のような彼が、かつては自分やカルムといったごくごく少数の相手にしか見せなかった、素の表情を当たり前に見せているのに瞠目し、けれど心の底をちりちりと何かが炙る。
「・・・サクレに縁があったとは初耳だ。」
「そりゃそうだ。あんたと居た頃にはなかった。」
さらりと答えて、瓶に伸びた指がするりとラベルを撫でた。
「なかなかだろ。」
「ああ、戦前のとは趣が違うな。」
「一昨年のはどう・・・、」
言いさしたが、
「地域に卸して、王都にいくらか出荷した程度だから、さすがに流通かないか。」
と独りごち、瓶を取り上げると、自分と主人の酒杯を満たした。
「なんだ、なにか問題でもあったのか?」
「いや? これから毎年、違う図柄の予定なんで。」
「そりゃ手間な。それに読めん奴らは図柄で覚えていたりするんだぞ。」
「もっともだ。」
呆れたように言われ、青年は頷いたが、何故か会心と表せるような笑みを浮かべた。酒杯を取り上げ、置いたままの主人のそれに軽くあてて、ゆっくり一口含む。
「・・・どうだ?」
「わかい味だな。」
促されるように杯を手にして主人は評した。昨年の仕込みという本体の若さと、そのおくの、戦前のサクレ産には感じたことのない、つたなさ・・・真っ直ぐさをそう形容した。
「ああ。樹もひとも喪したものは多い。産は残されたから、産は使わせてもらう。だが、産にいずれ収まるんじゃない。産を着こなす。これがいまのサクレの挑戦でね。」
誇らしげに言い切る青年は、一地方について述べているに過ぎないが、【遠海】という国の在り様を伝えているようにも思えた。
すっかり中味を取り出された【遠海】の。
「お前・・・【遠海】で商売を始めたのか? で、あの二人はお前の隊商で護衛部隊の責任者を任せてる連中とかか?」
商人なら利権を巡って脅す脅されるも茶飯事か。偏見入りの推測は当人には目を丸くされ、再び他人顔を繕って、卓上に配布された葡萄酒を啜っていた二人もあからさまにこちらを見るに至っては、まったく見当違いのことを言ったと悟る。
バツの悪さに襲われて、慌てて別のことを言い出したものだ。
「いや、えーと、そっちの、そう、砂色の髪のは[大いなる山の頂]にいなかったか?」
青年の瞳は今度は異なる意味で丸くなり、名指しされた男は勢いよく立ち上がると、傭兵らしい敬礼を寄越した。
「巌のガイツに覚えていてもらえるなんて恐縮っス。リトラッドっス。」
「・・ああ、だった・・かな、」
さすがに名前までは、と口を濁していると、訳知り顔で青年が囁いた。
「ちょっと忘れられない訛りだよな。」
訛りというより発音のクセなのだろうが、ほんの僅かでしかない記憶を掘り起こしたのは、顔でも思い出でもなくまさしくそれで、主人は納得に大きく頷いていた。
「[大いなる山の頂]は【凪原】に雇われて?」
いまはもうないというのは、そういうことだ。
「はいはい、ご多分に漏れず、うちも自然解団で。」
「大変だったな。」
「あー、そンときは。でも、おれは下っ端っスから、状況わかンねぇままウロウロしてるうちに味方は壊走に入っていて,【遠海】に拘束されたのはいっそ運命ってな具合でして。」
屈託のなさは、現在にこそ彼のこだわりがあるということなのだろう。団が消滅したのであれば、敵側に雇われても問題は全くない。
「四方公爵、か。」
瞬間、彼らははっと息を飲んだのだ。無言のまま杯を傾けていた男が杯を握りしめ、リトラッドの視線は宙に、青年はカウンターの木目を睨むごとく。
「あーはいはい、声かけてもらって、」
「面識があったのか?」
「は!? は・・ま、まあ軽く?」
瞬くリトラッドをよそに、主人は、ふむと深く考え込んで顎をひとなでした。
「ということは、作りではなかったということか。」
「はいはい?」
「ほら、あれだ。公爵はラジェで傭兵をしていたことがあるという。だがなあ、ヴォルゼなんてさっぱり聞いたこともない名で、知っているというヤツもいなかったし。吟遊なんて所詮は大衆受けする作りだ。針小棒大な大衆受けを狙ったという可能性もありか、と。そういった暇潰しに出くわしたこともあったし。隊商の護衛の一員と名乗りつつ、そいつに護衛が付いてるという。」
覚えているか、と振られた青年は無言で頷いた。
「――そうか。おれも退いて経つしな。いや、本当に傭兵稼業をされていたのか。ますます凄い人物だな!」
喜色満面で頷きながら言を継ぐ。
「双短槍の使い手だそうだな? 剣ほどに長さにあつらえた短槍を両の手に携えて変幻自在の攻撃を繰り出すという。剣士としては一騎当千であり、しかも神眼と讃えられた軍師の才の持ち主で一目で戦場の得失を見抜いた陣立てをし、乱戦の中でも敵兵の吐息一つを聞きつけ必勝の陣営へと立て直すとか。」
あの昏い季節、彼らがどれほど輝かしい話題であったか。
血筋は高いが現実的な後ろ盾は無い。安寧は保障されても、飼い殺しの待遇。それでも易きにながれず血筋すら無意味な他花陸へ能力ひとつで旅立ち、けれど故国の危地を見捨てられず、異国で築いた総てを投げ打って再び海を渡ってきた王子。彼のために≪死神の狩場≫に船を渡らせた(海皇)の後継者。彼の正義を信じて、安全な自国へ戻らず戦場へ身を置いた聖女、――そして。
話の始まりは、名も無き護衛の傭兵。
現国王軍が本格化すると、軍師の才を花開かせ、王子が剣ならば、盾と謳われた。
大戦後は、軍功高く新王の信も篤い彼が当然要職を与えられてしかるべきを、傭兵上がりの分際でと蔑み妬む、生き残りの貴族らに陥れられ、反逆罪で裁かれる身に落とされた。
「吟遊詩人への注文でも、国王と公爵の人気は伯仲だ。潜伏時代や合戦記もいいが、最後の試練とばかりに仕組まれた陰謀を、ふたりが乗り越えて、悪徳貴族どもをぎゃふんといわせる件はおれも何度聞いてもこうスカッとするというか。罠に嵌められたと分かっている親友を助けたいが、自らが法を蔑ろにして国は建つのかと苦悩する国王と、新しい国に傷をつける訳にはいかないと法の裁きに身を委ねることを決めつつ、親友を置いていかねばならないことに心を痛める傭兵ヴォルザ。いよいよ審判の日が来て、裁きを受けるために国王の御前に進む。軍功により罪一等は減ずることはできるが、追放は国王にとって死別と変わらぬ永遠の別れであり、片腕を自らもぎとるに等しい。証拠、証人が並べられ、いよいよ裁きを言い渡すよりないと国王が唇を噛んだ時、新たな証人、いや弁護人が到着した。前々代の朱公爵夫人だ。そして、沈黙を守っていた傭兵が口を開いた。『傭兵このままが、あんたを単純に支えられて、単純に使い倒してもらえたのに。その貴族達より、おれはずっと面倒だぞ。』国王は静かに笑う。国王は知っていた。だが国王の手にはいかなる証拠もなく、傭兵が心を決めなければどうすることもできなかったのだ。『それでも、わたしが欲しいのはお前だ。』王は一言に万感を込め、『物好きなことだ。』傭兵は弾かれるように笑った。国王の前で不敬だと眦を吊り上げた告発者達を尻目に、胸に右手をあて芝居めく深い一礼を施した傭兵は・・・」
それは大きな吐息が聞こえて、主人は我に返った。知らず熱くなっていた。吐息の主は頬杖をついた青年だ。
「すまん、お前らに改めて語り聞かせることじゃないよな。当の公爵の下に在るんだから・・・もしかして、その場にもいたのか。」
三様に交わされた視線は是だ。
「そりゃあ凄い!」
「・・・凄いンでしょうがねぇ、腰抜かしかけたのは確かッスよ。」
何やら恨み節である。
「痛快ではありましたな。残念ながらその吟遊を聞いたことはありません。是非吟遊わせてみたいものですが。」
「冷静に成り行きを観賞できて結構なことで。知ってたのなら、ほンと話せって。」
「何度も答えたように、知っていたのではなく、推測していただけだ。そも、あの時点でわたしと貴殿はそのような秘事を打ち明けあう間柄ではなかったろう。」
「だれかがお高くて?」
「だれかの偏見で?」
剣呑な笑みを見せ合いはしても、気が置けないゆえのじゃれあいだと、彼らと同類の主人は察して微笑ましいと表情を緩めた。
「よし、吟遊詩人を呼ぼうじゃないか!この時間なら、今夜の最初の場を探して通りを流している連中が捕まる筈だ。吟遊を聞いて、何が合ってて、違うことは本当を教えてくれ!」
うきうきと給仕の娘に指示を出す主人に、
「えー、ガイツ殿は四方公爵の愛好者だった?」
青年は言葉と瞬きがない。
「――言うな。」
漸く声を絞り出しながら頬杖を解き、その左手で前髪をかきあげた。さすがに面白がるは通り越して、気遣わしげな二つの表情に肩を竦めた。
「罰ゲームだ、って笑いそうだな。」
そっと呟いたのと、
「お前、左手、ちょっと、」
瞠目した主人が手を伸ばしてくるのは一緒だった。指先を捕らえてくる。なに、と見返した目の中でひかりが弾けた。身構える時は、なく。
ぐらりと感覚がよじれる。
左右が、前後が、上下が、裡と外が。
入り組んで、入れ替わって、混じりあって、溶け合って。
―――はじかれる。




