落人き譚 4
「シンラ?」
「『そう。』」
男は微笑む。
「『その言葉 シンラが遺した言葉。』」
シンラの言葉ではなく、自分の国の言葉だ。困惑して首を傾げ、語彙の中から言葉を拾い出す。
「森羅万象・・・ということ、ですか?」
何か別のものを指している気はしているが、そうとしか返せなかった。
男は、奥の(課長席のような位置)席に視線を投げた。
こちらも男よりは細身だが、自分の基準では立派な体躯の主だ。珍しいのは髪の色で、ベースは金色なのだが、深紅の房が絶妙な配置で散っていて、華やかである。
青年はペンを止めることなく、視線を寄越すことなく、素っ気ない響きの知らない言葉を発した。雰囲気的には「忙しい」だろうか。
男と青年と、しばしやり取りが続く。
それでも書類を捌き、報告を受けていた青年だが、根負けしたばかりに、一言発した。言葉自体は分からないが、その声に応じて、働いていた人たちが手を止めて一斉に退出していったところからすると、「休憩だ」かまたはストレートに「退出しろ」か? ただし、その反応が苦笑いと生温かい笑いの中間点なのは、よく分からない。
ペンを置いた青年は、ようやく視線をこちらに向けた。値踏みするような。
男が、わくわくするような目をしているのに、厭そうに溜息をついた。
「『災難だったな。』」
唇から発されたのは、よく知っている言葉だった。
一言であっも片言ではなく、母語発音者のそれと断じたいほどの。
「『客人どの。ようこそ、とはとても申し上げられぬが。』」
言い回しは古めかしいが、間違いなく言葉が通じる相手だ。張りつめていたものが、ぷつりと切れて、視界は涙で曇った。
----それから、なかなかの時間、泣いていた・・・気がする。途中で差し出された手巾を受け取ったことは覚えていた。ぐちゃぐちゃのそれを、顔から外して、深く息を吐き出した。
社員?たちはまだ戻ってきていなかったが、青年は黙々と書類を捌いており、男はくりのような種実を小刀で剝いて笊に小山を作っていた
ドライな待ちだな、と思った。
「…すみ、ません。」
かすれてしまった声で言えば、小刀をしまった男は気にするなとばかりに微笑んだ。冷めてしまったかカップの中味を、張り付く様な喉に流し込み、もう一度、深く息を吐いた。
「『名前は?』『わたしは』ライ。」
男の言葉は流暢ではないが、励ますような視線が向けられて、どこか温かさが感じられる。
「瀬理です。高城瀬理。」
「『セリィ』」
「『エアルヴィーンだ。で、あなたはシンラのお仲間なのか、それともシンラが来たという遠き界から落ちてきたのか?』」
青年は男の隣に移動してきた。
「『状況的には、どう見ても界落だったが…、』」
「界落・・・?」
知らない、けれど何となく重苦しい響きを纏う言葉だ。
「『界落とは、ここではない界より、境を破って、この界へ落ちてくる現象を云う。』」
大真面目に、重々しく青年は説明する。
「『我らは、この界の外側に、我らの界とは違う理を持ち、異なる形の生き物が住む界が数多あることを知っている。我らはその異界を見ることも訪うこともできないが、界落によって落ちてくる事物が、それを証立てている。』」
SF、FTの中の絵空事----ではなく?
「わたし、落ちてきた、の?」
----あの、落ちる、夢は、夢ではなく?
「『君を保護した地点で、大規模な界落が観測された。対応の為、部隊が急行したが、界落狩の輩に先を越された。辛うじて君ひとりを保護し、数人を拘束したが、恐らく界物の多くは持ち去られた。君は何か覚えているだろうか?』」
「『虎みたいになった猫とか、人の首を噛みちぎった馬とか、』」
生活雑貨、学校備品と、少年と少女。女性については、もしかしたらもっといたかも知れない。思い出せる情景をつらつら、と喋った。
青年はそれをこちらの言葉で翻訳し、それを男が記録している。
「・・・で、移動させられようという時に、大きな剣を持った人がそいつを切り捨って、」
「『切ってはいない。』・・・だろう?」
「『気を失わせただけだ。』」
男が答えた。あれが、この人だったのかとしげしげと顔を眺めたが、シルエットと『暁』の一文字しか覚えていない。
「で、『君の体調はどうだろうか? かれこれ一昼夜になるが、何か違和感は?』」
突然体調を気遣われたが、これがとても大事なことだとは、その時は思いもしなかった。気遣いが素晴らしい、と感心したくらいで。
「体調的には何も。」
「『そうか。』」
テーブルの上に、青年は持参していた巻紙を広げた。地図のようだが、それは見たこともないもので、どきり、とする。
楕円、というか、梅か桃か桜の花びらのようなかたちの三つの大陸、少し離れた位置に一つの大陸が描かれている。
「「読んで?』」
「『北花陸、東花陸、南花陸、・・千切られ飛んだ花陸…、』」
最後だけ長い、と思いつつ、指で示された文字を読んでいく。青年は、とても満足そうに頷いた。
「『ノーデ・エルデ・サーデ、そしてシャイデ。我々はそう発音み、こう書く。』」
青年が別の紙にさらさらとペンを走らせた。アルファベットでもアラビア文字でも楔形文字でもヒエログリフでもなく、つまり、見たことのない(世界中の文字を知っているわけではないが)文字だ。
「『だが、この文字ならば、こちらはキタノハナリク、と読む。シンラが遺した文字と言葉だ。聖古語と称されている。』」
「そうですか。」
としか、言えない。
「『ちなみに、ここは千切られ飛んだ花陸の『遠海』という国の、《暁》という街だ。君が保護されたのは、このあたりになる。』」
青年は指を走らせながら、シャイデ・『遠海』・暁の位置を教えてくる。
「・・・はい。」
知らない地図を見つめて、初めて聞く地名に頷いても、異世界にいるのだ、という実感はまだなかった。
「----あの、」
「『なんだろうか。』」
「界落って、…よく、あること、なんですか? 」
吃驚した感じが、ない。彼らも、森のならず者たちも、対応に迷いがない。それは、つまり。
「『----珍しいことではない。このあたりでは特に。』」
大学の教授が講義するような口調だ。事務姿といい、きっとできる文官なのだろうと思った。
「『我らは界落を警戒している。何故なら、界落してきたモノの大半は変容するからだ。』」
「変容?」
「『猫が虎に、馬が化け物に。君が見た通りだ。』」
青年が見据えてくる。変容りはないか、と見定めるがごとき視線だ。
「『わたしは落界した経験がないから、語るのはおこがましいが、界を越えるときには代償が求められる。』」
「『・・好きで、落界するわけじゃなくない?』」
少なくとも、自分はそうであるし、少年もそうだろう。あの馬も、猫だって…。
答えはなかった。持っていない、それが正解かもしれない。
「『…界落してきたものは、正しく扱われなくてはならない。界魔なら除かねばならぬし、界物は見究めねばならぬ。』」
だから、と青年は、淡々と宣した。
「『君に変容する様子は、現在なく、聖古語を知る界落者など記録にない。つまり、君がこのままの状態であり続け、こちらの言葉を覚え、数多眠る聖古語の解読に力を貸せるのならば、我らは君を厚く保護するだろう。』」
実技試験のふりみたいだと思った。お眼鏡にかなえば採用で、福利厚生が調えられるということか。
まだ、あちこちぼんやりとしていた、異世界二日目の記憶である。




